「伊加奈志神社(いかなしじんじゃ)」は、愛媛県今治市五十嵐(いかなし)に鎮座する古社で、地域の人々から長く信仰されてきました。
この神社は、古くから「総社明神(そうじゃみょうじん)」とも呼ばれ、伊予国の神々を一か所に集めて祀る総社として重要な役割を果たしていました。
神社近くの「蒼社川(そうじゃがわ)」の名前も、この総社に由来しています。
また、越智郡における比定社の一つとして、古くから地域の信仰と結びついてきました。比定社とは、歴史的な資料や口伝などに基づいて特定された神社を指し、これによりその神社がかつてどのような役割を果たしていたかがわかります。
さらに、伊加奈志神社が鎮座する周辺の地域は、かつて「鴨部(かんべ、神戸)郷」と呼ばれていました。神戸(かんべ)とは、神社に捧げられる貢納や奉仕を行う地域のことを指し、神社の経済的な支援や神事の維持に大きな役割を果たしていました。
武力と防衛の神「伊迦賀色許男命」を祀る神社
伊加奈志神社の起源については諸説あり、近くに古代伊予豪族である「越智氏(おちうじ)」の館があるため、越智家によって敬意を払われ、信仰の対象となった神社であったと考えられます。
起源について、一説によれば「物部氏(もののべうじ)」の一族がこの地に派遣され、祖神である「伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)」を祀ったのが始まりとされています。
迦賀色許男命は、主に武力・戦争・防衛の神として崇敬されていました。
物部氏は、古墳時代の日本で強大な影響力を誇った有力な豪族の一つであり、特に軍事や武力において国家の防衛や戦争の指揮を担う重要な役割を果たしていました。物部氏は、兵器の製造や管理を行い、国家の軍事力を支える責任を負っていたことで知られています。
当時の日本では、外敵の侵入や国内の秩序維持が重要視されており、そのために軍事的な力を持つ物部氏は、ヤマト王権(大和朝廷)の中で非常に重要な位置を占めていました。
伊加奈志神社の由来
伊加奈志神社の名前の由来も諸説ありますが、その一つが、主祭神である伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)の名前が訛っていき「伊加奈志(いかなし)」になったという説です。
もう一つの説は、アイヌ語の「インカラウシュ」が変化して「伊加奈志」となったというものです。「インカラウシュ」とは「見晴らしの良い場所」を意味し、伊加奈志神社が小高い丘の上にあり、眺望が素晴らしいことからこの地名がつけられたと考えられます。
古代から、見晴らしの良い場所や高台は、神聖な場所とされ、神々を祀るのにふさわしいと考えられてきました。
五十嵐(いかなし)と伊加奈(いかなし)
伊加奈志神社が鎮座している愛媛県今治市五十嵐(いかなし)の地名は、伊加奈志神社の祭神である伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)の名前が訛って、地名となったと考えられています。
一方で別の説もあります。
昔、この地域では、朝倉や今治、玉川にまたがる天道ヶ頭山塊の山々から鉱物が採掘されていたと考えられています。奈良時代には、銅鉱石を精錬して銅を取り出す作業が盛んに行われており、この精錬作業は「イカリ(碇)」と呼ばれていました。
この「イカリ」という名称は、隣接する富田地区の町谷にも残されており、そこに精錬作業場があったとされています。また、この作業を指揮していた人物が「イカリの主」と呼ばれており、その人々が住んでいた場所が「イカナシ(伊加奈志)」、そして後に「五十嵐(いかなし)」と呼ばれるようになったという説です。
律令国家と延喜式神名帳への記載
伊加奈志神社の最初の記録は平安時代に、日本の律令制度に基づく国家祭祀において特に重要な神社として、「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」に記載されています。
延喜式は、延喜5年(905年)に編纂が始まり、10世紀に完成した法典で、国家の宗教儀礼や祭祀に関する規定がまとめられたものです。その中で、伊加奈志神社は伊予国二十四座のうちの一社、さらに越智郡七社の一つとして国家的に重要な神社として認められました。
延喜式に記載される神社は、国家による供物や奉納を受ける特権を持つ式内社(しきないしゃ)であり、伊加奈志神社もその一つとして高い地位を占めていました。
これは、伊加奈志神社が国家の安泰や繁栄を祈るための重要な神社であったことを示しています。また、この時期から、地域の守護神としても重要視され、周辺住民からも厚く崇敬されていました。
「鎌倉時代」地域社会との結びつきと信仰の発展
鎌倉時代に入ると、日本では武士が力を持つ新しい時代が始まりました。この時期、神社や寺院は地域の人々にとって、宗教や文化の中心として重要な役割を果たしていました。この時代の中で、伊加奈志神社も地域の生活に深く関わっていたことがわかっています。
建長7年(1255年)に作成された「伊予国神社佛閣等冤田注記」には、伊加奈志神社が「惣社宮」として記載されています。「惣社宮」という名称は、伊加奈志神社が伊予国総社としての役割を担っていたことを示し、伊予国全体の神々を祀る中心的な存在であったことを表しています。
なぜここに!?高台に鎮座する総社
総社とは、古代の国ごとに設置された神社で、その国にあるすべての神々を一か所に集めて祀るための重要な場所です。
そのため、国府(こくふ)と呼ばれる国の行政機関の近くに鎮座しているのが一般的です。国府は、古代日本における各国の政治や行政の中心地であり、そこに設けられた総社は、国全体の平和や繁栄、豊作を祈るための重要な場所でした。
総社が国府の近くに設置される理由は、行政の中心地と宗教の中心地を結びつけることで、国家と宗教が一体となって国の安定を保とうとする意図があったからです。政治と宗教が密接に結びついていた時代には、国府と総社が一体となって、地域の統治や人々の信仰を支える役割を果たしていました。
しかし、伊加奈志神社は通常の総社の設置場所とは異なり、高台である五十嵐丘陵に鎮座しています。総社が高台に位置することは異例であり、このことから、伊加奈志神社は元々は現在の場所ではなく、後に移転した可能性が高いと考えられます。
清水区に鎮座す浄寂寺に残されている、貞治5年(1366年)12月8日付の古文書によれば、少なくとも中世後期には伊加奈志神社が現在の五十嵐丘陵に鎮座していたことが確認されています。この古文書には、当時の方形区画溝が機能していたことが記されており、五十嵐丘陵が既に重要な宗教的聖域であったことがわかります。
浄寂寺は、伊加奈志神社の別当寺(神社の管理を担当する寺院)であり、同じく五十嵐丘陵に鎮座する「石清水八幡神社」の別当寺も務めていました。これにより、五十嵐丘陵一帯が宗教的に重要なエリアであったことが明確になります。
室町時代における宗教的・文化的中心地の保護
室町時代初期の貞治5年(1366年)12月には、室町幕府の有力武将である細川頼之が、伊加奈志神社に対して禁制を発布しています。禁制とは、特定の地域や寺社に対して兵の侵入や乱暴を禁じる命令であり、細川頼之のような有力武将からの禁制は、その場所が特別な保護を受けることを意味します。
この禁制によって、伊加奈志神社は武士たちの争いから守られ、地域の宗教的・文化的な中心地としての地位を保ったと考えられます。
戦国時代における神社の格式と役割
日本全土で武将たちが各地で争いを繰り広げた戦国時代において、伊加奈志神社は地域社会における重要な存在として、その役割を果たしていたと考えられます。
元亀2年(1571年)に作成された「伊予国神名帳」には、伊加奈志神社が「正一位伊賀奈志大明神」として記載されており、これは戦国時代においても伊加奈志神社が非常に高い格式を持っていたことを示しています。
この「正一位」という称号は、神社に与えられる最も高い神格であり、伊加奈志神社が伊予国全体において特に重要な神社であったことを物語っています。
「江戸時代」今治藩主の祈願所としての地位
江戸時代に入ると、今治藩主からの崇敬を集め、藩主の祈願所としてさらに重要な役割を担うようになりました。藩主は国の安泰や領民の平和、豊作を祈るために、伊加奈志神社を訪れて神事を行いました。藩主が直接参拝することで、この神社の社会的地位はさらに高まり、地域における信仰の中心として存在感を強めました。
今治藩の領民にとっても、伊加奈志神社は生活の一部として深く結びついていました。特に農業が主要産業であったため、豊作を祈るための祭りや行事が盛んに行われ、神社は農民たちの生活に欠かせない存在でした。また、藩主が行う大規模な祈願行事には、多くの人々が参加し、地域全体の結束を高める役割も果たしました。
安政の火災と再建への歩み
安政五年(1858年)正月十九日、伊加奈志神社は大きな火災に見舞われ、古記録や宝物を含む貴重な資料をすべて失いました。この火災は神社の歴史における大きな損失となり、地域の信仰や文化に深い影響を与えました。長年守られてきた歴史的な記録や宝物が失われたことは、地元の人々にとっても非常に大きな悲しみとなりました。
しかし、この困難にもかかわらず、地元の人々の熱意と努力により、神社は翌年の安政六年(1859年)の五月に社殿が再建されました。
明治時代における伊加奈志神社の位置づけ
明治時代には、国家の宗教政策が大きく変わり、神社制度も整備されました。1871年(明治4年)、伊加奈志神社は村社に列格され、正式に地域の中心的な神社として認められました。
村社とは、地元の信仰を集める神社であり、地域住民の生活や文化の中心に位置するものです。これにより、伊加奈志神社は近代においても地域社会にとって重要な役割を果たし続けました。
そして現代においても、伊加奈志神社は地域住民にとって大切な信仰の場として機能し続けています。長い歴史を持つこの神社は、古代から地域に根付いており、地元住民は今もなお神社を大切にし、古くからの伝統と文化を守り続けています。
農業から感じる古代の絆
農業を通じて、この地域の伝統や文化が現在も色濃く残っていることがよくわかります。五十嵐地域では、古くからの土地管理と農業の発展が地域の生活基盤となってきました。
安政五年の火災で貴重な資料は燃えていしまいましたが、伊加奈志神社には「六甫」作の絵馬2点と、明治27年(1894年)に描かれた五村の付近図を示す絵馬が奉納されています。
これらの絵馬は、昔から清水村一帯が碁盤の目のように区画された「条里制(じょうりせい)」によって、土地が分けられ管理されていたことを知ることができます。
条里制とは、7世紀後半に導入された土地管理制度で、田畑や村落を碁盤の目のように区画し、土地を効率的に管理・利用するためのものでした。この制度は、日本各地に導入され、土地の大きさや形状を標準化し、農業生産を安定させるために役立ちました。条里制の区画は、「条」と「里」という単位で構成され、これに基づいて地域ごとに土地が整然と分けられました。この仕組みによって、土地の利用が効率的になり、地域社会の発展に大きな貢献をしました。
五十嵐の地域も、この条里制によって土地が分けられた場所の一つとされています。特に、律令制(7世紀後半〜10世紀)の時代には、五十嵐は越智郡の給理郷(おちぐん こおりごう)に属していたと考えられています。律令制は、国家の制度として地方を「国」「郡」「郷」といった単位に分け、それぞれに行政と経済の責任を持たせる仕組みでした。
この時代の五十嵐では、土地の利用や農業が郡や郷の管理のもとで厳密に計画されており、土地の区分や税収管理が制度的に行われていました。農業は当時の経済活動の中心であり、律令制のもとでは農地の生産力を高めるために土地が正確に測量され、分配されていたのです。
地域全体で農業が計画的に発展し、土地の利用が効率的に進められていたことが裏付けとして、延文六年(1361年)に書かれた古文書「紀則氏避状(きのりしひじょう)」にも、清水里という場所の土地面積が詳細に記録されています。
天保年間(1830年~1844年)に江戸幕府が作成した「天保郷帳(てんぽうごうちょう)」には、五十嵐という村名は記載されていません。しかし、現在でもこの地域には古代の条里制の遺構が残っており、特に田畑の区画をよく見ると、その影響がはっきりと見て取れます。