国分の位置する「春日神社(かすがじんじゃ)」は、奈良時代から続く国分寺と深く結びついており、歴史的にも宗教的にも重要な役割を果たしてきました。
春日神社の創建と国分寺との関係
春日神社の創建は、後冷泉天皇の治世である永承五年(1050年)にさかのぼります。この年の8月、国分寺の12代目住職であり、権大僧都(けんだいそうず)という高位の僧職にあった雲海(うんかい)が、奈良の春日大明神を国分寺の鎮守として勧請し、寺内に春日神社の社殿を建立しました。
権大僧都は、寺院運営や地域の宗教的指導において大変重要な役割を担う地位であり、雲海はその卓越した信仰と指導力をもって、この地における仏教と神道の融合を推進した人物として称えられています。
春日大明神の勧請と藤原氏の影響
雲海が勧請した春日大明神は、奈良の春日大社を本源とし、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)という四柱の神々を祀ります。これらの神々は、国家鎮護や武運長久を祈念する非常に重要な神々であり、特に藤原氏一門に深く崇敬されていました。
藤原氏は、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治を主導した有力な貴族一族であり、朝廷においても絶大な影響力を持っていました。自らの氏神として春日大明神を崇敬し、奈良の春日大社を精神的支柱として位置づけていました。また、春日大社は藤原氏一族の氏寺である興福寺とともに、藤原氏の宗教的な拠点となり、政治的な力を支える重要な要素となっていました。
藤原氏の一門が伊予国(現在の愛媛県)に赴任した際、その影響力は地域の信仰にも強く反映されました。国分寺が所在するこの地域においても、藤原氏の権勢は顕著であり、藤原氏が崇拝する春日大明神を国分寺の守護神として祀ることは、藤原氏の信仰と政治的な影響力を地域に及ぼす一つの手段であったと考えられます。
関ヶ原の戦いと福島神社
慶長5年(1600年)、日本の歴史を大きく変えた関ヶ原の戦いが行われました。この戦いで、徳川家康率いる東軍が勝利を収め、全国の大名たちの領地が再編成されることになりました。伊予国(現:愛媛県)もその例外ではなく、東軍に属していた藤堂高虎(とうどう たかとら)と加藤嘉明(かとう よしあきら)の二人によって分割統治されることが決まりました。
藤堂高虎は、戦いの前から伊予板島(現在の宇和島)に八万石の領地を持っていましたが、関ヶ原の戦いでの功績が評価され、領地が二十万石に引き上げられました。一方、加藤嘉明は伊予松前(現在の松山市)に十万石を領していましたが、同じく功績により二十万石に引き上げられました。
この領地の引き上げは、戦前に西軍に属していた安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、来島康親(くるしま やすちか)、小川祐忠(おがわ すけただ)らの領地が東軍側に分割され、再配置されたことによるものです。
この結果、伊予国は新たな支配体制のもとで再編成され、府中平野(現在の今治市周辺)を含む広範な地域に藤堂氏と加藤氏の所領が混在する形となりました。
藤堂高虎が伊予国の領地を与えられた際、当初は東軍の福島正則が居城にしていた国分山城(唐子山城)に入っていました。国分山城は、標高105.3メートルの唐子山に築かれており、その戦略的な位置は軍事的には優れていたものの、交通の便が悪く、周囲の地形も発展には不向きでした。
そこで、別の場所に城を移す必要があると判断した藤堂高虎は、慶長9年(1604年)に今治城を築城しました。
一方、国分山城はその役割を終え、廃城となりました。国分山(唐子山)の山頂には、かつて福島正則を祀った福島神社がありましたが、後に春日神社に合祀され、現在では「福島さん」として地域の人々に親しまれています。
「松山藩」としての春日神社
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、伊予国は徳川家康の勝利により、東軍側の大名たちによって分割統治されました。伊予国は、藤堂高虎が宇和島周辺を治め、加藤嘉明が松山城を拠点に松山藩を統治しました。しかし、伊予国にはこの2つの藩以外にも飛地や小規模な領地が存在しており、複雑な支配体制が敷かれていました。
その中で、古国分村(現在の愛媛県今治市付近)は松山藩の飛地として統治されていました。古国分村には、春日神社や国分寺など歴史的に重要な寺社があり、地域の信仰の中心として栄えていました。飛地となった背景には、伊予国内の領地分割の影響があり、松山藩の支配領域が飛び地として広がっていたためです。
その後、1635年(寛永12年)に松平定房が今治藩を創設し、藩主として今治地域を治めるようになりましたが、古国分村は引き続き松山藩の飛地として残されました。そして、1765年(明和2年)の領地替えによって、古国分村は今治藩領に編入され、松山藩による支配は終了しました。
これによって国分寺や春日神社も今治藩の一部になりました。
「神仏分離令」神仏習合からの分離
その後、春日神社は何度も再建や造営が行われ、地域の信仰の中心としての地位を維持してきました。
しかし、明治時代に入ると、日本の宗教政策に大きな変化が訪れます。それが明治元年(1868年)に発布された神仏分離令です。
神仏分離令は、明治政府が発布した政策で、神道と仏教を分離し、それぞれを独立した宗教として明確に区別することを目的としていました。この政策の背景には、明治政府が国家神道を確立し、天皇を中心とした新しい国民統合の象徴として神道を重視する方針がありました。これにより、日本各地で長年続いていた神仏習合の信仰形態が大きく変革を迫られることになりました。
春日神社もこの神仏分離令の影響を大きく受けました。それまで、春日神社には仏教的な要素が合祀されており、地域の信仰の中で仏教と神道が密接に結びついていました。しかし、神仏分離令が施行されると、神道と仏教の要素を明確に分けることが求められ、春日神社に祀られていた仏教的な要素は全て取り除かれることとなりました。
これにより、春日神社に合祀されていた地蔵菩薩が国分寺に移され、春日神社は旧国分村の村社として独立。国分寺とは別個に独立した神社としての歩みを始めることとなりました。
独立した神社としての歩み
明治9年(1876年)には、社地調査が行われ、その結果、国分寺の境内地167坪が正式に春日神社の境内地として定められました。この決定により、春日神社は独立した神社としての基盤をさらに強固にし、地域における重要な信仰の場としての地位を確立しました。
さらに、昭和44年(1969年)には、氏子たちの寄進と奉仕によって社殿が改築されました。この改築により、春日神社は再び地域の信仰の中心として活力を取り戻しました。また、長らく途絶えていた大人神輿の伝統もこの時期に復興され、地域の祭りや行事において重要な役割を果たすようになりました。