西方寺は、今治市旧朝倉村朝倉南乙(野々瀬)にあった別の寺院をその起源に持っています。
西福寺の始まり
西方寺の歴史は、伊予国を支配していた河野氏の一族で、笠松城主だった岡武蔵守光信の六男、松若丸が仏門に入ったことから始まります。松若丸は、幼少期から仏教に対する強い関心を持ち、精神的な探求を求めて高僧・玄宥上人(げんゆうじょうにん)に弟子入りしました。
宥学上人は、律宗の厳しい戒律を忠実に守り、弟子たちにその教えを広めた高名な僧侶であり、松若丸にとって理想的な師匠でした。宥学上人の下で松若丸は、律宗の教えに従って厳しい修行を重ね、戒律を守る精神を養いました。この修行を経て、松若丸は「浄蓮律師」という名を授かり、律宗の僧侶としての地位を確立しました。
「普拝山西福寺」の創建
修行を終えた松若丸は、自ら寺院を建立することを決意し、朝倉村野々瀬の地に新たな寺院「普拝山西福寺(さいふくじ)」を創建しました西福寺は律宗の戒律に従い、僧侶たちが厳しい修行を行う寺院として機能しました。地域の信徒たちからも厚く信仰され、寺院は宗教的な中心地となりました。
浄蓮律師の後継者・円祐と寺院の発展
松若丸の死後は、弟子の円祐(えんゆう)が後を引き継ぎました。円祐は、朝倉村の「白地城(南越山城)」の城主、日浅阿波守の次男であり、約20年間にわたって寺に住みました。円祐の時代に、寺の院号を「西方院」、坊号を「東光坊」と定め、本尊として阿弥陀如来が安置されました。
この時期、西福寺は地域社会における重要な宗教的中心地として、河野氏の庇護を受けました。寺は笠松城に近く、毎日鐘を撞いていたため、地域との結びつきも深く、特に河野氏から永代寺領100石を寄進され、さらに毎月の灯明銭3貫文が支給されるなど、寺院は経済的に安定し、影響力を強めました。
天正15年(1587年)の変革と浄土宗への転宗
そして、伊予国の寺院に大きな影響を与える重要な出来事が発生します。それが豊臣秀吉による四国攻めです。四国攻めは、豊臣秀吉が全国統一を進めるため、西日本の大名勢力を従わせるために行われたもので、四国全域がその対象となりました。
河野氏は、湯築城(現:道後公園)を拠点に長い間地域を支配していました。湯築城は伊予国における政治・軍事の中心地であり、河野氏はこの城を拠点に力を振るっていました。しかし、1587年、豊臣秀吉の四国攻めが始まると、河野氏は防衛に努めましたが、天下統一を果たそうとする豊臣軍の圧倒的な軍勢に対して苦戦を強いられました。
河野氏は湯築城に籠城し、豊臣軍に必死に抵抗しましたが、その圧倒的な軍勢の前にわずか1カ月で敗北しました。この戦いにより、河野氏は滅亡し、伊予国の長年にわたる支配も終焉を迎えました。
福島正則と伊予国の統治
その後、伊予国を治めることになったのが、豊臣秀吉の家臣である福島正則です。正則は1587年(天正15年)の九州平定後、秀吉から伊予国今治(現在の愛媛県今治市)11万石を与えられました。今治は瀬戸内海に面しており、交通や物流の要所であったため、政治的にも経済的にも非常に重要な地域でした。
福島正則はこの領地を与えられた後、伊予国の旧勢力を一掃し、新たな統治体制を整えました。正則は、唐子山の国分城を居城として、豊臣政権の影響を伊予国全域に浸透させる役割を果たしました。
福島正則の支配により、伊予国の社会構造や宗教界にも大きな変化が訪れました。特に、河野氏が保護していた寺院や豪族も、福島正則による統治の影響を受けました。
この中で、西方寺の前身である「西福寺」もその例外ではなく、福島正則の時代に大きな転機を迎えることになります。
「西福寺」から「西方寺」へ
そして、岡武蔵守光信の末裔である彦太郎が、江戸時代の有力武将である福島正則から200石を与えられたことをきっかけに、西福寺は「不遠山西方寺(ふおんざんさいほうじ)」と名前を改め、阿弥陀如来を本尊として、宗派を律宗から浄土宗へと転宗し、現在の今治市東村に移転されることになりました。
拝志城の跡地
移転先には、かつて拝志城(はいしじょう)という城がありました。
関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した東軍側の武将たちは、戦後に日本各地の領地を再編しました。伊予国(現在の愛媛県)では、藤堂高虎(宇和島城主)と加藤嘉明(松前城主)が領地を分割し、それぞれ半国ずつを支配しました。この結果、今治の府中平野には藤堂氏と加藤氏の所領が混在することになりました。
藤堂高虎は、来島海峡をにらむ沿岸に新たな城を築き、養子の藤堂高吉を城代に据えます。この城が後に今治城として知られることになります。一方、加藤嘉明は、藤堂氏の勢力を牽制するため、今治の拝志郷に拝志城を築き、弟の加藤忠明を城代に任命しました。こうして、今治城と拝志城が今治の地に並立する形となります。
しかし、拝志城は長く存続することはありませんでした。1615年、江戸幕府は戦国時代の終わりを告げる一国一城令を発布し、各藩が一つの城しか持つことを禁じました。これにより、全国の多くの城が廃止され、拝志城もその一つとして正式に廃城となります。
一国一城令に従い、拝志城はその役割を終え、城の管理や維持体制も解体されました。廃城となった後、拝志城の跡地やその周辺はもはや戦略的な重要性を持たなくなり、町奉行の支配下に置かれました。城跡は別の用途に転用され、城としての役割は歴史に幕を閉じることになりました。
この歴史の流れの中で、西方寺が移転してきました。
最後の城主・堀部主膳の供養塔
現在の不遠山西方寺の境内には、廃止をむかえた拝志城の最後の城主であった堀部主膳の供養塔が建てられています。堀部主膳の供養塔は、拝志城の歴史とその城主の記憶を今に伝えるものであり、拝志城の存在を忘れさせない重要な史跡となっています。
西方寺と地域への貢献「若葉保育園」の設立
浄土宗への転宗は、西方寺にとって新たな章の始まりを意味しました。阿弥陀仏の慈悲深い教えは、当時の人々に広く受け入れられ、寺院は地域社会の中で重要な役割を果たすようになりました。極楽往生を願う人々の心の拠り所として、西方寺は新たな信仰の中心地となり、地域に根付いた仏教文化の発展に貢献しました。
その象徴的な取り組みの一つが、昭和25年に浄土宗西方寺の境内に設立された私立「若葉保育園」です。
若葉保育園の教育の核となっているのは、「仏教保育」の理念です。仏教保育という言葉を聞くと、宗教的な教義や儀式を教え込むイメージを持たれるかもしれませんが、若葉保育園で行われている仏教保育はそういったものではありません。
他の宗教と異なり、仏教は哲学的な思考を重視し、人がどのように生きるべきかを深く問いかけます。例えば、一神教であるイスラム教やキリスト教は、神を中心とした信仰体系に基づいていますが、仏教では絶対的な神を信じるのではなく、個々の人間が自己の内面を見つめ、どう生きるべきかを考えることが大切とされています。仏教の教えは、日常の中での行動や心の在り方に焦点を当て、自己成長を促すものです。
この考え方に基づき、若葉保育園では、子どもたちが日々の生活を通じて自然に大切な価値観を身に付けられるような環境が整えられています。具体的には、仏教が伝える「慈悲の心」や「生命の尊さ」を中心に、他者との関わりを通じて思いやりや感謝の心を育むことが重要視されています。
若葉保育園では、友達が困っている時には助け合い、動植物などすべての生き物に対して優しく接することを教えています。毎日の食事の前には「いただきます」という感謝の言葉を通じて、食べ物やそれを育ててくれた自然、食事を準備してくれる人々への感謝の気持ちを育てています。こうした日常の小さな行動が、子どもたちの情緒を豊かにし、健やかな心の成長を促しています。
昭和43年に若葉保育園は現在の場所に移転し、昭和50年には社会福祉法人として設立が認可されました。これにより、より多くの子どもたちを受け入れ、質の高い保育を提供する体制が整いました。平成12年には、日本財団の補助事業によって新しい園舎が建設され、最新の設備と安全な環境の中で、地域の子どもたちが安心して成長できる場が提供されています。
西方寺が運営する若葉保育園は、地域の保護者や家族からも厚い信頼を寄せられており、保育園は地域に欠かせない存在として、地域全体と共に成長しています。ここで育った子どもたちは、仏教の教えに基づいて人間としての基本的な価値観を学び、感謝の心や他者への思いやり、生命への敬意を育んでいます。
西方寺のこのような取り組みは、これからも地域に根ざし、未来を担う子どもたちを支え続けていくでしょう。