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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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TEMPLE寺院の歴史を知る

西念寺(今治市・清水地区)

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南北朝の動乱から生まれた祈りの場

南北朝の動乱に始まり、戦国の戦火、そして現代へ。

幾度となく戦乱に巻き込まれながらも、そのたびに人々の祈りによって姿を取り戻してきた寺があります。

それが、今治市東村にある「西念寺(さいねんじ・西念禅寺)」です。

河野通治と西念寺のはじまり

時代は、鎌倉幕府が滅びゆく末期、そして南北朝の動乱が吹き荒れる14世紀初頭。

伊予国(現在の愛媛県)で勢力を持っていた豪族・河野通治(こうの みちはる、のちの通盛)は、臨済宗の高僧・南山士雲(なんざん しうん)を通じて、急速に台頭していた武将・足利尊氏(あしかが たかうじ)と出会いました。

この出会いが、通治の運命を大きく変えることになります。

感謝が生んだ“讃国泰山学院”の再興

かつて河野氏は、源平合戦や承久の乱で活躍し、鎌倉幕府のもとで伊予の守護として地域を統治していました。

しかし、幕府末期の混乱によって守護職を失い、勢力は大きく衰えていました。

そんな中、尊氏の信頼を得た通治は、再び伊予守護に任命され、河野氏はふたたび伊予国での力を取り戻すことになります。

この復権のきっかけを作ってくれた南山士雲に、通治は深い感謝の気持ちを抱くようになります。

その思いをかたちにするため、通治はある行動に出ました。

それが、士雲の弟子である枢欲玄機(すうよく げんき)が住職を務めていた、天台宗の寺院「讃国泰山学院(さんごくたいざんがくいん)」の再建です。

西念寺(西念禅寺)の誕生

当時、讃国泰山学院は長年の混乱により荒廃していましたが、通治はこの寺の修復に着手し、堂や塔を整え、寺を支えるために田畑を寄進しました。

その結果、元弘元年(1331年)には、泰山学院は再び立派な姿を取り戻し、多くの人々が祈りを捧げる信仰の場所としてよみがえりました。

さらに、寺の名を「西念寺(西念禅寺)」と改め、宗派も天台宗から臨済宗東福寺派へと改宗。

そして、心からの敬意をもって南山士雲を開山(寺の創始者)として迎え入れたのです。

ただし、実際には「讃国泰山学院」の時代から住職を務め続けていたのは弟子の枢欲玄機(すうよく げんき)であり、寺の再建や日常の運営にあたって中心的な役割を果たしていました。

そのため、事実上の開山は枢欲玄機、再興の象徴的存在が南山士雲と位置づけられるのが適切でしょう。

西念寺創建へと至る通盛の歩み

ここからは、河野通治が「河野通盛」と名を改めた後の時代に焦点を当て、南北朝動乱期におけるその足跡をたどりながら、西念寺が創建されるに至った歴史的背景に迫っていきます。

河野通盛は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河野氏の一族であり、伊予国を本拠としながら、動乱の世にあって各地の合戦に身を投じたと記録に残されています。

その生涯はまさに、戦乱と政変の中で河野氏の命運を背負い、幾多の試練を乗り越えた波乱に満ちたものでした。

「元弘の乱」河野氏の敗北と失墜

その中でも特に重要な戦いが、「元弘の乱(1331年6月5日~1333年7月17日)」です。

この戦いは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒すべく起こした全国規模の反乱で、日本の歴史における大きな転換点のひとつとされています。

1333年6月、鎌倉幕府の命を受けて、幕府方の武将として出陣した通盛は、京都にある重要な軍事拠点、「蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)」で足利尊氏率いる討幕軍と激しい戦闘を繰り広げました。

この三十三間堂の戦いは、京都防衛の要として幕府方が死守を試みた重要な局面の一つでしたが、尊氏の勢いは凄まじく、通盛は多勢に無勢のなか奮戦するも、最終的に撤退を余儀なくされました。

この敗北は、通盛個人だけでなく、伊予国に根を張る河野氏一門にとっても大きな痛手となりました。

幕府方に属したことで、討幕の大勢が固まった後には立場を失い、領地や官職、家中の威信までもが揺らぎ、家の存続さえ危ぶまれる深刻な状況に追い込まれたのです。

武士を捨てて仏教の世界へ

なんとか鎌倉に落ち延びた河野通盛は、武士の象徴である髷(まげ)を断ち、剃髪して、僧としての名を「善慧(ぜんえ)」と改め、鎌倉の建長寺(けんちょうじ)に入寺しました。

長きにわたる戦乱のなかで、無常(世の中の移ろいやはかなさ)を深く感じ取った通盛は、平和と心の救いを求めて、武士としての生き方を捨て、仏教に身を投じたのです。

建長寺は、日本で最初に建立された本格的な禅宗寺院であり、坐禅を中心とした厳しい修行の場として知られています。

通盛にとって、戦の連続だった日々を離れ、心を落ち着けるための静かな避難所でもありました。

出家後の通盛は、ここで禅の教えに従い、自らの内面と向き合う日々を送りました。

かつては武力で道を切り開いてきた通盛でしたが、今や仏法に導かれる生き方へと転じていったのです。

そしてこの体験が、のちに禅宗寺院である西念寺(西念禅寺)につながることになります。

一方その頃、戦乱によって河野家は領地と影響力を失い、存続すら危ぶまれる危機的状況に追い込まれていました。

幕府の力が衰え、建武政権下でも政治の混乱が続く中、地方武士団が従来の勢力を保つことはますます難しくなっていたのです。

しかし、運命は再び大きく動き出します。

足利尊氏の挙兵と武士としての再起

1335年(建武2年)、足利尊氏は建武政権の方針に不満を抱き、ついに自ら兵を挙げました。

これは、武士たちの間に広がっていた不満が一気に爆発した象徴的な出来事であり、尊氏にとっては後に室町幕府を開くこととなる大きな転機となりました。

その頃、河野通盛は「善慧(ぜんえ)」という法名で、鎌倉の建長寺に身を置き、静かな修行生活を送っていました。

しかし、建長寺で住職を務めていた南山士雲を通じて、かつて戦場で刃を交えた尊氏と再会し、再び武士として生きることを決意します。

当時の尊氏は、建武政権に不満を抱く諸将を味方に引き入れ、勢力を拡大しつつある段階にありました。

そのため、武勇と名門の血筋を備えた通盛の存在は、尊氏にとって非常に心強いものでした。

武士として尊氏の軍勢に加わった河野通盛は、各地の戦で勇敢に戦い、目覚ましい武功をあげていきました。

やがてその働きが認められ、通盛は再び伊予の守護職に任命され、戦乱で衰えていた河野氏も足利政権の後ろ盾を得て勢力を回復しました。

河野氏は、伊予国における守護としての地位と影響力を取り戻し、再び強い存在感を示すようになったのです。

西念寺の開創とその意義

「西念寺(西念禅寺)」が創設された元弘元年(1331年)は、まさにこのような動乱の真っ只中にありました。

日本が南北朝の動乱に突入しようとしていた頃、武士たちは、戦乱の中で家族や領地を守るために絶え間なく戦い続けていましたが、戦場での命の儚さや世の無常を痛感することも少なくありませんでした。

多くの武士たちが仏教に心の救いを求め、信仰を深めていく動きが広がっていました。

通盛もまたその一人であり、戦いの果てに、心の拠りどころとして仏教に静かな救いを見出すようになったのです。

河野通盛が選んだ禅の道

西念寺(西念禅寺)の前身・讃国泰山学院が属していた天台宗は、当時の日本で広く信仰されていた宗派であり、武士や庶民にとって心の支えとなる教えを説いていました。

しかし、時代が鎌倉期に入ると、社会の変化とともに禅宗が注目されるようになります。

禅宗は、座禅や瞑想を通じて内面を磨き、精神を鍛えることを重視する宗派であり、絶え間ない戦の中で生きる武士たちにとって、心の平安を得るための実践的な教えとして受け入れられていきました。

河野通盛もまたその影響を受け、仏教への信仰を深める中で禅の教えに強く心を惹かれていきます。

そして、僧侶として修行を行っていた建長寺住職・南山士雲(なんざん しうん)を西念寺の開山(初代住職)として迎え、禅宗(臨済宗東福寺派)へと改宗したと考えられます。

戦火に消えた伽藍と希望の本尊

16世紀後半、天正の世になると、日本全土は戦乱の炎に包まれていました。

西念寺もまた例外ではなく、永禄二年(1559年)の戦火により堂塔の多くを焼失し、さらに天正二年(1574年)、そして豊臣秀吉の四国征伐の際にも炎に呑まれました。

伽藍は灰燼に帰し、かつての壮麗な姿は跡形もなく消え失せます。

そして、江戸時代初期を迎える頃には、寺域の中にかろうじて小さなお堂が一つ残るのみという、見るも無残な姿へと変わり果ててしまいました。

しかし、奇跡的にも四体の本尊だけは難を逃れました。

これらの本尊は、西念寺を創建した河野通盛が建立当初に安置した尊像であり、寺の中心をなす極めて重要な仏像でした。

度重なる戦火によって多くを失った中で、この四体の本尊が守られていたという事実は、後の世代にとっても大きな意味を持ち、寺の再建に向けた希望の象徴となりました。

時を経て、少しずつ再建の動きが始まり、まずは羅漢堂が建立され、さらに明治43年(1910年)には、無得和尚の尽力によって本堂も再建されました。

そして現在、西念寺は再びその姿を整え、かつての祈りを今に伝える場所としてあり続けています。

寺院名

西念寺 ・西念禅寺(さいねんじ・さいねんぜんじ)

所在地

愛媛県今治市中寺724番地

宗派

臨済宗東福寺派

山号

東興山

本尊

薬師如来

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