「ーノ宮神社(いちのみやじんじゃ)」は、徳重村の村社で、村を災害から守る神様をお祀りしている神社です。この神社は、古くから地域の人々によって信仰され、災害や厄災から村を守る守護神として崇められてきました。
筑紫国の宗像神社から今治へ
創建は養老5年(751年)頃、九州の筑紫国(現在の福岡県)にある宗像神社の御祭神である宗像三女神を徳重の氏神として勧請したことに始まります。
宗像神社は、日本最古の神社の一つであり、『日本書紀』や『古事記』にもその名前が登場します。宗像神社は沖津宮、中津宮、辺津宮という三つの宮を擁しており、それぞれに田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)という三柱の女神が祀られています。
これらの女神たちは、航海や交通の安全を守護する神々として知られています。古くから瀬戸内海の海上交通が重要だった今治地域では、船の安全を祈願するために多くの人々が「ーノ宮神社」を訪れていたと考えられます。
名前の由来は宗像神社
神社の名前「ーノ宮」は、宗像神社筑紫国で最も重要な神社、つまり「第一のお宮」として信仰されていたことに由来すると言われています。
「七社参り(しちしゃまいり」
「式内七社参り(しきないしちしゃまいり)」とは、今治地方に伝わる古い風習で、7つの式内社を巡り、健康や長寿、特に中風(脳卒中)除けを祈願する参拝行事です。式内社とは、平安時代に編纂された『延喜式』に記載された格式高い神社を指します。これらの神社は、古代から朝廷によって認められた由緒正しい神社として、地域の人々に信仰されてきました。
今治地方には、7つの式内社が存在し、そのうちの一つが「ーノ宮神社」です。昭和30年頃まで続いていたこの風習では、地域の人々が7つの神社を巡り、中風除けや長患いしないことを祈りながら参拝しました。この「七社参り」には、中風を患わず、健康で長生きできるという信仰があり、また長患いすることなく穏やかな最期を迎えることができるという願いも込められていました。
放火による大火災と奇跡
平成5年(1993年)2月25日の深夜、長い歴史を誇る「ーノ宮神社」は、不審火による火災に見舞われました。この火災は、放火によるものと推定されており、神社の主要な建物である本殿、中殿、参拝殿が全焼するという甚大な被害をもたらしました。特に、本殿は神社の中心となる重要な建物であり、その消失は地域にとって計り知れない衝撃と悲しみをもたらしました。
火の手は神社の広範囲に及び、古くから受け継がれてきた文化財や貴重な建築物が炎に包まれる様子は、地域住民にとって痛ましい光景でした。神社は地域の信仰の中心であり、多くの人々が祈りを捧げる場所であったため、その消失は地域社会全体に大きな影響を与えました。
しかし、火災による被害は甚大であったものの、奇跡的に御本殿の内陣だけは炎の被害を免れました。御神体も無事であり、迅速に仮宮に移されました。
火災が神社を襲った中で、御本殿の内陣や御神体が奇跡的に守られたことは、御神威によるものと信じられています。
氏子たちの結束と努力が生んだ再建
この事件後、すぐに氏子たち「御社殿を再建しなければならない」という声が上がりました。氏子たちは再建を目指して再建賛成会を結成し、何度も会合を重ね、慎重に協議を行った結果、神社の再建が正式に決定しました。
しかし、氏子は約100戸と少数であり、さらに当時の社会経済状況は非常に厳しいものでした。それにもかかわらず、氏子や奉賛会役員各位が努力に努力を重ね、多額の寄付が集まりました。
また、設計工事を担当する施工者の方々からの心強い援助もあり、地域全体の協力を得て、再建が進められました。無事に再建することができました。
再建の感謝と記念碑
「ーノ宮神社」の再建が無事に成し遂げられた後、地域の人々は、その感謝と偉業を後世に伝えるために記念碑を建立しました。この記念碑は、火災という苦難を乗り越え、地域全体が力を合わせて神社を復興させた象徴であり、非常に重要な存在となっています。
記念碑には、再建に尽力したすべての人々への深い感謝の念が込められています。特に、火災時に懸命な消火活動を行い、被害を最小限に食い止めた消防団や関係者、そして再建に向けて支援を惜しまなかった氏子や奉賛会役員、設計・施工者たちの努力が刻まれています。この碑文は、地域全体が結束し、信仰心をもって神社の復興に尽力した歴史的な経緯を後世に伝えています。