大西の九王にある「龍神社(りゅうじんじゃ)」は、神武天皇(じんぶむてんのう)が大和を目指して進軍した「神武東征(じんむとうせい)」の神話を起源とする、非常に由緒ある神社です。
初代天皇「神武天皇」
神武天皇(紀元前711年2月13日〜紀元前585年4月9日)は、日本神話に登場する初代天皇で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫とされています。天照大神は、太陽を司り、神々が住む天上の世界「高天原(たかまがはら)」を治める最も重要な神様です。
ある日、天照大神は孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に「地上を治めなさい」と命じました。この使命を受けた瓊瓊杵命は、天上の世界から地上の現在の宮崎県高千穂に降りたちました。これが「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼ばれる出来事です。
地上に降りた瓊瓊杵命は、山の神である大山祇命(おおやまつみ)の美しい娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と出会います。二人は結ばれ、木花咲耶姫との間に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)という子供が生まれました。
時がたち、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊も大人になり、海の神「大海神(おおわたつみ)」の娘、玉依姫命(たまよりひめ)と結婚します。そしてこの二人の間に生まれたのが、後に初代天皇となる神武天皇です。
この神話は、天皇家が太陽神である天照大神の血筋を引き継ぎ、日本を治める神聖な権利を持っていることを示す由来となっています。
「神武東征」日本全土を平和に治める
天照大神の血を受け継いだ神武天皇は、祖先から託された使命である「日本全土を平和に治める」という強い願いを持っていました。しかし、当時神武天皇が住んでいた九州の日向は、日本の西端に位置しており、「日本全土を統治するには、九州は西に偏りすぎている」と感じました。
そこで、神武天皇は「国の中心である大和(現在の奈良県)へ向かい、そこで国を統治しよう」と考え、大和への進軍を決意しました。この決意が、後に「神武東征」と呼ばれる伝説的な始まりです。
神武天皇は弟や従者たちを連れて船で東へ進み、豊後水道から瀬戸内海を越えて大和に向かいました。しかし、道中の熊野で地元の豪族と戦い、弟の五瀬命を失うという苦難に遭います。神武天皇は再び立ち上がり、天照大神に祈りを捧げました。その後、天照大神の加護を受け、金鵄(きんし)という金色の鳥が現れ、敵を眩ませ、勝利を得ることができました。
熊野での勝利の後、神武天皇はついに大和に到達します。そこでも豪族ナガスネヒコとの戦いに挑み、最終的に大和を平定しました。そして紀元前660年、神武天皇は大和の橿原宮で日本の初代天皇として即位しました。
神武天皇の即位した日が、日本の建国の始まりとされ、現代の暦に換算すると2月11日になります。この日を記念して、毎年「建国記念の日」が祝われています。この物語は、日本の始まりを象徴する重要な伝説として、現在も広く知られています。
龍神社の創建
実は、東征の途中に船団は何度も厳しい自然の脅威にさらされていました。当時の船旅は今のように安全なものではなく、常に嵐や強風、荒れた海に遭遇し、常に命の危険と隣り合わせでした。風や波が急に荒れ、船団は幾度となく遭難しかけました。こうした状況の中、航海は命がけであり、無事に進むことができるかどうかは、神々の加護にかかっているとも言えるものでした。
困難に直面するたびに、神武天皇は神々に祈りを捧げました。神々の力を借りて、嵐を鎮め、航海を続けるために祈ることが何度もあったのです。
ある日、船団が今治の九王近くを通過した際、突然、激しい風と波に襲われ、船が進めなくなってしまいました。この地域は昔から航海が難しい場所で、嵐に遭うと命を落とす危険が高かったため、船団は進軍を一時停止せざるを得ませんでした。
危機的状況の中で神武天皇は、船をこの地に着け、海の神である龍神に祈りを捧げました。龍神は、日本神話において水や海、天候を司る神で、特に海や川、漁業に携わる人々から篤く崇められていました。龍神は雨をもたらし、海を守り、航海の安全を見守る存在とされています。
そして、神武天皇が龍神に祈ると、荒れ狂っていた風と波が急に静まり、船団は無事に航海を再開することができました。この出来事は、神武天皇が神々の力に守られていた証とも言えます。
そして、この奇跡を記念して後に九王の地に建てられたのが、龍神を祀る「龍神社」です。
平安時代に残る記録
龍神社に関する記録は、平安時代に作られた国史「日本三大実録」にも残されています。
「日本三大実録」とは、平安時代に編纂された国史の一つで、宇多天皇の勅命により、菅原道真や藤原時平などが編集を担当しました。この国史は、平安時代初期からの朝廷や重要な出来事、神社に関する記録を正確にまとめたもので、当時の日本における政治や信仰に関する貴重な情報源となっています。
「日本三大実録」の貞観12年(870年)の記録には、清和天皇の時代に龍神に関する重要な出来事が記載されています。この年、龍神は「正四位下から正四位上」に昇進したと記されています。神社の神階が昇進することは、その神社が朝廷から重要視され、国全体でも特別な崇敬を受けていたことを示します。
愛媛に残る古来としての記録
愛媛県、にある神社に関する古い記録「国史見在豫州神社録」には、龍神社が「宅間郷古宮鳩翁龍神(たくまごうふるみやはとおうりゅうじん)」という名称で記されています。
この「豫州」という呼称は、奈良時代から江戸時代にかけて、現在の愛媛県が「伊予国」として知られていた時期の別名です。伊予国は令制国の一つとして設置され、愛媛全域を含んでおり、その略称として「豫州」が使用されていました。
「宅間郷」というのは、神社が位置する地域の名称であり、「古宮」という表現が、この神社が古代から続く非常に歴史の長い神社であることを象徴しています。
そして「鳩翁龍神」とは、この地域において、特に重要な神として祀られてきた龍神のことを指しています。
龍神は、水や雨、海を司る神として、日本全国で信仰されてきましたが、特にこの地域では、農業や漁業に関わる人々から強い崇敬を受けてきました。この神社が「国史見在豫州神社録」に記録されていることは、龍神社が単なる地域の神社ではなく、全国的にもその存在が認められていたことを意味します。
松山藩と龍神社の役割
江戸時代、農業は地域経済の柱であり、天候が農作物の収穫を大きく左右していました。特に干ばつは農民にとって深刻な問題であり、雨が降らなければ作物が育たず、最悪の場合、飢饉を招く危険性がありました。そのため、干ばつが発生すると、農民や藩士たちは龍神社に集まり、雨乞いの儀式を行うことが習わしとなっていました。
この雨乞いの儀式は、龍神の力を借りて雨をもたらすことを祈る、重要な祈祷でした。龍神は、雨を降らせるだけでなく、海や水を守る存在としても信仰されていました。人々は、龍神の加護によって干ばつが解消され、再び豊作がもたらされることを切に願い、龍神社での祈りにすべてを託したのです。
天和4年(1684年)には、松山藩主が龍神社の重要性を認め、社殿の改築や神田の奉納を行いました。藩主だけでなく、代官所や各庄屋も、たびたび米穀や大幕などを奉納しており、龍神社が地域全体にとっていかに重要な存在であったかがうかがえます。
現在でも、昭和7年の奉納目録が保存されており、当時の信仰と地域社会のつながりを証明する貴重な資料となっています。龍神社は、天候と密接に結びついた地域信仰の中心であり、江戸時代を通じて農業の繁栄と生活の安定に寄与してきた大切な存在でした。
「船上継獅子」次獅子
毎年5月に行われる春祭りでは、200年以上の歴史を誇る地域の伝統芸能、「船上継ぎ獅子」が披露されます。この儀式は、龍神社の神輿が船で川を渡る間に、船の上で獅子舞が行われるという非常に特殊な形式で実施されます。船上での舞は、揺れる水面の上で演技を行うため、演者には高度なバランス感覚と技術が必要とされます。
もともと、丘の上や安定した場所で行う「継ぎ獅子」自体が非常に難しい伝統芸能です。獅子舞は二人一組で行われ、獅子頭をかぶった演者たちが息を合わせ、タイミングを正確に計りながらバランスを取ってダイナミックに動きます。この「継ぎ獅子」では、演者が次々と複雑な動作を「継いで」いきながら、舞の流れを作り出していくため、非常に高い技術が求められます。
しかし、船上継獅子では、この難易度がさらに高まります。揺れる船の上での演技は、足元が不安定であるため、演者たちは波や風の影響を受けながらも、常にバランスを取り続けなければなりません。自然の要素との闘いの中で、獅子舞を力強く、かつ華麗に演じる姿は、観る者を圧倒し、感動を与えます。
その舞は、地域の人々にとって特別なものであり、毎年多くの観客が集まってその勇壮な姿に感嘆します。演者たちが揺れる船上で見事な舞を披露するたびに、観客からは大きな拍手と歓声が湧き上がります。この難しい条件下で行われる船上継獅子は、地域住民にとって誇り高い伝統であり、代々受け継がれてきた文化遺産として大切に守られ続けています。