「西念寺(西念禅寺・せいねんじ)」は、1331年に河野通盛(かわの みちもり)が創建した寺院です。
河野通盛は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、伊予国(現在の愛媛県)を治めていた有力豪族の河野氏の一族の一人でした。河野氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、伊予国を中心に大きな勢力を誇った強力な武士団で、日本史のその名を刻んでいます。
河野通盛と元弘の乱
河野通盛は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河野氏の一員で、多くの戦いに参加してきました。その中でも特に重要な戦いが、元弘の乱(1331年6月5日~1333年7月17日)です。
この乱は、鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が討幕のために起こした反乱であり、日本全土を巻き込む大規模な動乱でした。
1333年6月、鎌倉幕府の命を受けた河野通盛は、幕府側の武将として京都にある重要な軍事拠点、「蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)」で足利尊氏率いる討幕軍と激しい戦闘を繰り広げました。
しかし、討幕軍の圧倒的な力に敗北し、撤退に追い込まれてしまいました。この敗北は、河野氏にとっても大きな打撃となり、お家や領地、権力を失う危機に瀕しました。
河野通盛 「武将から禅僧への転身」
鎌倉に逃れた河野通盛は、武士としての生き方を捨て出家を選択しました。長い戦乱を経験する中で、無常(人生や世の中が移ろいゆく様子)を痛感し、平和な心の救いを求めて仏教に帰依したと考えられます。
そして、武士としての髷(まげ)を断ち切り、剃髪(頭を剃ること)、新たに「善慧(ぜんえ)」という僧侶としての名前を名乗り、鎌倉の建長寺に入りました。
一族の復興
一方、通盛の一族である河野氏は大きな困難な状況に直面していました。戦乱で領地や権力を失い、一時は河野氏の存続すら危ぶまれるほど追い込まれたのです。
幕府の力が弱まり混乱が続く乱世の中で、河野氏は勢力を維持するのが難しくなっていたのです。
しかし、運命は再び動きます。
足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、再び挙兵した際、通盛は尊氏と再会し、武士として再び仕えることを決意しました。尊氏の信頼を得た通盛は、部下として奮闘。
最終的に、河野一族は足利尊氏の力を借りて再び力を取り戻し、伊予国における有力な武士団としての地位が回復し、伊予国における影響力を維持することができました。
西念寺の開創とその意義
「西念寺(西念禅寺)」が創設されたのはそんな時代でした。
1331年日本が南北朝の動乱に突入しようとしていた頃、武士たちは、戦乱の中で家族や領地を守るために絶え間なく戦い続けていましたが、戦場での命の儚さや世の無常を痛感することも少なくありませんでした。
戦乱の試練
16世紀後半の天正年間、日本全土は戦国時代の激動に包まれていました。この時期、豊臣秀吉による四国征伐(1585年)が行われ、四国全域が戦火に巻き込まれました。多くの寺院や城が破壊される中、西念寺もその影響を免れることはできず、寺院の大部分が焼失してしまいました。
特に、西念寺の伽藍(がらん、寺の主要な建物)は戦乱によって壊滅的な被害を受けました。寺の建物の多くが炎で失われ、かつての壮大な姿は跡形もなくなったといいます。しかし、奇跡的に四体の本尊だけは無事に残されました。これらの本尊は、西念寺を創建した河野通盛が建立当初に祀ったものであり、寺の中心となる非常に重要な仏像です。
寺が戦火によって多くのものを失う中で、この本尊たちが無事であったことは、後の世代にとっても非常に重要な意味を持つ出来事となりました。戦乱の中でも守られた本尊は、寺院の長い歴史と精神的な支えを象徴する存在として、地域の人々の信仰を集め続けています。
現在でも、この四体の本尊は西念寺の羅漢堂に安置されており、参拝者たちが静かに祈りを捧げる特別な場所となっています。