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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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延命寺(今治市・乃万地区)

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愛媛県今治市にある「延命寺(えんめいじ)」は、四国八十八箇所霊場の第五十四番札所として知られ、古来より巡礼者や地域の人々に篤く信仰されてきました。

延命寺の歴史

延命寺(えんめいじ)の起源は、養老四年(720年)にさかのぼります。

この頃の日本は、律令国家としての体制が整えられつつある時代でした。都は平城京に置かれ、国家は仏教を「鎮護国家」の柱として重んじ、各地に国分寺や国分尼寺が建立されていきます。

伊予の地にもその流れは及び、国分寺(伊予国分寺)や国分尼寺(法華寺)が創建され、地方における仏教の拠点が形づくられていきます。

また、養老四年は最古の正史『日本書紀』が完成した年とされています。

朝廷は歴史を編纂することで天皇の権威と国家の理念を明確に打ち出そうとしていました。

近見山の山頂に不動明王像

このような時代背景の中、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願を受け、養老四年(720年)に奈良時代を代表する仏教の高僧・行基(ぎょうき)菩薩が近見山(標高244メートル)の山頂に不動明王像を彫刻し、その像を安置するための堂宇を建立しました。
これが、後の延命寺へとつながる起源とされています。

行基と民衆の信仰

行基は、民の暮らしに寄り添いながら全国を巡り、橋や道路の整備、ため池の築造などの社会事業を行う一方、各地に寺院や仏像を建立し、仏教の教えを広めた名僧として知られています。
とりわけ、行基自らが手がけた仏像は神聖な力が宿る「守り仏」として篤く信仰され、多くの人々の心の拠り所となってきました。

皇太子時代の聖武天皇

これは延命寺に伝わる縁起ですが、聖武天皇の在位は神亀元年(724年)から天平勝宝元年(749年)であり、養老四年(720年)当時は、まだ即位前の皇太子期にあたります。

そのため、当初の創建は皇太子の発願によるもので、後世に「天皇の勅願」として語り継がれたのではないかと考えられます

中継ぎと聖武天皇の正統性

また、聖武天皇は天武天皇と持統天皇の血筋を受け継ぐ正統な後継者でしたが、幼少であったためすぐには即位せず、祖母の元明天皇と伯母の元正天皇が相次いで即位し、女性天皇(女帝)による「中継ぎ」の政権が敷かれました。

言い換えれば、当時から次代の天皇は聖武天皇であることが既定路線であり、後世の縁起が「聖武天皇の勅願」と表現した背景には、この実質的な正統性があったとも考えられます。

その後、聖武天皇は皇太子となるものの、病弱であったため即位は先送りされ、神亀元年(724年)に元正天皇から譲位を受け、ようやく即位に至りました。

その間、皇太子としての祈願や国家安泰を願う行事はたびたび行われたと考えられますが、近見山における不動明王の安置も、まさにその象徴的な営みの一つであったのかもしれません。

弘法大師がこの地を訪れる

弘仁年間(810年〜824年)、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師(空海)は、近見山の山頂に安置されていた不動明王像を守る古い寺院を修復し、新たに「近見山・圓明寺(円明寺)」と名付けました。

当時の平安京は、薬子の変(810年)を経て政情が揺らぎ、人々の心にも不安が広がっていました。

藤原薬子とその兄・仲成が平城上皇の復位を目論んだこの事件は、失敗に終わったものの、朝廷に深い動揺を残しました。さらに、度重なる遷都や災害により民心は疲弊し、国の安定が急務となっていたのです。

こうした状況下で、嵯峨天皇は唐から帰国したばかりの空海に期待を寄せました。

天皇は書と詩文をこよなく愛する文化人であり、中国の教養を身につけ、書に優れた空海はまさに理想の師友でした。

加えて、空海がもたらした真言密教は、国家を守護し民を安心させる力があると信じられ、嵯峨天皇はその教えを厚く信頼しました。

やがて天皇は空海に高野山を修禅の地として下賜し、後には東寺も与えて真言宗の基盤が築かれていきます。

このような政治・文化的背景のもと、空海は近見山の不動明王像を中心に伽藍を整備し、圓明寺として再興しました。

ここは、単なる寺院ではなく、時代の不安を鎮める「鎮護国家」の祈りの場でもあったのです。

「寺院の街」

以降、嵯峨天皇の勅願所としてその地位を確立した「圓明寺(円明寺)」は、多くの信仰を集め、やがて比類なき繁栄を遂げていきました。

最盛期の延命寺は、山頂に七つの大伽藍(七堂伽藍)を堂々と構え、その周囲の谷には100を超える小寺院(坊)が軒を連ねていたと伝えられています。

近見山全体が一つの宗教都市のように整備され、僧侶たちが日々修行に励み、遠方から訪れる参詣者が絶えなかったといいます。

山頂に立ち並ぶ七堂伽藍は、雲間から差す光を浴びて荘厳な輝きを放ち、眼下の坊の群れはまるで街並みのように広がっていました。

その光景は、まさに「寺院の街」と呼ぶにふさわしいものでした。

参詣者や修行僧たちが行き交い、読経や法要の声が山間に響き渡る日常は、信仰に生きる人々の営みそのものだったでしょう。

しかし、この栄華も永遠ではありませんでした。戦乱の世は幾度となくこの地を襲い、火と兵による災禍は伽藍を焼き、坊を荒廃させていきました。

幾度かの復興を試みたものの、再建は次第に困難となり、やがて往時の姿は失われてしまいます。

そして、数百年の変遷を経て、圓明寺は享保12年(1727年)、ついに現在の地へと移転しました。

山上の壮麗な「寺院の街」は姿を消しましたが、その祈りと歴史は脈々と受け継がれていきました。

読み間違いが多発!寺院名を変更へ

明治時代、日本はかつてない速度で近代化の道を歩み始めました。江戸幕府が終わり、明治新政府が誕生すると、全国を統一的に治めるための改革が次々と行われます。

1871年には廃藩置県が実施され、江戸時代の藩制度は廃止され、愛媛県を含む全国が府県に再編されました。

また、同年には戸籍制度も整備され、全国民の氏名や居住地が公式に記録されるようになりました。

さらに、人や情報の流れも大きく変わります。

1871年、前島密(まえじまひそか)の提案により日本初の郵便制度が創設され、翌1872年には鉄道が新橋〜横浜間で開通。手紙も人も、かつてない速さで全国を行き来できるようになりました。

これまで飛脚や使い走りに頼っていた通信は大きく変革され、日本はまさに「情報の近代化時代」を迎えたのです。

郵便制度が引き起こした「名前の混乱」

しかし、この便利な郵便制度が思わぬ問題を引き起こします。

当時、四国八十八箇所霊場には同じ名前の寺院が複数存在していました。

その一つが、松山市の第五十三番札所「圓明寺(円明寺)」と、今治市の「圓明寺(円明寺)」です。

郵便が整備されると、全国から届く手紙の中で両寺院の郵便物が何度も取り違えられる事態が発生しました。

特に、廃藩置県で伊予国内の八つの藩が統一され愛媛県となったことで、住所表記が簡略化され、誤配はますます増えていきました。

混同を解消するための「改名」

この混乱を解決するため、「圓明寺」は、明治政府の許可を得て江戸時代から俗称として用いられていた「延命寺」を正式名称として採用しました。

これにより、全国から届く郵便物の取り違えは次第に解消され、明治の新しい通信制度における混乱はようやく収束しました。

かつての小さな郵便トラブルが、今日の「延命寺」の名を生み出したのです。

地域の歴史をつなぐ延命

延命寺は、単なる信仰の場にとどまらず、時代の移り変わりを静かに見守りながら、地域の生活や文化と深く結びついてきました。

今治城の記憶を伝える山門

その象徴ともいえるのが、参拝者を迎える堂々たる山門です。

総欅造りの小ぶりながら重厚な門は、両脇に仁王像を従えて凛とした風格を放ち、訪れる人々を静かに迎え入れます。

実はこの山門は、かつて今治城の城門として天明年間(1781~1789年)に建造され、城下を守っていた貴重な建築物です。

今治城は、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた藤堂高虎によって築かれた日本有数の海城で、砂の吹き上げる海岸に建つため「吹揚城」、また海岸や砂浜を意味する「須賀」にちなみ「美須賀城(みすがじょう)」などとも呼ばれています。

1602年(慶長7年)、藤堂高虎は今治の地に築城を開始しました。堀や船入など、当時の最新技術を駆使した城郭は海城ならではの構造を誇り、1608年(慶長13年)頃には完成。

以後は松平(久松)氏の居城として、城下町とともに栄えていきます。

しかし、明治維新後の1869年(明治2年)、今治城は「当今時勢不用之品」とされ、解体が決定。

天守や櫓をはじめとする建物は取り壊され、木材や石材は町に払い下げられました。

このとき、城を支えた材木の多くは、町の寺社や民家に受け継がれ、地域の中で第二の人生を歩むことになります。

その中で、城門の一つが延命寺に譲られ、山門として新たな役目を担うこととなったのです。

そして、時を経た今もその姿は変わらず、2020年11月には屋根瓦の葺き替えが行われ、当時の建築様式や風格を守りながら、現代にも静かにその歴史を伝え続けています。

梵鐘「近見二郎」

歴史ある山門をくぐると、右手に姿を見せるのが、延命寺の誇る梵鐘です。

この鐘はその美しい音色によって、第二次世界大戦中に鉄資源が不足し、多くの金属製品が政府によって供出される中で、供出を免れた貴重な梵鐘になります。

この梵鐘は「近見三郎」とう特徴的な名前が付けられています。

  • 初代梵鐘「近見太郎」
    戦国の世、1578年(天正6年)から1585年(天正13年)にかけて、土佐の長宗我部元親の軍勢が伊予へと進軍してきました。

    延命寺にあった初代の梵鐘「近見太郎」もその戦乱に巻き込まれ、寺の宝として守られていた鐘は、ついに兵たちの手によって奪われてしまいます。

    鐘は船に積まれ、海路を通じて運び出されましたが、その途端、不思議なことが起こりました。

    鐘はまるで泣くように「いぬる、いぬる(帰る、帰る)」と響きはじめたのです。

    やがてその声は波間に消え、鐘は自ら海へと沈んでいったと伝えられています。 

  • 2代目の梵鐘「近見二郎」
    1704年(宝永元年)に、延命寺の住職は失われた初代の鐘を惜しみ、自らの私財を投じて新たな梵鐘を鋳造しました。

    こうして誕生した二代目の鐘は「近見二郎」と名付けられ、その清らかで美しい音色は、山里に響き渡り、参拝する人々に深い安らぎを与えたと伝えられています。

    しかし、その名声は思わぬ災難を呼び込みます。

    ある夜、鐘は盗賊によって寺から奪われてしまいました。

    運び去られた鐘はしばらくの間、盗賊の手中にありましたが、その美しい音色に心を打たれた盗賊は、なんと鐘を返す決意をします。

    こうして「近見二郎」は無事に延命寺へ戻され、以後は大切に守られることとなりました。

    現在もこの鐘は延命寺に伝わり、昭和63年(1988年)には今治市の有形文化財に指定されています。

    普段はその響きを耳にすることはできませんが、年に一度、大晦日の夜にだけ「除夜の鐘」として鳴らされ、澄んだ音が今も人々の心に響きわたっています。

    清らかな響きは、まるで鐘自らが寺に帰ることを願っているかのようであり、こうして「近見二郎」は無事に延命寺へ戻されたのです。
「宿舎の記憶」学び舎から祈りの場へ

延命寺の境内には、静かに祈りを受け止める含霊堂や納経所があります。そこに立つと、かつてこの地に響いていた子どもたちの笑い声を思い出す人もいるかもしれません。

実は、これらの建物は、かつて近見(八代)学校の子どもたちを見守っていた宿舎でした。

明治23年(1890年)、学校の廃校にともない、その学び舎は延命寺へと移され、やがて静かな寺の一角で新たな役割を果たすことになったのです。

移築された建物の大部分は含霊堂となり、不動明王、十二諸尊、西国三十三所の観音さま、薬師如来座像、阿弥陀如来像、病気治癒を願うびんずりさんなどが丁寧に安置されました。

さらに、かつての暮らしを物語る古文書も大切に保管されており、延命寺の歩みとともに、地域の記憶を今に伝え続けています。

残された学校の職員室だった場所は、いまでは納経所として新たな命を得て、静かに参詣者を迎えています。

かつて子どもたちの学びと笑顔を見守った学び舎は、時を経た今もなお、人々の祈りを受け止める静かな拠り所として、そっと息づき続けているのです。

四国で二番目に古い「遍路石」

延命寺には、四国で二番目に古い「遍路石(へんろいし)」も残されています。

遍路石は、当時の巡礼者が迷わずに札所(霊場)へたどり着くための重要な道しるべでした。

昔の四国は、今のように道が整備されていませんでした。舗装された道もなく、山の中や広い田んぼの中を歩いて札所を目指すことが多く、道に迷いやすい場所もたくさんありました。

そのため、こうした遍路石が巡礼者にとって大きな助けとなり、無事に目的地に到達することができたのです。

そして、この遍路石を作ったのがお遍路の父「宥辨真念(ゆうべしんねん)法師」です。

真念法師は、真言宗の僧侶で四国八十八箇所霊場を20余度も巡礼し、その経験を元に、巡礼のためのガイドブック(案内書)を作りました。

代表作が1687年の『四国辺路道指南』です。このガイドブックには、霊場までの道筋や巡礼に関する情報が詳しく記されており、これから巡礼を行おうとする人々にとって非常に頼りになりました。

このガイドブックが広まったおかげで、四国遍路は修行僧だけのものではなく、一般の人々にも受け入れられるようになりました。

さらに、巡礼をする人たちが迷わずに札所に行けるように、各ポイントごとに「遍路石(真念石)」を設置しました。

このへんろ石は四国各地に設置され、その数は200基以上にも及びました。これらの石にはわかりやすく「へんろみち」と文字が刻まれ、巡礼者が進むべき方向を示していました。

道標の少なかった当時の四国において、特に山間部や田園地帯では、この道しるべ石が巡礼者にとって非常に重要な道案内となっていました。

現在でも四国各地に約30基の真念法師の遍路石が残っており、その歴史的価値は高く評価されています。

さらに、巡礼の道中での「お接待」文化も広めました。お接待とは、巡礼者に食べ物や飲み物を提供したり、道案内をして助ける地元の人々の心温まる風習です。

この風習は、巡礼者が安全に旅を続けられるようにという願いから始まり、今日でも四国遍路の重要な文化として根付いています。

このように、真念法師は生涯をかけて四国遍路の整備と普及に捧げ、元禄5年(1691年)に巡礼の途上でその生涯を終えました。

真念法師の遺体は、香川県高松市の牟礼町に埋葬されていましたが、長い間その墓は忘れ去られていました。

しかし、昭和48年(1973年)に再発見され、真念法師の功績を改めて見直す動きが始まりました。

その後、昭和55年(1980年)には、弘法大師が創建したと伝えられる四国霊場番外札所「洲崎寺(すさきじ)」に墓が移され、整備されました。

大木「つぶらじい」

延命寺が現在の場所に移転された享保12年(1727年)の際、寺院の庭園が新たに造園され、その時に植えられたとされるのが「ツブラジイ」の木です。

この木は、寺院の長い歴史とともに成長し、現在では樹齢200年以上を誇ります。目通りは3.2メートル、高さは20メートルを超える巨木となり、今もなお境内にしっかりと根を張り、訪れる人々を見守っています。

ツブラジイは常緑樹であり、四季を通じてその青々とした葉を保つことから、不変性や永遠を象徴する存在とされ、神社の境内によく植えられています。

延命寺においても、ツブラジイは長い歴史の証人として、寺院の象徴的な存在です。植えられた当初から200年以上もの間、寺院と共に時を刻んできたこの木は、訪れる人々に「変わらないものの価値」や「永遠の生命力」を感じさせます。

昭和50年(1974年)には今治市指定の保存樹に登録され、地域の貴重な文化財および自然遺産として大切に保護されています。

「火伏せ不動尊」

本尊である宝冠不動明王坐像は、宝冠をかぶった非常に珍しい姿をしています。

この不動明王像は、延命寺が度重なる火災に遭った際にも奇跡的に無傷で残り続けたことから、「火伏せ不動尊」として知られています。

こうした歴史的背景から、この不動明王像は火災除けの象徴として信仰されています。

2016年には、この貴重な像が60年に一度の開帳の際に公開され、それに先立って本堂の修繕が行われました。

この時、多くの参拝者が「火伏せ不動尊」を拝むために訪れ、その強いご利益を求めました。

高僧・凝然の供養塔

延命寺の境内には、ひっそりと建つ供養塔があります。

この塔は、鎌倉時代に活躍した華厳宗の高僧・凝然(ぎょうねん)を偲んで建てられたもので、この地に残した大きな業績を今に伝えています。

凝然の生い立ち

凝然は1240年(延応2年)、伊予国越智郡高橋郷(現・今治市)の名族・越智氏に生まれました。

越智氏は古くから寺社を庇護し、仏教と深い縁を持つ家系で、大叔父にあたる小千(越智)三郎は出家して「西谷房」と呼ばれる僧侶になっています。

この名前は、円明寺(延命寺)の西谷にあった「坊(小さなお寺)」に由来しており、後に凝然が学問と執筆に打ち込む舞台となりました。

比叡山での修行の日々

幼少期の凝然はすでに仏教に親しみ、16歳で比叡山に登り、天台宗の菩薩戒を受けて正式に僧となります。

当時、比叡山は日本仏教の中心地であり、多くの若い僧侶がここで基礎を学んでいました。

凝然もここで仏教の諸経典に触れ、その後、奈良の東大寺戒壇院に移って師・円照和尚のもとで律学(戒律の学問)を深めます。

この頃の凝然は、単一宗派の学びに留まらず、天台・真言・律・禅・浄土・三論・法相・華厳の八宗を幅広く学ぶ「八宗兼学」を実践しました。

多宗兼学は、当時の南都仏教における理想の学び方とされ、凝然の後の著作活動に大きく影響を与えました。

延命寺西谷での学問

29歳となった鎌倉時代の文永5年(1268年)、凝然は故郷に戻り、円明寺(延命寺)の西谷の坊に籠もって大著『八宗綱要』200余巻を執筆しました。

この書は、日本仏教の主要八宗の教義を整理し、初心者にも理解しやすくまとめた体系書であり、仏教入門書として後世まで読み継がれた名著です。

『八宗綱要』は、単なる教義解説ではなく、当時の日本仏教における宗派理解を統合的に示したものでした。

特定の宗派に偏らず、複数の宗派を学び実践するという凝然の学問姿勢は、鎌倉仏教の宗派的多様化の中で大きな意義を持ちました。

東大寺戒壇院の指導者として

その後、凝然は奈良に戻り、建治3年(1277年)、38歳で師・円照が没すると、東大寺戒壇院(とうだいじ かいだんいん)の院主となります。

戒壇院は、正式な僧侶に戒律を授ける重要な機関であり、その院主は南都仏教界における重職でした。

凝然はここで律学の復興と僧侶教育に尽力し、45年間もの長きにわたり南都仏教を支えました。

徳治2年(1307年)、67歳の凝然は、後宇多上皇の出家に際して戒師を務めています。

上皇に戒を授けることは非常な名誉であり、その高い学徳と信頼を示す出来事でした。

その後も戒壇院の運営に心血を注ぎ、南都仏教の学統を守り続けた凝然は、82歳で入寂。

その生涯は、学問・修行・指導に捧げられた82年であり、鎌倉仏教史において重要な足跡を残しました。

延命寺供養塔の意義

延命寺の境内に現存する供養塔は、こうした凝然の生涯と業績を讃えて建てられたものです。

塔は静かに佇み、訪れる人々に、鎌倉時代における学僧の精神と南都仏教の息吹を伝えています。

今も供養塔の前に立つと、延命寺西谷で執筆に打ち込んだ若き日の凝然の姿や、南都仏教を支え続けた老僧としての晩年が思い起こされます。

学問と信仰に生涯を捧げた一人の僧の足跡は、ここ延命寺で静かに息づき続けています。

「供養塔」」地域の英雄・越智孫兵衛

延命寺には、もう一つ地域の人々にとって大切な供養塔があります。

それが、地域の英雄として今も語り継がれる「越智孫兵衛供養塔」です。

阿方村の庄屋・越智孫兵衛

越智孫兵衛は、寛文から元禄(1661~1703)の時代に阿方(あがた)村(現在の今治市)で庄屋(村長)を務めた人物で、その優れた知恵と人間性によって村民から非常に尊敬されていました。

この時代の阿方村は松山藩に属しており、越智孫兵衛の功績は松山藩からも高く評価され、表彰されています。

では、越智孫兵衛は一体何をしてこれほど評価されたのでしょうか?

結論から言えば、孫兵衛は重い年貢に苦しむ村人たちを救うため、年貢の削減、つまり「減税」実現です。

重税の時代

当時、松山藩の農民たちは「七公三民」という重税制度に苦しんでいました。この制度では、その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、残りの3割が農民の所得となるものでした。

今で言うと、収穫の70%が税金として徴収され、30%が農民の手元に残るという厳しい状況です。

江戸時代の年貢は、農民たちにとって非常に重い負担でした。年貢の取り立ては基本的に「石高制」で行われ、その年の米の収穫量に応じて課税されました。

年貢は「公四民六」や「公五民五」などの割合で課されるのが一般的でしたが、松山藩のように「七公三民」という重税を課す地域も存在していました。

この過酷な制度の下では、農民たちは十分な生活を送ることが難しく、しばしば食糧不足や飢饉に見舞われることがありました。

年貢の取り立ては、身分が上である武士によって厳格におこなわれ、税を逃れようとしたり、不作を理由に年貢の減免を願い出ることは命懸けの行為で、「打ち首(斬首刑)」という厳罰を受けることもありました。

このような厳しい時代に、阿方村の庄屋であった越智孫兵衛は、松山藩の過酷な重税制度から村民たちを救うために行動を起こそうと考えていました。

しかし、孫兵衛は、その行為が非常に危険であることも十分に理解していました。

そこで、直接的に訴えるのではなく、間接的な方法でその難題に対処することにしました。

竹筒のおかゆ

その年、藩命で用水池の工事が始まることになりましたが、孫兵衛は村民に対し、にぎり飯ではなく、米麦を半々にしたおかゆを竹筒に入れて持参してくるようにと言いました。

村人は不審に思いましたが、「尊敬する孫兵衛さんの言うことだから…」とそれに従って米麦を混ぜたおかゆを持参しました。

昼食の際、他の村の人々がにぎり飯を食べている中、阿方村の人々は竹筒からこのおかゆをすすっていました。

この様子は当然役人の目に留まり、「阿方村の者が昼間からどぶろくを飲んでいる」として村の代表である孫兵衛を呼び出しました。

呼び出された孫兵衛、悲しそうな顔をしながら、「これはおかゆでございます。阿方村は地味が悪く、年貢米を納めた後、ほとんど何も残りません。おかゆしか作れない状況で、にぎり飯を作る余裕もないのです」と説明しました。

孫兵衛は悲しそうな表情をして、こう説明しました。

「これはおかゆです。阿方村は地味が悪く、年貢を納めた後、ほとんど米が残りません。にぎり飯を作る余裕などないのです」と。

役人はこの言葉に深く同情し、すぐにこの状況を藩主に報告しました。

役人はこの話を聞いて、阿方村がそれほどまでに困窮していることを知り、深く心を打たれました。

そして、この状況を藩主に報告しました。藩主もその厳しい現実に心を動かされ、特例として阿方村に限り年貢を「六公四民」に減らす決定を下しました。

つまり収穫の6割が税金、4割が農民の所得という特例が適用されたのです。この減税措置により、農民たちの生活は大きく改善され、阿方村のお百姓が孫兵衛に心から感謝したことはいうまでもありません。

享保の大飢饉と孫兵衛の遺産

それから数年が経ち、享保(1716〜1736年)の時代に入りました。

この時期は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗による享保の改革が進められていた時期で、財政再建や農業振興を目的とした様々な政策が行われました。

しかしこの時代、日本の近世史において「享保の大飢饉」(享保17年〜18年、1732〜1733年)が発生しました。

享保の大飢饉は、日本の三大飢饉の一つとして知られています。この飢饉は、特に西日本(西海、山陽、南海道地方)で大きな影響を与えました。

主な原因は、長期間続いた霖雨(長雨)と、作物を食い荒らす蝗害(いなごの大量発生)でした。

これらの自然災害により、農作物が壊滅的な打撃を受け、食糧不足が深刻化しました。特に米の収穫が激減し、米価が急騰。多くの人々が食糧不足に苦しみました。

1733年(享保18年)の正月頃には、米の供給不足が深刻化し、全国で米価が急上昇しました。

特に江戸などの都市部では、貧困層が深刻な食糧不足に直面し、生活が困窮しました。このような状況の中で、後に「享保の打ちこわし」と呼ばれる暴動が相次ぎました。

しかし、阿方村では孫兵衛のおかげで税制が改善されていたおかげで、この大飢饉においても、村では餓死者を一人も出さずに乗り越えることができました。

越智孫兵衛供養塔

孫兵衛は元文三年(1738年)に亡くなりましたが、その功績は忘れられることなく、村人たちは孫兵衛を讃え、延命寺の境内に立派な墓「越智孫兵衛供養塔」を建てました。

この供養塔は越智孫兵衛という村を救った英雄を後世に伝える象徴として建てられました。

さらに、毎年8月7日には、村民たちが集まり、越智孫兵衛の功績を称えるための慰霊祭が行われるようになりました。

この行事は今も行われており、地域全体で越智孫兵衛への感謝の気持ちを継承していっています。

美しい自然と「花の寺」

そんな延命寺は、歴史だけでなく、自然の美しさでも訪れる人々を魅了します。

四季折々の花々が咲き誇る「花の寺」としても知られ、いつ訪れても心癒やされる景色が広がっています。

春には桜が境内を優しく包み、馬酔木(あせび)の白い花が凛とした空気に彩りを添えます。

春から初夏にかけては色とりどりのつつじが咲き誇り、続いて梅雨の頃には紫陽花がしっとりとした空気の中で美しい青や紫を見せてくれます。

夏には深緑が境内を覆い、秋が来れば、紅葉が木々を赤や黄金に染めあげ、移ろう季節が境内に豊かな表情を与えてくれます。

四国八十八ヶ所の巡礼地としてだけでなく、歴史と自然が調和する癒しの場所として。

ぜひ一度、延命寺を訪れて、その静かな感動を体験してみてください。

寺院名

延命寺(えんめいじ)

所在地

愛媛県今治市阿方甲636

電話

0898-22-5696

宗派

真言宗豊山派

山号

近見山

院号

宝鐘院

本尊

不動明王

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