大西の歴史を今に伝える大庄屋の屋敷、問われる四百年の記憶とこれから
「旧大庄屋井手家の屋敷跡(きゅうおおじょうやいでけのやしきあと)」は、今治市大西町新町の中心部に残る歴史的遺構であり、近世から近代にかけて野間郡の政治・経済・文化の中枢を担った井手家の足跡を現在に伝える貴重な場所です。
この屋敷跡の歴史をたどることは、そのまま新町の歩み、そして野間郡の村々がどのように形成され、どのように暮らしを営んできたのかを知るうえで欠かすことができません。
井手家とは?出自の謎を探る
井手家は、楠木氏(くすのきうじ)の末裔であると伝えられています。
そのゆかりを示すように、かつて屋敷を構えていた新町の「大庄屋井手家の屋敷跡」には、楠木氏の象徴として知られる菊水(きくすい)の家紋が今も残されています。
楠木氏は橘氏(たちばなうじ)から派生したとされていますが、その出自は必ずしも明らかではなく、奈良・平安期には河内国金剛山周辺を拠点とした武士団として知られていました。
鎌倉時代には河内の土豪として活動したという説のほか、商工業と関わりの深い隊商集団に由来するという説、あるいは武蔵国(利根川流域)に基盤を持つ武士団が鎌倉幕府得宗家の被官として西国へ移住したという説もあります。
鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』には、将軍の随兵として「楠木」を名乗る武士が登場しており、もとは東国の御家人であった可能性も示唆されています。
伊予楠木氏と楠木正成
さらに、南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)も、伊予橘氏の流れを汲んでいるとされています。
楠木正成は、後醍醐天皇に従い鎌倉幕府打倒に尽力した武将として広く知られています。
延元元年(1336年)5月25日の「湊川の戦い」(現在の神戸市兵庫区付近)では、数万の足利軍を前にわずかな兵で奮戦し、壮烈な最期を遂げました。
その忠義と覚悟は後世に強い感銘を与え、「日本一の忠臣」と称えられるゆえんとなりました。
正成の死後、その忠節を偲ぶ機運は時代が進むほどに強まり、明治五年(1872年)、殉節の地とされる兵庫県神戸市中央区多聞通(旧・摂津国湊川)に、楠木正成(大楠公)を主祭神とする「湊川神社(みなとがわじんじゃ)」が創建されました。
「塩崎氏と楠公信仰」伊予に伝わる楠木氏の末裔
実は、愛媛にも楠木正成の御霊を祀る社が存在します。それが、西条市の楠神社(西条市玉津318-7)と、新居浜市の若宮神社(新居浜市新田町一丁目)です。
楠木正成が湊川で討ち死にしたのち、その末裔は各地に移り住んだと伝えられています。長子・正之(まさゆき)は転戦の中で伊予を本拠としたといわれ、これが楠木氏と伊予の縁の始まりとされています。
やがて七代目にあたる楠木正国が伊予国西条へ移住し、この地で「塩崎(しおざき)」姓を称したことが、現在の塩崎氏の起源とされます。
正国からさらに四代を経た楠木正浪は天正十三年(一五八五)の戦いで討死し、その子・正安は武士を離れて農に帰り、西条市神戸において楠木正成(楠公)を祀る楠神社を建立しました。
さらに正安の弟である塩崎利右衛門が新居浜市新田地区へ移り住み、開拓に尽力する中で、楠神社から楠公の御霊を分祀し、新居浜の新田の地に祀ったのが、現在の若宮神社になります。
井手家に伝わる「楠木氏末裔」という伝承も、こうした時代の流れの中で自然に形づくられていったものと考えられます。
確実な系譜史料こそ残されていないものの、武士団の末裔が地方で名主・庄屋として地域社会を支えていったという歴史的経緯を踏まえれば、その伝承は十分に実情に沿うものといえます。
河野氏との関わり
井手家の一族は、後に越智郡へ移り住み、伊予を代表する武家であった河野氏の家臣として仕えていたと伝えられています。
河野氏は、玉澄さんの大楠の根元に眠ると伝えられる越智玉澄(おちのたまずみ)を祖とする越智氏の後裔であり、古代から中世にかけて伊予の政治・軍事・海上交通を担った名門として知られています。
中世以降の河野氏は、瀬戸内海に強い影響力を持つ河野水軍を率い、さらに能島・来島・因島を本拠とした村上水軍とも結びつきを深めながら、伊予から瀬戸内海一帯の広域を視野に入れた海上体制を築き上げていました。
この体制は、航路の安全確保、兵糧や物資の運搬、沿岸の防備などに大きく寄与し、室町・戦国期において河野氏が伊予国の有力者として揺るぎない地位を保つ基盤となりました。
井手家が河野氏に属したという伝承は、越智氏・橘氏・伊予橘氏・楠木氏という歴史的・伝承的つながりとも親和性が高く、家の出自を語るうえで地域社会に自然に受け入れられていったと考えられます。
庄屋として地域を支えた井手家
しかし、天正十三年(一五八五)、豊臣秀吉による四国攻めによって河野氏が滅亡すると、井手家も家臣としての立場を失い、浪人の身となりました。
河野氏の庇護を失った武家の多くが伊予各地へ散った中で、井手家は旧越智郡八丁村(現・今治市八丁)に移り住み、しばらくは目立たぬ暮らしを余儀なくされたと伝えられています。
とはいえ、井手家の人柄、的確な判断力、そして武家として培われてきた統率力は、地域の人々から高い敬意を集め続けていました。
戦乱が終息した直後の農村では、安定した村政の運営が最も求められた時代でした。
・田畑の管理
・用水路の整備
・年貢の取りまとめ
・村内の争論の調停
こうした村の基盤を整える役割は、経験と責任感を兼ね備えた人物でなければ務まらないものでした。
井手家はまさにその適任役で、「どうか再び村のために力を尽くしてほしい」という声が自然に広まっていきました。
村人たちの切実な願いにより、井手家は再び村政の場へと招かれ、名主として地域の中心的存在へと復帰することになりました。
ここから井手家の再興はさらに大きく広がり、井手家の三兄弟はその後それぞれの村で重要な役割を担っていきました。
井手宗兵衛清長(長男)は跡取りとして八丁村の名主として活躍し、井手藤左衛門清氏(二男)は紺原村の名主となり、のちに村の守護神である素鵞神社・紺原を創建しました。
そして、井手清右衛門清吉(三男)は新町村の名主となり、のちに真光寺・新町を創建することになります。
松山藩の成立と井手家の発展
天正十三年(1585年)、加藤嘉明が六万三千石を与えられて伊予に入封したことで、松山藩の体制が形づくられていきました。
井手清右衛門清吉が名主を務めていた新町も松山藩野間郡に組み込まれ、以後は藩政のもとで行政・村政の再編が本格的に進められていきます。
文禄三年(一五九四)九月五日には、井手家をはじめとする地域の有力者が正式に庄屋役を命じられ、藩政組織の中核として位置づけられました。
このとき井手家には「三人扶持(ふち)」が与えられています。
三人扶持とは、三人分の生活をまかなうだけの扶持米(給与米)を藩から支給される待遇であり、庄屋としての責任と期待の大きさを示すものです。
当時、扶持米は家格や功績に応じて与えられるもので、三人扶持を受ける庄屋は決して多くはなく、藩が井手家を重んじ、村政運営の中心として信頼していたことがよくわかります。
井手家はこの頃から酒造業を営み始め、さらに自前の船を多数持つことで海上輸送の分野でも力を発揮していきました。
瀬戸内沿岸の村々では、船を所有して海運に通じた家は非常に強い影響力を持つものでしたが、その中でも井手家は頭ひとつ抜けた存在となり、野間郡でも指折りの名家として知られるようになっていきます。
加藤嘉明がのちに大坂冬の陣・夏の陣(慶長二十年・1615年)に参戦した際、井手家は軍用金の調達や御用船の提供を惜しみなく行い、藩に対して極めて大きな貢献を果たしたと記録されています。
この功績によって井手家の地位はさらに高まり、藩から特別な許可が下りました。
当時の農村では、防火の観点から瓦葺き屋根は厳しく禁じられており、天水瓶(てんすいがめ)を屋根に置くことも原則禁止されていました。
これは城や代官所でさえ例外的な措置であり、一般の庄屋ではまず許されないものでした。
しかし井手家には例外として瓦葺きを施すことが認められ、さらに天水瓶の設置までが許可されました。これは藩が井手家をどれほど信頼し、功績を高く評価していたかを示す象徴的な出来事です。
井手家の屋敷は約四反(一二〇〇坪)もの敷地を持つ広大なもので、参勤交代の際には松山藩主の本陣(定宿)としても利用されるなど、野間郡屈指の名家としてその名を知られるようになりました。
真光寺の創建と古寺・古寺地蔵堂へ続く歴史
井手家の発展とともに、新町の信仰の中心を形成していったのが真光寺・新町です。
もともと寺院は新町から離れた現在の古寺地蔵堂の場所に建てられていましたが、新町村の庄屋・井手清右衛門清吉は、村の将来を見据えて寺院を新町へ移すことを決断しました。
移設にかかる費用や準備はすべて清右衛門が負担し、当時の庄屋としてはきわめて大規模な事業でした。
新町に移された寺院は、井手家の「井」と清右衛門の「清」を取って「清井山浄雲院 真光寺」と名づけられ、承応三年(1654年)には心誉秀道和尚を開山として迎え、正式に寺院としての歩みを始めました。
その後、真光寺・新町の境内整備が進むと、寺院の裏手には井手家の墓地が設けられました。
赤土で築かれた特別な塀に囲まれたこの墓所は、庄屋としての格式と井手家が地域に果たしてきた役割を象徴する場所であり、今も当時の面影をとどめています。
一方、真光寺・新町が移された旧寺院跡は「古寺(ふるでら)」と呼ばれるようになりました。江戸時代に入ると松山藩はこの古寺の地を処刑場として定め、多くの罪人がここで最期を迎えることになりました。
明治二年(一八六九)には、処刑された人々の霊を慰めるために井手家によって「大乗妙典一万一字」の供養塔が建立され、その一字一石には深い哀悼の思いが込められました。
さらにこの地には、飢饉と圧政から民を救うため命を賭して直訴し、ここで処刑された義民・八木忠左衛門の記憶も重ねられています。
忠左衛門への感謝と追悼のために地蔵尊が祀られ、やがて小さなお堂が建てられました。こうして古寺の名にちなみ「古寺地蔵堂」と称され、現在まで地域の祈りの場として大切に受け継がれています。
井手家が去った後の屋敷に残されたもの
明治四年(1871年)、新町の井手家屋敷では大規模な建て替えが行われました。
江戸時代から続く庄屋・大庄屋としての格式を保ちながら、明治維新後の生活様式や社会の変化に合わせて屋敷を整えたものとみられます。
建て替えののちもしばらくの間、井手家は新町に居を構え続け、これまでと同じように地域の人々と深く関わりながら暮らしていました。
庄屋家として長く築かれてきた信頼は明治期に入っても揺らぐことなく、井手家は新町の暮らしの中で重要な存在であり続けたと伝えられています。
しかし、時代の移り変わりとともに井手家の生活も変化し、明治後期になると一家は県外へと転出しました。
こうして、新町における井手家の居宅としての歴史はひとまず幕を下ろすことになりますが、残された屋敷は後に地域の公共施設として新たな役割を担うことになっていきます。
役場庁舎としての新たな役割へ
井手家の転出から年月が経った昭和九年(1934年)、空き家となっていた旧井手家住宅は、大井村が正式に譲り受けることになりました。
江戸以来の庄屋屋敷として広い敷地と堅牢な構えを持つこの住宅は、公共施設としての利用に適していると判断され、大井村役場の庁舎としての役割を与えられることになります。
昭和十八年(1943年)には、役場機能に合わせるため内部や窓まわりを中心に大改修が施されました。もとは庄屋屋敷であった建物が、村の行政を支える中心施設へと生まれ変わった瞬間です。
大西町役場としての時代
その後、大井村と小西村が合併して大西町が誕生すると、旧井手家屋敷は新たに「大西町役場」として引き続き使用されました。
昭和五十年(1975年)に新たな町役場庁舎が完成すると、行政機能はそちらへ移されましたが、旧庁舎となった井手家住宅はすぐに用途を失ったわけではありません。
大西町農業協同組合や大西町漁業協同組合が事務所として使用し、しばらくのあいだ地域の経済活動を支える拠点として再び活躍しました。
しかし、その役割も時代の流れとともに終わりを迎えます。協同組合の事務機能が他所へ移転すると、建物の利用は徐々に途絶えていきました。
人の出入りがなくなったことで建物の維持管理も難しくなり、屋根瓦のずれ、外壁の傷み、柱の腐食、床の沈みなど、老朽化が年を追うごとにはっきりと目に見えるようになっていきます。
平成期の保存運動
こうした老朽化の進行を憂い、「このままでは地域の歴史そのものが失われてしまう」と危機感を抱いた住民たちは、平成四年(1992年)六月、「旧野間郡大庄屋保存会」を結成しました。
会長には元大西町教育長であった近藤福太郎氏が就き、三百名を超える町民が賛同して加入したと伝えられています。
保存会は、単に「残すべきだ」と訴えるだけではなく、実際に敷地内の清掃活動を行い、屋内外の調査を進め、歴史的価値を明らかにするための資料収集や研究会の開催、会誌の発行など、地道で実務的な取り組みを積み重ねました。
また、「旧大庄屋井手家屋敷跡をどのように保存・活用していくのか」というテーマで、住民や行政を交えた話し合いも重ねられました。
郷土資料館としての活用案や、歴史教育の場、観光資源としての位置づけなど、さまざまな構想が検討されましたが、必要な改修費用の大きさ、管理人や運営体制の確保といった現実的な課題を前に、具体的な実現案をまとめることは容易ではありませんでした。
会員の高齢化や後継世代の不足も重なり、保存運動は次第に勢いを失っていきます。
平成十七年(2005年)の今治市との市町村合併を前に、長年活動を続けてきた保存会も、志半ばで解散という決断を迫られることとなりました。
市町村合併後の現状と課題
大西町が今治市へ編入されたことで、旧大庄屋井手家屋敷跡は今治市の管理物件となりました。
しかし、現時点でこの建物は市の文化財指定を受けておらず、郷土資料館として活用されることもないまま、崩れかけた姿で事実上は物置のように扱われています。
かつて野間郡を束ねた庄屋屋敷としての威容を知る者にとっては、その姿はどこか痛ましく映ります。
一方で、敷地内にそびえる大樟は今治市指定文化財となっており、根回り約五メートル、樹高二十五メートルにも達する堂々たる巨木として、井手家の繁栄と新町の歴史を今に伝えています。
初代・井手清右衛門が当地に居を構えた後に植えられたとされるこの樹は、四百年以上の歳月を超えて生き続け、屋敷の盛衰を静かに見守ってきました。
地域の行政・信仰・経済を支え続けた井手家の屋敷跡が、このまま忘れ去られてよいのか。
それとも地域の歴史を語る場として、その価値をあらためて見直すべきなのか。
旧大庄屋井手家の屋敷跡をどう未来へつないでいくのかという課題は、今も残されています。



