神仏探訪記 神仏探訪記

  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 神仏探訪記について
    • 写真の二次利用について
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

桜

FEATURE

05

頓田川に咲いた一人の想い、消えゆく桜並木に秘められた地元愛
今治山林火災

FEATURE

03

《今治山林火災③》最後の防衛ラインを突破……突如住宅街を襲った飛び火の恐怖
今治山林火災

FEATURE

05

《今治山林火災⑤》やっとこれで…被災地に降り注いだ恵みの雨
今治タオル
【今治タオル物語⑦】菅原利鑅“先生”が紡いだ技術の継承──ジャカード織機の導入と紋織タオル
今治山林火災
《今治山林火災①》地元が燃えている…現地住民が語る生々しい初日の体験談
歴史
「折敷に揺れ三文字」 FC今治のエンブレムに隠された歴史
文化
今治の夏が熱い!市民のまつり「おんまく」で最高の思い出を!

三嶋神社・東村(今治市・富田地区)

  • Post
  • Share
  • Hatena
  • Pocket
  • Pin it

今治市には、「三嶋神社(三島神社)」と呼ばれる神社が市内各地に点在しており、いずれも地域に根ざした歴史と信仰を伝えています。

なかでも、東村に鎮座する「三嶋神社・東村(みしまじんじゃ)」は、特に古い由緒をもつ神社として知られています。

その創建は、崇峻天皇の御代2年(西暦589年)にさかのぼるとされており、これは、継獅子(つぎじし)発祥の地として知られる立花・鳥生地区の「三嶋神社」と同じ年に創建されたと伝えられていることから、深い関わりがあると考えられています。

そして、創建の由緒とともに語り継がれてきたのが、古代日本と朝鮮半島との間に起きた戦いの物語です。

鉄人を討て!伊予の英雄伝

今から約1300年前。

当時、新羅 (しらぎ)・百済 (くだら)・高句麗 (こうくり)の「三韓(朝鮮大陸)」に「鉄人」と名乗る非常に強くて悪賢い武将がいました。

鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。

そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。

これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。

最恐の鉄人の進軍を止めろ!

日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、彼は突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。

兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。

さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れました。

このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。

暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。

そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。

もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族「小千益躬・(越智益躬・おちのますみ)でした。

三島大明神の御神託

朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「三嶋大明神(三島大明神・大山祇神・大山積神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。

その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。

「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」

この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。

益躬 vs 鉄人

いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。

武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。

しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。

それでも益躬じっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の選坂(かにさか )にまで到達しました。

この時、ついに決定的な好機が訪れます。

三島大明神の神撃が鉄人を貫く

その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。

すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。

鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいきました。そして驚くべきことに、唯一の弱点とみられた足の裏に穴に突き刺さったのです。

これが致命傷となり、鉄人はそのまま息を引き取りました。

こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。

大将である鉄人を失い大混乱の軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。

手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。

詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。

この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。

小千益躬の凱旋と神社の創建

そして崇峻天皇(すいしゅんてんのう)の御代2年(西暦589年)、伊予へ凱旋帰国した小千益躬(おちのますみ)は、榊の枝に神鏡を懸けて三島大明神(大山祇神)を祀りました。

これが、立花・鳥生地区に鎮座する「三嶋神社・祇園神社」の起源とされています。

同じく「三嶋神社・東村」も、この年に三島大明神(大山積大神)を勧請して創建されたとされており、両社のあいだには非常に深い関係があると考えられています。

三嶋神社が歩んだ信仰の歴史

和銅五年(712年)には、大山祇神社から高龍神(たかつりのかみ)と大雷神(おおいかずちのかみ)が勧請され、神格がさらに高めまり、地域の人々からの信仰が一層深まりました。

そして今日に至るまで、地域の人々にとって大切な場所であり続けています。

神社名

三嶋神社・東村(みしまじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市東村二丁目3番21号

電話

0898-31-1742

主な祭礼

例祭(5月第3日曜日)

主祭神

大山積大神(おほやまつみのおほかみ) 

境内社

荒神杜(須佐之男命) ・大名牟遅神杜(天照大神、大己貴命)

フォトギャラリーを閲覧する
  • Post
  • Share
  • Hatena
  • Pocket
  • Pin it
もっと知る
前の記事
次の記事
  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 神仏探訪記について
    • 写真の二次利用について
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ