「衣干八幡大神社(きぬぼしはちまんだいじんじゃ)」の創建は保延元年(1135年)、伊予守であった河野親清が、石清水八幡宮を勧請してこの神社を創建したと伝えられています。河野氏は、伊予国において強大な影響力を持つ武家一族で、衣干八幡大神社は河野氏の産土神(氏神)として長く地域の守護神とされてきました。
神社の名前に含まれる「八幡」は、八幡神を祀ることを意味し、八幡神は武家の守護神として広く崇敬されていました。戦の神としても知られる八幡神は、戦国時代において特に重要な信仰の対象となり、多くの武将たちに崇められていました。
軍事拠点としての衣干山
元弘年間(1331〜1334年)および建武年間(1334〜1338年)には、衣干山は武将たちの居城として利用されていました。この山は、戦略的に非常に重要な場所であり、戦乱の時代にはその価値がさらに高まりました。周囲の地形を見渡すことができるこの丘は、軍事的な要地として多くの武将たちに重宝されました。
藤堂高虎と今治城の築城
慶長7年(1602年)、今治城の城主である藤堂高虎がこの地に目を付け、今治城を築城する際の重要な拠点として衣干山を利用しました。藤堂高虎は、桜井の古国分にあった国府城を解体し、その石材や土砂を運搬する中継所として衣干山を活用しました。
衣干山の形成に関する伝説
衣干山の現在の形状については、いくつかの伝説が伝えられています。一説によると、今治城の築城中に運搬されていた石材や土砂が、この場所でこぼれ落ち、それが積もり積もって現在のような小高い丘が形成されたと言われています。また、別の説では、今治城が完成した際に余った土をこの場所に積み上げたことが、衣干山の現在の形状に影響を与えたとも伝えられています。
「拝志騒動」戦略的重要性を証明した事件
1604年(慶長9年)には、衣干山の戦略的な重要性を証明することになる「拝志騒動」の舞台となりました。
1604年7月、藤堂高虎は、徳川家康に伺候するために徳川家康の居城である駿府(現在の静岡市)へ赴いており、養子である藤堂高吉が今治城の留守を預かっていました。藤堂高吉は、忠実な家臣である「星合忠兵衛(ほしあい ちゅうべい)」に、主君の藤堂高虎へ中元の挨拶をするため、使者として駿府へ向かうよう命じました。
しかし、この忠兵衛に深い恨みを抱く人物がいました。それが、藤堂家に仕える小者である「太郎兵衛(たろべえ)」という人物です。太郎兵衛はかねてから忠兵衛に対して強い恨みを持っており、その復讐の機会を伺っていました。そしてついにその機会が訪れます。
忠兵衛は、明朝の早朝に出立する準備を整え、家路を急いでいました。しかし、その途中、太郎兵衛は暗闇に潜み、忠兵衛が油断した瞬間を狙って、一気に襲いかかりました。そして忠兵衛は防御する間もなく、太郎兵衛によって斬り殺されてしまいました。
その後、太郎兵衛は鷹匠(たかじょう)の彦太夫という人物の助けを借り、今治城の東に位置していた拝志郷に逃げ込みました。家臣を無惨に殺され激怒した藤堂高吉は、逃亡者を捕らえるために、家臣の淵本権右衛門と弟の淵本馬左衛門に追跡を命じました。二人は彦太夫の案内で拝志に赴きましたが、突如として彦太夫は権右衛門に襲いかかりました。しかし、馬左衛門は強く逆に斬り捨てられました。
恨みを晴らした太郎兵衛は鷹匠彦太夫という人物の助けを借り、藤堂家の領地である今治を離れ、拝志郷に身を隠しました。この頃、拝志郷を治めていたのが拝志城の城代を務めていた、加藤嘉明の弟である加藤内記でした。
この事件を知った藤堂高吉は激怒し、すぐに家臣である淵本権右衛門とその弟淵本馬左衛門に、逃亡した太郎兵衛と鷹匠彦太夫の探索を命じました。二人は、太郎兵衛と彦太夫が隠れているとされる拝志郷へと向かうため、案内役として鷹匠彦太夫を立てました。
淵本兄弟が彦太夫の案内で拝志郷に向かったところ、彦太夫は突然裏切り、先頭に立っていた淵本権右衛門に襲いかかりました。しかし、その場で弟の馬左衛門が素早く反応し、彦太夫を一刀のもとに斬り捨てました。
しかし、この一連の行動を見て拝志の町人たちは、「今治の侍が拝志の者を襲った」と騒ぎ、町は大混乱に陥りました。この混乱の中での探索は不可能であると判断した淵本兄弟は、拝志郷を離れる決断をし、回り道をしながら今治城へと帰りました。そして、この出来事を藤堂高吉に報告したのです。
この報告を聞いた藤堂高吉はさらに激怒しましたが、この事態を収めるために家臣の渡辺庄左衛門を拝志郷に派遣しました。渡辺は、拝志の人々に事件の謝罪と事情説明を行おうとしましたが、拝志の町与力五右衛門(苗字不明)がこれを聞き入れず、馬上の渡辺を槍で突き殺してしまいました。
この報告を受けた高吉の怒りは遂に頂点に達し、自身の親衛隊である馬廻衆を引き連れ進軍を開始。 そして高吉の軍勢は、領分境である衣干山(絹乾山)の「衣干城(衣干砦)」に到着しました。そして、加藤領に攻めるためにこの場所を軍事拠点にして戦の準備を始めました。
このままでは藤堂家と加藤家の間の全面戦争になってしまう…。この危機的な状況を危惧した藤堂家の家臣たちは、高吉を必死に説得し、なんとか両家の激突を回避することに成功しました。
最終的にこの事件は江戸幕府の裁定に委ねられました。そして幕府は加藤家側の非を認め、加藤嘉明の弟である忠明を追放することで事態を収束させました。
この事件は、「衣干城(衣干砦)」が当時いかに重要な軍事拠点であったかを示す出来事でした。残念ながら、長い年月の中で衣干城はその姿を消してしまいましたが、その歴史的な意義は今なお地域の人々に語り継がれています。
覚理法皇と「衣干」の伝説
衣千八幡大神社には、古くから語り継がれている伝説がいくつか存在します。
まず一つ目の伝説は、南北朝時代の文中二年(1373年)、南朝の皇族であった覚理法皇も命を狙われており、新居郡御所寺(現在の愛媛県新居浜市周辺)から密かに舟で避難したという話です。
覚理法皇は、南北朝時代の天皇である長慶天皇(ちょうけいてんのう)の弟であり、本名は恒性親王(つねながしんのう)でした。恒性親王は後醍醐天皇の皇子で、出家して僧侶となった後、法名「覚理」を名乗っています。この時代、皇統は南朝と北朝に分かれ、互いに激しい争いを繰り広げていました。そのような中、覚理法皇が避難先として選んだのが、現在の衣千八幡大神社があるこの丘でした。
伝説によると、覚理法皇が夜明け前にこの地に上陸した際、御衣が夜露で濡れてたため、御衣を乾かすために神社の岩の上に干したことから、この地は「衣干(きぬほし)」と呼ばれるようになったといいます。それと同時に、神社も「衣干八幡宮」と名付けられました。
後に、この神社は「衣千八幡神社」と改称され、今日にでは「衣千八幡大神社」と呼ばれる様になったと言います。
伝説の龍女が残した衣干物語
もう一つの有名な伝説が「龍女伝説」です。
この地域は現在のような陸地が広がるものではなく、昔は満潮時には海水で沈み、干潮時には水が引いて人が歩ける土地が現れるという環境だったとされています。伝説によると、龍女は海から龍登川をさかのぼり、玉川町にある作礼山(現在の仙遊寺が位置する山)に向かいました。その目的は、この山で立派な観音像を彫り上げることでした。
龍女は、一刀刻むごとに三度礼拝を行い、長い年月をかけてついに観音像を完成させました。無事に観音像を完成させた龍女は、今度は龍登川を下って海へと帰っていきました。その途中、この場所に寄り道をして休憩をとりました、その時に濡れた衣を干したことから「衣干」という地名の由来となったと言われています。
龍女が川を遡る途中でこの場所に立ち寄り、しばらくの間休息を取った際、龍女が濡れた衣を干したことが「衣干」という地名の由来となったと言われています。
「壇ノ浦の戦い」源氏が滞在した地
『平家物語』にも登場する日本史上の重要人物、「源義朝(みなもと の よりとも)」の弟、「源義経(みなもと の よしつね・源九郎義経)」が衣干山に滞在していたという話もあります。
源氏と平家の滅亡をかけた戦い「源平合戦」が始まる前、平家は長く朝廷や貴族との関係を築き、権力を握っていました。平清盛が朝廷内で台頭し、平家は栄華を極めましたが、その一方で専横な政治や経済的な重圧が周囲からの反感を招きました。
この頃、源氏は「平治の乱(1159年)」で多くの源氏が平家に討たれ、源義朝の父「源義朝(みなもと の よしとも)」も殺害されるなど、源氏は大きく力を失っていました。
頼朝も幼少期に伊豆へ流罪となり、平家に監視されながら育ちました。しかし、日本各地で平家への不満が蓄積する中で、少しずつ源氏再興の機運が高まっていきました。
そして治承4年(1180年)、白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が発した「平家打倒の令旨」に応じ、源頼朝が伊豆で挙兵しました。この「令旨」は、当時の政治と軍事の両面で支配力を強めていた平家に対抗するため、全国の武士たちに結集を呼びかけるものでした。
この一報を聞いた平清盛(たいらの きよもり)は、直ちに討伐の準備を進め、9月29日には討伐軍を編成し、京から出陣させました。
これが「源平合戦」の始まりです。
平家はこの時点で朝廷と軍事を掌握し、経済力も蓄えていましたが、関東での源氏の勢力拡大を放置することはできなかったのです。
しかし、平家の強大な権力をもってしても、この討伐は思うように進みませんでした。
関東では多くの武士たちが次々と頼朝に合流し、信濃や甲斐など他の地域にも反平家の動きが広がっていきました。
この状況は平家にとって予想外であり、平清盛が送り出した討伐軍も、富士川の戦いで敗北を喫し、頼朝の勢いを抑えることができませんでした。
こうして「源平合戦(治承・寿永の乱)」は本格的な内乱へと発展し、日本各地を舞台に源氏と平家が覇権をかけた長く激しい戦いを繰り広げることになりました。この争いは、武士が主導する日本初の全国的な戦乱でありました。
文治元年(1185年)、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で行われた「屋島の戦い」において、源義経は平家軍に対して巧妙な奇襲を仕掛け、平家軍を一時的に退けることに成功しました。
義経は少数の兵を率い、夜間にあえて火を焚いて平家軍を威嚇し、大軍が攻め込んできたかのように見せかける奇策を用いました。これによって平家側は混乱し、一部は海上へと退却しました。この戦いの中で、那須与一が見事に「扇の的」を射抜くというエピソードが生まれ、後世に語り継がれる伝説となっています。那須与一の一射は、源氏軍の士気を大いに高める象徴的な出来事でした。
この戦いは、平家が西国に拠点を移した後、海上拠点の一つである屋島に布陣していた平家に対し、義経が攻勢をかけた場面であり、源平合戦においても重要な局面のひとつでした。
しかし、平家を完全に壊滅させることはできませんでした。
屋島の戦いで、源義経は奇襲によって平家軍に一時的な勝利を収めましたが、平家軍は海上へと逃れ、義経軍は水軍を持っていなかったため追撃することができませんでした。
結果として、平家が擁する安徳天皇や三種の神器の奪回も叶わず、戦果は限定的なものでした。このため、今後の戦において、義経は今後平家に対抗するためには、強力な水上戦力が必要であることを痛感したと考えられます。
このような状況の中で、義経は次の一大決戦(壇ノ浦の戦い)に備えて、和歌山の「熊野水軍」と、伊予の「河野水軍」に頼ることにしました。
実は、屋島の戦いでの勝利は、河野氏の活躍が大きく影響しています。河野氏が平家側の陸上部隊である田口教能の部隊を伊予へ引きつけていたため、阿波や讃岐における平家軍勢が手薄となり、義経の奇襲が成功する環境が整っていました。
この河野氏の支援があったからこそ、義経の少数精鋭部隊による奇襲作戦が功を奏し、屋島の戦いでの勝利が可能となったのです。
このことから、源義経は平家討伐の準備のために、今治に一定期間滞在して、河野氏の指導のもとで水上戦術を学び、海上での戦闘に備えていたと考えられます。
この説を裏付けるように、義経が奉納した鎧が今も河野氏ゆかりの大山祇神社(大三島)の国宝館に残されています。
この鎧は、河野氏の当主であった河野通信(こうの みちのぶ)の出陣前の慣例である戦勝祈願の儀式に義経が参加し、平家との戦いでの勝利を祝して奉納したものと伝えられています。
この戦勝祈願は、壇ノ浦の戦いの直前、義経の兄・源範頼が陸上から平家を追撃するタイミングに合わせて義経が出陣するための祈りでもありました。そのため、義経は河野氏とともに大山祇神社で祈願を行い、壇ノ浦の戦いでの勝利後にその感謝の気持ちを込めて鎧を奉納したとされています。
そして義経が今治に滞在していた場所として伝えられているのが、河野氏の産土神(氏神)でもあった衣千八幡大神社です。
八幡大神社に祀られている八幡神は、戦の神として武士たちの守護神とされ、武運を願う武士たちに篤く崇められました。源氏も八幡神を代々信仰しており、戦いに臨む際には必ず八幡神の加護を願う習わしがありました。
その風習は古く、源氏の祖である源義家(八幡太郎義家)は、戦において八幡神の加護を受けたとされ、勝利を収めるたびに八幡神に感謝を捧げました。この義家の信仰が源氏の間で広がり、以後、源氏一族は八幡神を「武運の神」として崇敬するようになったのです。
源義経も、この八幡信仰を受け継ぎ、戦に臨む際には必ず八幡神の加護を求めました。このため、平家討伐の準備を進めるために今治に滞在していた際には、河野氏の氏神である衣千八幡大神社に滞在していたと考えられるのです。
地域に根付く信仰と自然遺産
これらの伝説が残る丘は松林に覆われており、昭和50年(1975年)に今治市の指定保存樹として登録され、地域の自然遺産として大切に保護されています。松林は四季折々の風景を楽しむことができ、神社の厳かな雰囲気をさらに引き立てています。
明治42年(1909年)には、衣干八幡大神社に横田の地に祀られていた大名持神社が合祀され、地域の信仰の中心としての役割がさらに深まりました。そして現在に至るまでその重要な役割を果たし続けています。