四国八十八ヶ所霊場第五十四番札所「延命寺(えんめいじ)」の起源は、養老四年(720年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が近見山の山頂に不動明王像を彫造し、寺院を作って安置したことからはじまります。
時を経て、弘仁年間(810年〜824年)に、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師(空海)が不動明王像が置かれていた寺院を修復し、新たに「近見山・圓明寺(円明寺)」と名付けました。
以降、嵯峨天皇の勅願所としてその地位を確立した「圓明寺」は、多くの信仰を集め、繁栄を遂げていきました。しかし、度重なる戦乱により寺院はたびたび兵火に見舞われ、建物や寺領が被害を受けることとなりました。最終的に、享保12年(1727年)、寺は現在の地に移転されました。
読み間違いが多発!寺院名を変更へ
そして明治時代に入り、郵便制度が整備された際に、五三番札所の「圓明寺(円明寺)」との間違いが多発したため、江戸時代から俗称として呼ばれていた「延命寺」という名を官許を得て正式採用しました。
延命寺の見どころ
延命寺の境内には不動明王、十二諸尊西国三十三ヶ所の観音様、薬師如来座像、阿弥陀如来像、びんずりさんが祀られているほか、古文書も収蔵され寺の歴史も感じられます。
他にもたくさんの見どころがあり、もともと今治城の城門の一つで、天明年間に建造された「総けやき造りの単層の小型の門」。そして、延命寺の宝永元年(1704年)に鋳造された梵鐘「近見二郎」は、その音色の美しさで伝説的な存在です。
初代の鐘「近見太郎」は戦国時代に略奪され、「帰る帰る」と泣き始めて自ら海に沈んだと伝えられています。再鋳造された「近見二郎」も盗賊に狙われましたが、美しい音色に感動した盗賊が返還しました。
鎌倉時代の文永5年(1268年)には、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、『八宗綱要200余巻』を執筆しました。この書物は仏教入門書として知られ、境内には凝然の供養塔も残されています。
さらなる見どころとしては、山門や火伏せ不動尊、そして阿方の庄屋であった越智孫兵衛の墓もあります。越智孫兵衛は農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられています。
境内の自然も美しく、四季折々の花々が美しく咲き誇ります。特に春には馬酔木(あせび)の花が見事で、桜やつつじも見逃せません。花の寺として、多くの人々に愛されています。また、四国で2番目に古い真念の道標も残されており、歴史の深さを感じることができます。
四国八十八ヶ所巡礼の一環としてだけでなく、ぜひ延命寺を訪れて、その魅力を存分にお楽しみください。