四国八十八ヶ所霊場第五十四番札所「延命寺(えんめいじ)」は、古くからの信仰を集めている寺院で、さまざまな仏像が安置されている場所です。
寺院の中には、不動明王、十二諸尊、薬師如来坐像、阿弥陀如来像などが大切に祀られており、これらは信仰の中心となるとともに、延命寺の長い歴史を物語っています。また、西国三十三ヶ所の観音様や、病気治癒を願う「びんずりさん」も安置されています、
現在、納経所として利用されている部分は学校の職員室でした。
明治23年(1890年)、近見(八代)学校が廃校となった際、その校舎が延命寺に移築されました。この移築により、校舎の大部分は含霊堂とし、残りを納経所として再利用するようになりました。
含霊堂は、この移築の際に当時行き場を失った仏像や霊碑が集められ、全国永代供養のための霊碑が祀られている場所となっています。
延命寺の歴史
「延命寺(えんめいじ)」の起源は、養老四年(720年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が標高244mの近見山の山頂に不動明王像を彫造し、寺院を作って安置したことからはじまります。
時を経て、弘仁年間(810年〜824年)に、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師(空海)が不動明王像が置かれていた寺院を修復し、新たに「近見山・圓明寺(円明寺)」と名付けました。
この頃はまだ、延命寺という漢字ではなかったのです。
以降、嵯峨天皇の勅願所としてその地位を確立した「圓明寺(円明寺)」は、多くの信仰を集め、繁栄を遂げていきました。
最盛期の延命寺は、山頂に七つの大きな建物(七堂伽藍)を配置し、周囲の谷には100を超える小さな寺院(坊)が立ち並ぶほどの規模を誇っていたと伝えられています。
その光景は、まさに「寺院の街」としての姿を誇っていたでしょう。山頂に堂々と並ぶ七堂伽藍の建物群が、信仰の中心地としての存在感を示し、そこに集う多くの僧侶や参拝者が日々の営みを行っていた様子が目に浮かびます。
広大な寺院群は、まるで一つの街のように活気があり、全国から訪れる人々が祈りや修行、学びの場としてこの地を大切にしていたことでしょう。
しかし、寺の繁栄は度重なる戦乱によって打ち砕かれます。
度重なる戦火によって、建物や敷地が被害を受け、ついには再建が困難となり、その全てを失うこととなります。この過酷な状況の中、「圓明寺(円明寺)」は最終的に享保12年(1727年)に現在の場所へ移転されることとなり、その歴史は今も続いています。
読み間違いが多発!寺院名を変更へ
明治時代に入ると、日本では西洋的な制度や技術が次々と導入されました。その一つが郵便制度の整備です。日本の郵便制度は、明治4年(1871年)に前島密(まえじまひそか)によって創設されました。
それまでの日本には郵便のような公式な通信手段はなく、手紙などは個人の使い走りや飛脚によって届けられていました。これでは通信速度が遅く、信頼性も低かったため、郵便制度の導入は日本の近代化にとって大きな進歩でした。
郵便制度が整備され、日本全国で郵便物のやりとりが一気に効率化されましたが、その過程でいくつかの問題が発生しました。その中で特に大きな問題だったのが、名称の混同でした。
元々四国八十八箇所霊場には、同じ名前の寺院がいくつか存在していました。この中で、松山市にある五十三番札所の「圓明寺(円明寺)」と、今治市の「圓明寺(円明寺)」の郵便物の誤配がなん度も発生するようになったのです。
れに加えて、明治6年(1873年)には伊予国の8つの藩が廃止され、愛媛県として統一されたことが、この問題をさらに複雑にしました。
この混乱を解決するため、今治市の「圓明寺」は、江戸時代から俗称として使われていた「延命寺」という名前を正式に採用しました。この名称変更は、明治政府の許可を得て行われ、郵便物の混同が解消されるようになりました。
「総けやき造りの単層の小型の門」
まず、延命寺の見どころといえば堂々たる山門です。この山門は立派な総欅(けやき)造りで、やや小ぶりながらも風格があります。参拝者がまず目にする仁王像が立つ仁王門をくぐった後、この重厚な山門が目に飛び込んできます。その存在感は、歴史ある延命寺の入口として訪れる人々を魅了し、静かな敬意を抱かせます。
実はこの山門は、今治城と深い縁があります。
今治城は、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた藤堂高虎によって築かれた日本有数の海城で、別名「吹揚城」とも呼ばれています。
1602年(慶長7年)に築城が始まり、堀や船入など、当時の最新技術が盛り込まれた城郭構造を持っていました。城の完成は慶長13年(1608年)頃とされ、その後、1635年(寛永12年)に松平(久松)氏の居城となりました
しかし、1869年(明治2年)の10月に「当今時勢不用之品」とされ解体が決定しましたこの時、多くの建築物が取り壊され、城に使用されていた木材や石材は売却され、城郭は次々に払下げられました。
城の大部分が失われたものの、1953年(昭和28年)には県指定史跡となり、保存活動が始まります。
1980年(昭和55年)には鉄筋コンクリート造の天守閣が再建1985年(昭和60年)には東隅櫓「御金櫓」が復元されました。さらに1990年(平成2年)には「山里櫓」も復元され、2007年(平成19年)には築城400年を記念して「鉄御門」が忠実に再建され、かつての姿がよみがえりました。
延命寺の山門は、明治の今治城の取り壊しの際に城門の一つを譲り受け、寺院の山門として移設されたものです。
この門は、天明年間(1781~1789年)に建造されたもので、長い歴史を経て今でもその重厚さを保っています。訪れる人々を迎え入れるその姿は、時代を超えて力強い存在感を放ち続けています。
また、2020年11月には屋根瓦の葺き替えが行われ、当時の建築様式や風格を守りつつ、現代にもその姿を伝えています。
梵鐘「近見二郎」
この歴史のある山門をくぐると、近見三郎という梵鐘(ぼんしょう)で「近見三郎」と呼ばれています。
この鐘はその美しい音色によって、第二次世界大戦中に鉄資源が不足し、多くの金属製品が政府によって供出される中で、供出を免れた貴重な梵鐘です。
延命寺の梵鐘には、代々「近見太郎」「近見二郎」「近見三郎」という名前がつけられており、各鐘がそれぞれの時代に特別な意味や役割を果たし、それぞれに伝説や逸話が残されています
初代の鐘「近見太郎」は、戦国時代に土佐の長宗我部軍が伊予に進軍してきた際に略奪されました。その後、鐘は船に積まれて海上に出たのですが、「いぬる、いぬる(帰る、帰る)」と泣き始め、ついには自ら海に沈んだと伝えられています。
2代目の梵鐘「近見二郎」は、1704年(宝永元年)に当時の住職が自費を投じて鋳造したもので、その美しい音色で知られていましたが、ある時に盗賊に略奪されてしまいました。ところが、その音色に感動した盗賊は、鐘を返すことを決断し、最終的に延命寺に戻されたといわれています。
現在も「近見二郎」は延命寺に保存されており、昭和63年(1988年)には今治市の有形文化財に登録されました。
その美しい音色は、普段は聞くことができませんが、毎年大晦日に「除夜の鐘」として特別に鳴らされ、年に一度だけその音を楽しむことができます。
四国で二番目に古い「遍路石」
延命寺には、四国で二番目に古い「遍路石(へんろいし)」も残されています。
この石は、当時の巡礼者が迷わずに札所(霊場)へたどり着くための重要な道しるべでした。
昔の四国は、今のように道が整備されていませんでした。舗装された道もなく、山の中や広い田んぼの中を歩いて札所を目指すことが多く、道に迷いやすい場所もたくさんありました。そのため、こうした遍路石が巡礼者にとって大きな助けとなり、無事に目的地に到達することができたのです。
そして、この遍路石を作ったのがお遍路の父「宥辨真念(ゆうべしんねん)法師」です。
真念法師は、真言宗の僧侶で四国八十八箇所霊場を20余度も巡礼し、その経験を元に、巡礼のためのガイドブック(案内書)を作りました。
代表作が1687年の『四国辺路道指南』です。このガイドブックには、霊場までの道筋や巡礼に関する情報が詳しく記されており、これから巡礼を行おうとする人々にとって非常に頼りになりました。このガイドブックが広まったおかげで、四国遍路は修行僧だけのものではなく、一般の人々にも受け入れられるようになりました。
さらに、巡礼をする人たちが迷わずに札所に行けるように、各ポイントごとに「遍路石(真念石)」を設置しました。
このへんろ石は四国各地に設置され、その数は200基以上にも及びました。これらの石にはわかりやすく「へんろみち」と文字が刻まれ、巡礼者が進むべき方向を示していました。
道標の少なかった当時の四国において、特に山間部や田園地帯では、この道しるべ石が巡礼者にとって非常に重要な道案内となっていました。
現在でも四国各地に約30基の真念法師の遍路石が残っており、その歴史的価値は高く評価されています。
さらに、巡礼の道中での「お接待」文化も広めました。お接待とは、巡礼者に食べ物や飲み物を提供したり、道案内をして助ける地元の人々の心温まる風習です。この風習は、巡礼者が安全に旅を続けられるようにという願いから始まり、今日でも四国遍路の重要な文化として根付いています。
このように、真念法師は生涯をかけて四国遍路の整備と普及に捧げ、元禄5年(1691年)に巡礼の途上でその生涯を終えました。
真念法師の遺体は、香川県高松市の牟礼町に埋葬されていましたが、長い間その墓は忘れ去られていました。しかし、昭和48年(1973年)に再発見され、真念法師の功績を改めて見直す動きが始まりました。その後、昭和55年(1980年)には、弘法大師が創建したと伝えられる四国霊場番外札所「洲崎寺(すさきじ)」に墓が移され、整備されました。
大木「つぶらじい」
延命寺が現在の場所に移転された享保12年(1727年)の際、寺院の庭園が新たに造園され、その時に植えられたとされるのが「ツブラジイ」の木です。
この木は、寺院の長い歴史とともに成長し、現在では樹齢200年以上を誇ります。目通りは3.2メートル、高さは20メートルを超える巨木となり、今もなお境内にしっかりと根を張り、訪れる人々を見守っています。
ツブラジイは常緑樹であり、四季を通じてその青々とした葉を保つことから、不変性や永遠を象徴する存在とされ、神社の境内によく植えられています。
延命寺においても、ツブラジイは長い歴史の証人として、寺院の象徴的な存在です。植えられた当初から200年以上もの間、寺院と共に時を刻んできたこの木は、訪れる人々に「変わらないものの価値」や「永遠の生命力」を感じさせます。
昭和50年(1974年)には今治市指定の保存樹に登録され、地域の貴重な文化財および自然遺産として大切に保護されています。
「火伏せ不動尊」
本尊である宝冠不動明王坐像は、宝冠をかぶった非常に珍しい姿をしています。この不動明王像は、延命寺が度重なる火災に遭った際にも奇跡的に無傷で残り続けたことから、「火伏せ不動尊」として知られています。
こうした歴史的背景から、この不動明王像は火災除けの象徴として信仰されています。
2016年には、この貴重な像が60年に一度の開帳の際に公開され、それに先立って本堂の修繕が行われました。この時、多くの参拝者が「火伏せ不動尊」を拝むために訪れ、その強いご利益を求めました。
凝然の重要書物『八宗綱要200余巻』
延命寺は華厳宗の高僧であった凝然(ぎょうねん)が西谷の坊に籠って『八宗綱要200余巻』を執筆しました。
鎌倉時代の文永5年(1268年)、華厳宗の高僧であった凝然(ぎょうねん)が、延命寺の西谷の坊に籠って『八宗綱要200余巻』を執筆しました。
この書物は、仏教の主要な八つの宗派(天台・真言・律・禅・浄土・三論・法相・華厳)の教義を整理し、入門者でも理解しやすいようにまとめたもので、仏教入門書として広く知られています。
凝然はこの書を通じて、仏教の教えを体系的に解説し、後世の僧侶や仏教信徒にとって貴重な指導書となりました。
凝然(ぎょうねん)は、1240年(延応2年)に伊予国越智郡高橋郷(現今治市)で、伊予の名門一族、越智家に生まれました。
越智家は歴史的に仏教と深い縁があり、凝然が育った環境でも多くの仏縁を持つ人物が存在しており、大叔父である「小千(越智)三郎」が出家して「西谷房」と呼ばれる僧侶となったことが記録されています。
この名前は、円明寺(延命寺)の西谷にあった「坊(小さなお寺)」に由来しており、この出来事が、後に凝然が執筆活動を行うことになる円明寺(延命寺)の西谷房に繋がっていきます。
凝然が幼少期の頃の円明寺(延命寺)は、当時の円明寺(延命寺)は天台宗の影響を受けた学問寺院でした。多くの僧が塔頭寺院で修行を行っており、凝然も同じく仏教の基礎を学びました。
幼名の頃の名前は不明ですが、後に字を「示観(じかん)」、法名を「凝然」としました。
16歳の時、凝然は当時の仏教の中心地「叡山(比叡山)」で菩薩戒(ぼさうつかい)を受け、正式に僧侶としての修行を開始しました。比叡山は当時、天台宗の本山であり、多くの僧侶がここで仏教を学びました。凝然もその一人で、ここで仏教の基本的な教義を習得しました。
その後は東大寺戒壇院に移り、師匠の「円照(えんしゅう)和尚」から「律学(仏教の戒律に関する学問)」を深く学びました。また、華厳宗の教義も修得し、複数の仏教宗派を学ぶ「八宗兼学」という学び方を実践しました。
これは、天台・真言・律宗・華厳などの教義を幅広く学び、仏教のさまざまな教えを統合的に理解するための方法です。当時の仏教界では、これが理想的な学びの形とされていました。
そして29歳になった凝然は、故郷である伊予に戻ると、円明寺(延命寺)の西谷に籠もって仏教入門書『八宗綱要200余巻』を執筆したのです。
この書物は、仏教の入門書として位置づけられ、律学が実践していた八宗派の教義をまとめた重要な著作です。これにより、凝然は仏教界での地位を確立しました。
建治3年(1277年)、凝然が38歳の時、師である円照が亡くなり、その後を継いで東大寺戒壇院の院主となりました。
凝然は戒壇院の指導者として、南都(奈良)の主要な寺院群を統括し、戒律や仏教の教えを広める役割を果たしました。
徳治2年(1307年)には、後宇多上皇が出家する際の戒師を務めました。この時、凝然は67歳でした。
戒師として、僧侶に戒律を授ける役割を果たすのは非常に名誉なことであり、この事実からも、凝然が仏教界において非常に大きな影響力を持っていたことがわかります。
その後、82歳で亡くなるまでの実に45年間、凝然は東大寺戒壇院の院主として、戒壇の維持と律学の再興に尽力しました。その業績は南都(奈良)の仏教界に大きな影響を与え、凝然の教えや戒律は後世の僧侶たちに受け継がれました。
延命寺には凝然の供養とその業績を業績を称え、境内に供養塔が建てられました。この供養塔は現存しており、今も訪れる人々に彼が果たした仏教界への貢献とその学びの重要性を伝えています。
地域の英雄「越智孫兵衛を称える供養等」
延命寺にはもう一つ重要な供養等があります。それが「越智孫兵衛供養塔」です。
越智孫兵衛は、寛文から元禄(1661~1703)の時代に阿方(あがた)村(現在の今治市)で庄屋(村長)を務めた人物で、その優れた知恵と人間性によって村民から非常に尊敬されていました。
この時代の阿方村は松山藩に属しており、越智孫兵衛の功績は松山藩からも高く評価され、表彰されています。
越智孫兵衛は一体何をしてこれほど評価されたのでしょうか?簡潔に言えば村民たちの年貢の削減、つまり減税です。
当時、松山藩の農民たちは「七公三民」という重税制度に苦しんでいました。この制度では、その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、残りの3割が農民の所得となるものでした。今で言うと、収穫の70%が税金として徴収され、30%が農民の手元に残るという厳しい状況です。
江戸時代の年貢は、農民たちにとって非常に重い負担でした。年貢の取り立ては基本的に「石高制」で行われ、その年の米の収穫量に応じて課税されました。年貢は「公四民六」や「公五民五」などの割合で課されるのが一般的でしたが、松山藩のように「七公三民」という重税を課す地域も存在していました。
この過酷な制度の下では、農民たちは十分な生活を送ることが難しく、しばしば食糧不足や飢饉に見舞われることがありました。年貢の取り立ては、身分が上である武士によって厳格におこなわれ、税を逃れようとしたり、不作を理由に年貢の減免を願い出ることは命懸けの行為で、「打ち首(斬首刑)」という厳罰を受けることもありました。
このような厳しい時代に、阿方村の庄屋であった越智孫兵衛は、松山藩の過酷な重税制度から村民たちを救うために行動を起こそうと考えていました。しかし、孫兵衛は、その行為が非常に危険であることも十分に理解していました。
そこで、直接的に訴えるのではなく、間接的な方法でその難題に対処することにしました。
その年、藩命で用水池の工事が始まることになりましたが、孫兵衛は村民に対し、にぎり飯ではなく、米麦を半々にしたおかゆを竹筒に入れて持参してくるようにと言いました。村人は不審に思いましたが、「尊敬する孫兵衛さんの言うことだから…」とそれに従って米麦を混ぜたおかゆを持参しました。
昼食の際、他の村の人々がにぎり飯を食べている中、阿方村の人々は竹筒からこのおかゆをすすっていました。
この様子は当然役人の目に留まり、「阿方村の者が昼間からどぶろくを飲んでいる」として村の代表である孫兵衛を呼び出しました。
呼び出された孫兵衛、悲しそうな顔をしながら、「これはおかゆでございます。阿方村は地味が悪く、年貢米を納めた後、ほとんど何も残りません。おかゆしか作れない状況で、にぎり飯を作る余裕もないのです」と説明しました。
孫兵衛は悲しそうな表情をして、こう説明しました。「これはおかゆです。阿方村は地味が悪く、年貢を納めた後、ほとんど米が残りません。にぎり飯を作る余裕などないのです」と。役人はこの言葉に深く同情し、すぐにこの状況を藩主に報告しました。
役人はこの話を聞いて、阿方村がそれほどまでに困窮していることを知り、深く心を打たれました。そして、この状況を藩主に報告しました。藩主もその厳しい現実に心を動かされ、特例として阿方村に限り年貢を「六公四民」に減らす決定を下しました。
つまり収穫の6割が税金、4割が農民の所得という特例が適用されたのです。この減税措置により、農民たちの生活は大きく改善され、阿方村のお百姓が孫兵衛に心から感謝したことはいうまでもありません。
それから数年が経ち、享保(1716〜1736年)の時代に入りました。この時期は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗による享保の改革が進められていた時期で、財政再建や農業振興を目的とした様々な政策が行われました。
しかし、この時代、日本の近世史において「享保の大飢饉」(享保17年〜18年、1732〜1733年)が発生しました。享保の大飢饉は、日本の三大飢饉の一つとして知られています。この飢饉は、特に西日本(西海、山陽、南海道地方)で大きな影響を与えました。
主な原因は、長期間続いた霖雨(長雨)と、作物を食い荒らす蝗害(いなごの大量発生)でした。これらの自然災害により、農作物が壊滅的な打撃を受け、食糧不足が深刻化しました。特に米の収穫が激減し、米価が急騰。多くの人々が食糧不足に苦しみました。
1733年(享保18年)の正月頃には、米の供給不足が深刻化し、全国で米価が急上昇しました。特に江戸などの都市部では、貧困層が深刻な食糧不足に直面し、生活が困窮しました。このような状況の中で、後に「享保の打ちこわし」と呼ばれる暴動が相次ぎました。
しかし、阿方村では孫兵衛のおかげで税制が改善されていたおかげで、この大飢饉においても、村では餓死者を一人も出さずに乗り越えることができました。
孫兵衛は元文三年(1738年)に亡くなりましたが、その功績は忘れられることなく、村人たちは孫兵衛を讃え、延命寺の境内に立派な墓「越智孫兵衛供養塔」を建てました。この供養塔は越智孫兵衛という村を救った英雄を後世に伝える象徴として建てられました。
さらに、毎年8月7日には、村民たちが集まり、越智孫兵衛の功績を称えるための慰霊祭が行われるようになりました。この行事は今も行われており、地域全体で越智孫兵衛への感謝の気持ちを継承していっています。
美しい自然と「花の寺」
延命寺は、四季折々の花々が咲き誇る「花の寺」としても有名です。
春には桜が境内を彩り、馬酔木(あせび)の淡い色合いの可憐な花が延命寺の厳かな雰囲気に優雅な彩りを添えます。
春から初夏にかけては、色とりどりのつつじが境内を華やかに飾り、、初夏には紫陽花が咲き、梅雨のしっとりとした空気の中で美しい青や紫の花が鮮やかに映えます。
夏の間は深緑が広がり、秋には、紅葉が境内を赤や黄金色に染め、四季折々の美しさを訪れた人々に楽しませてくれます。
四国八十八ヶ所巡礼の一環としてだけでなく、ぜひ延命寺を訪れて、その魅力を存分にお楽しみください。