今治市桜井地区に位置する「細埜神社(ほそのじんじゃ)」は、この地を開拓した先駆者である長野孫兵衛(ながの まごべえ)を祀る歴史深い神社です。
長野孫兵衛の生涯と家族背景
長野孫兵衛、本名長野孫兵衛通永(ながの まごべえ みちなが)は、江戸時代初期の庄屋であり、今治市桜井地区の発展に大きく貢献した人物です。生年は不詳ですが、承応3年(1654年)に没したとされています。
孫兵衛の父は、河野十八将の一人である正岡経政の旗本衆で、幸門城(今治市玉川町龍岡)の城主を務めた長野通秀です。通秀は、戦国時代末期の武将として活躍し、地元では有力な領主として知られていました。また、通秀は越智郡葛谷村(現在の愛媛県吉海町)にある瀬尾山城の城主でもあり、その地域の防衛を担っていました。
しかし、時代は戦国の世。日本全国で勢力争いが激化し、各地の領主たちは生き残りをかけた戦いを繰り広げていました。
四国征伐と長野通秀の運命
天正13年(1585年)、天下統一を目指した豊臣秀吉は四国を完全に平定するため、「四国征伐」と呼ばれる大規模な軍事作戦を開始しました。当時、四国は土佐の長宗我部元親を中心に、いくつかの有力な大名が支配していました。長宗我部氏は四国全土を支配下に置こうとしていましたが、その勢力拡大を脅威と感じた秀吉は、この征伐を決意しました。
秀吉は、小早川隆景を主力とし、羽柴秀長や黒田孝高といった有力な武将たちを指揮官に据え、四国の各地に大規模な軍を派遣。瞬く間に進軍していき、四国にあった多くの城を次々に攻め落としていきました。
この戦の中で、長野通秀は地元の豪族の一人として、西条市氷見の野々市原での戦いに参加しました。しかし、天下の兵の圧倒的な軍勢に対抗することはできず、命こそ助かったものの負けてしまいました。この敗北により、通秀の一族は領地を奪われ武士としての地位を失ってしまいました。
敗北後、長野通秀は自身の故郷である別名村(べつみょうむら)に戻り、かつて地元の有力者が住んでいた古い館に身を寄せ、隠遁生活を始めました。
開拓の歴史
武士としての生活を捨て、農民として新たな生活を始めることになった通秀は、その後、隠遁生活を送っていました。しかし、時が経つにつれて、家族に新たな転機が訪れました。通秀の長兄である通勝が、国府城主の福島正則に仕えることになり、その縁で通秀の息子である孫兵衛も、新たな機会を得ることになりました。
寛永15年(1638年)春、孫兵衛は桑村郡黒谷村の長井甚之丞ら18人の家来を連れて、長沢村に属する匡王山(猪追山)の山麓を開拓をはじめました。この時期、多くの新城主たちは帰順した有力な地元豪族を巧みに使っており、孫兵衛の兄が福島正則に召し抱えられたことで、領主主導型の新田開拓の指揮者として孫兵衛が選ばれたのでしょう。
孫兵衛は、古くから開拓が行なっていた周桑郡黒谷村(現在の東予市)の長井甚之丞と親交を深め、指導を受けながら開拓事業を進めました。そして慶安元年(1648年)には、村の石高が61石余に達するまでに成長しました。
孫兵衛が開拓を進めていた「孫兵衛作村」は、標高30メートル前後の微高地に位置していました。この地形では、農業を行うために水を確保することが非常に重要であり、そのためには灌漑用の溜池を造成することが不可欠でした。しかし、開拓がまだ完了していない承応三年(1654年)9月27日、孫兵衛は病に倒れ、志半ばで亡くなってしまいました。
しかし、孫兵衛の死後も後継者たちは遺志を引き継いで開拓を続けました。
寛文2年(1662年)に、ついに灌漑用の溜池である「匡王池」が完成しました。この溜池の完成により、孫兵衛が存命中に進めていた開拓事業は大きな進展を見せ、長沢村から分村独立し、「孫兵衛作村」として新たに誕生しました。
その後の開拓事業は、長井甚之丞の次男である又四郎実能が、孫兵衛の婿養子として迎えられ、引き継がれました。そして孫兵衛作村の庄屋として、又四郎実能とその子孫たちは、村の運営や発展に重要な役割を果たしていきました。
この年の9月、村人たちは、偉大な開拓者である孫兵衛の功績を讃え、向山の山頂に孫兵衛を祀るための神社「産土権現宮」を建立しました。
産土権現宮は、孫兵衛を村の守り神として祀る神社であり、村人たちの信仰の中心となりました。この神社は後に、安政元年(1855年)に「細埜神社」と改名され、孫兵衛の名と功績は神社を通じて後世に伝えられることとなりました。
現在も続く開拓の歴史
孫兵衛作村には、現在も開拓の歴史が深く根付いており、それは村の住民たちの姓に現れています。村の多くの住民は「長野」「長井」「野間」「越智」という姓を持っています。これらの姓は、孫兵衛作村の開拓者たちとその一族と、関連する縁者の子孫たちが代々受け継いできたものです。
長沢村との関係
孫兵衛作村は、長沢村から分村したものの、新田開発や村の成長には長沢村との協力関係が必要でした。特に新田開発には隣接する長沢村の協力が必要不可欠だったため、両村の間で強い協力関係が築かれました。
両村の関係は、単に物理的なインフラの協力にとどまらず、文化的な結びつきによっても強化されました。毎年5月5日に行われる例大祭は、その象徴的な例です。この祭りでは、長沢村の須賀神社と孫兵衛作村の細埜神社の氏子たちが一緒にお神輿を担ぎ、両村の神事が連携して行われます。この共同の祭りは、地域の住民が一体となり、歴史と伝統を共有する重要な機会となっています。
蛇越池・蛇池の「龍女伝説」
医王池は、地元では「蛇越池(じゃごしいけ)」や「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれ、その名は古くから伝わる神秘的な伝説に由来しています。この池には、地域の人々に語り継がれてきた二つの有名な伝説があります。
一つ目の伝説は「龍女伝説」です。
昔、蛇越池には大蛇が住んでいました。この大蛇は時折、美しい女性に姿を変えて村に降り立ち、村人たちはその姿を「龍女様」と呼んで崇めていました。
村人たちは、この池がどんな干ばつの年でも水を絶やさないことから、龍女様が住む池に対して深い敬意を抱いていました。
しかしある年、大変な日照りが続き、田畑の作物が枯れてしまうほどの被害が出ました。そんな時でも村人たちは「龍女様の住まわれる池だから…」と池の水を使わずに少しだけ残していました。
それでも雨は降らず、村の状況は悪化していきました。
ある日、村人たちは、わずかに残った池の水を見つめながら「この水を、田畑に使わせてもらえないか龍女様にお願するしかない」と話し合っていました。
その話を池の中から聞いていた龍女は、村人たちの前に現れ、「私はこの池を出て海に行くことにしますので、大丈夫です」と告げ、池の北東の隅から山を越えて海岸へと向かっていきました。
この出来事が「蛇越池」という名前の由来となったといわれています。
「水呑龍伝説」
もう一つの伝説が「水呑龍伝説」です。この伝説は、近くの世田山に鎮座している「栴檀寺(せんだんじ)、通称「世田薬師(せたやくし)」にまつわるものです。
伝説によると、世田薬師に祀られている龍が夜な夜な寺を抜け出し、蛇越池の水を飲み干してしまっていました。そのため、この龍が池の水を飲み尽くす様子から、池は「蛇池」とも呼ばれるようになったといわれています。
特に干ばつの時期には、村の田んぼは干からび、農民たちは非常に困っていました。水がないため、稲は枯れ、作物も育たず、村人たちは不安と焦りに包まれていました。
そんな状況に怒った村人たちは、この龍を八つに切り分け、「かすがい」で止めてしまったのです。それ以来、龍が水を飲んで困るという話は聞かれなくなりました。
現在、この龍は世田薬師の本堂で穏やかに過ごしているといわれています。
周辺の湿地帯とその自然の宝庫
医王池の周辺には、約50アールにわたる豊かな湿地帯が広がっており、このエリアには多くの珍しい植物が自生しています。この湿地帯の中でも特に目立つのが、白く美しいサギソウで、この植物は池のシンボルとして知られています。サギソウは湿地の代表的な植物であり、その優雅な姿は地元の自然愛好家たちにも広く愛されています。
また、湿地にはミズトンボやネジバナなどのラン科植物も数多く生育しており、これらの植物は非常に貴重な存在として地域の自然保護の対象となっています。さらに、モウセンゴケといった食虫植物もこの湿地で見られ、湿地の多様な生態系を象徴しています。これらの植物は、湿地の独特な環境を支える重要な要素です。
この豊かな自然環境は、昭和25年に愛媛県指定天然記念物に指定され、地域の宝として大切に守られています。この指定は、湿地の生態系を保護し、その価値を次世代に伝えるための重要なステップとなりました。
また、この自然環境は、地域の教育や文化活動にも深く根付いています。例えば、地元の小学校では毎年「サギソウフェスティバル」が開催され、子どもたちが湿地の植物を観察し、自然の大切さを学ぶ場となっています。このフェスティバルは、地域の自然環境保護の重要性を子どもたちに伝えるとともに、地域全体で自然との共生を考える機会となっています。