「鹿児神社(かのこじんじゃ)」は、愛媛県今治市の鹿ノ子池を守護するために創建された神社で、その歴史は江戸時代初期までさかのぼります。
鹿ノ子池は、今治市において地域の農業を支える重要な水源でした。しかし、江戸時代にはその規模が小さく、干ばつ時には十分な水が確保できないという深刻な問題がありました。この問題は地域住民の生活に大きな影響を与え、農業の発展を妨げる要因となっていました。
今治藩の取り組んだ鹿ノ子池拡張工事
この問題に取り組み始めたのが、江戸時代初期、寛永12年(1635年)に今治藩の初代藩主となった松平定房(まつだいら さだふさ)公でした。松平定房公は、今治藩の発展と地域住民の安定した生活を確保するために、蒼社川や頓田川の治水事業に力を注ぎました。
治水工事は成功し、川の管理が改善されたものの、地域の農業にはさらなる課題が残っていました。それは、農業用水を供給するための水源である鹿ノ子池(かのこいけ)の規模が小さく、干ばつ時には十分な水を確保できないという問題でした。鹿ノ子池は、地域の農業を支える重要な池でありながら、その容量不足が地域住民にとって深刻な問題となっていいたのです。
この問題を解決したのが、六代目藩主である松平定休(まつだいら さだやす)公でした。
1771年(明和8年)、六代目今治藩主である松平定休公は、地域の農業用水の確保を目的に、鹿ノ子池の大規模な拡張工事を開始しました。この工事は、池の近くに住む村人たちの総出での協力を得て、実に29年もの歳月をかけて進められました。そして、1799年(恵政11年)にようやく工事が完了しました。
この拡張工事では、現在も池の中央部に「古土手」として残る堤防跡の外側、新谷村大野側へと池が広げられました。新たに築かれた200メートル以上の堤防により、鹿ノ子池は倍以上の貯水量を持つ大きな池へと生まれ変わり、農業用水の供給が安定し、地域の農業生産が向上しました。その結果、地域の人々の生活は大いに改善され、干ばつによる水不足の心配も解消されました。
鹿児神社の設立
鹿ノ子池の拡張工事が成功し、池が地域の農業に果たす役割が一層大きくなったことで、この池を守護する神社の設立が強く求められるようになりました。
そこで、寛政11年(1799年)9月6日に、大三島にある大山祇神社に祀られている、山の神、海の神、そして豊穣の神として広く信仰されている大山積ノ神(おおやまづみのかみ)を勧請し、新たに神社が作られました。これが「鹿児神社」です。
「ノットヤ」の習わし
鹿児神社の社殿を建設する際、特に敬神の念が厚く、多額の寄付を行った家々には、特別な役割が与えられました。祭りの際には、これらの家々にお神輿が据えられ、神主が出向いて祝詞(のりと)を奏上するという特別な習わしが行われました。
祝詞(のりと)とは、神事や祭典において、神職が神さまに奉げる祈りの言葉です。日本の神道において、祝詞は極めて重要な役割を果たします。祝詞は、神さまに対する感謝や祈願を表現するものであり、その内容は、神さまを称える言葉、地域の繁栄や安全を願う言葉、そして祭典の意義を説明する言葉で構成されています。
祝詞の奏上は、神さまと人々を繋ぐ大切な儀式とされ、神職が祝詞を読み上げることで、神さまにその言葉が伝えられると信じられています。したがって、祝詞は神事の中心的な要素であり、その内容や形式は厳格に守られています。
これらの家々は「ノットヤ」と呼ばれ、地域の中でも特別な存在として尊重されていました。「ノットヤ」という言葉は、「祝詞」を奉げる家を意味する「祝詞屋(のりとや)」が変化したものと考えられています。つまり、特に敬神の念が篤い家々が「ノットヤ」として、祭りの際に神聖な祝詞を受ける特別な役割を担っていたのです。
「ノットヤ」として呼ばれた家々は、地域社会において特別な敬意を持って扱われ、その役割は代々受け継がれていきました。
鹿ノ子池の堤防とその修復
鹿ノ子池の拡張工事によって築かれた堤防は、地域の農業を支える生命線として、長い間その役割を果たしてきました。大正15年(1926年)の豪雨災害によって一部の堤体が損壊した際にも、迅速に復旧作業が行われ、昭和17年(1942年)には堤体の補強も実施されました。
しかし、200年以上が経過する頃には老朽化が進み、その安全性が懸念されるようになりました。
この状況を受けて、地域社会からの強い要望があり、愛媛県は昭和58年4月に本格的な改修工事に着手しました。平成3年3月にこの工事が無事に完了し、鹿ノ子池は再び地域の農業を支える重要な水源としての役割を果たすことができるようになりました。
鹿ノ子池、そしてそれを守護する鹿児神社は、これからも地域社会の基盤を支え続け、地元の人々の心のよりどころとなっていくことでしょう。