「西念寺(西念禅寺・せいねんじ)」の創建は、天治2年(1125年)にさかのぼります。当時、この寺は天台宗に属し、「讃国泰山学院(ここくさんたいへいいん)」という名で知られていました。
時代は進み、河野通治(こうの みちはる・通盛)は、臨済宗の高僧である南山士雲(なんざん しうん)を通じて、当時の実力者である足利尊氏(あしかが たかうじ)と出会います。この出会いがきっかけとなり、河野通治は伊予守護職に任命され、地位と権力を得ました。
この任命に深く感謝した河野通治は、その恩に報いるため、当時南山士雲の弟子であり、西念寺の住職を務めていた枢欲(すうよく)と協力し、元弘元年(1331年)に寺院の再建に着手します。西念寺の堂塔が修復され、さらに寺を支えるための田畑が寄進されました。
そして、南山をこの新たな寺にに招き入れて西念寺は再興を果たしました。
河野通盛と元弘の乱
河野通盛は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、伊予国(現在の愛媛県)を治めていた有力豪族の河野氏の一族の一人でした。河野氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、伊予国を中心に大きな勢力を誇った強力な武士団で、日本史のその名を刻んでいます。
河野通盛は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河野氏の一員で、多くの戦いに参加してきました。その中でも特に重要な戦いが、元弘の乱(1331年6月5日~1333年7月17日)です。
この乱は、鎌倉幕府に反旗を翻した後醍醐天皇が討幕のために起こした反乱であり、日本全土を巻き込む大規模な動乱でした。
1333年6月、鎌倉幕府の命を受けた河野通盛は、幕府側の武将として京都にある重要な軍事拠点、「蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)」で足利尊氏率いる討幕軍と激しい戦闘を繰り広げました。
しかし、討幕軍の圧倒的な力に敗北し、撤退に追い込まれてしまいました。この敗北は、河野氏にとっても大きな打撃となり、お家や領地、権力を失う危機に瀕しました。
河野通盛 「武将から禅僧への転身」
鎌倉に逃れた河野通盛は、武士としての生き方を捨て出家を選択しました。長い戦乱を経験する中で、無常(人生や世の中が移ろいゆく様子)を痛感し、平和な心の救いを求めて仏教に帰依したと考えられます。
そして、武士としての髷(まげ)を断ち切り、剃髪(頭を剃ること)、新たに「善慧(ぜんえ)」という僧侶としての名前を名乗り、鎌倉の建長寺に入りました。
河野一族の復興
一方、通盛の一族である河野氏は大きな困難な状況に直面していました。戦乱で領地や権力を失い、一時は河野氏の存続すら危ぶまれるほど追い込まれたのです。
幕府の力が弱まり混乱が続く乱世の中で、河野氏は勢力を維持するのが難しくなっていたのです。
しかし、運命は再び動きます。
足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、再び挙兵した際、通盛は尊氏と再会し、武士として再び仕えることを決意しました。尊氏の信頼を得た通盛は、部下として奮闘。
最終的に、河野一族は足利尊氏の力を借りて再び力を取り戻し、伊予国における有力な武士団としての地位が回復し、伊予国における影響力を維持することができました。
西念寺の開創とその意義
「西念寺(西念禅寺)」が創設された元弘元年(1331年)はそんな時代でした。
日本が南北朝の動乱に突入しようとしていた頃、武士たちは、戦乱の中で家族や領地を守るために絶え間なく戦い続けていましたが、戦場での命の儚さや世の無常を痛感することも少なくありませんでした。
戦乱の試練
16世紀後半の天正年間、日本全土は戦国時代の激動に包まれていました。天正2年(1574年)、戦乱の影響を受け、西念寺の一部が焼失してしまいました。さらに、豊臣秀吉による四国征伐の戦火に巻き込まれ、永禄2年(1559年)に寺院の大部分が焼失してしまいました。
特に西念寺の伽藍(がらん、寺の主要な建物)が壊滅的な被害を受け、寺の建物の多くが炎で失われ、かつての壮大な姿は跡形もなくなり、江戸時代初期には小さなお堂だけがかろうじて残っていました。
しかし、奇跡的に四体の本尊だけは無事に残されました。これらの本尊は、西念寺を創建した河野通盛が建立当初に祀ったものであり、寺の中心部でもある非常に重要な仏像でした。寺が戦火によって多くのものを失う中で、この本尊たちが無事であったことは、後の世代にとっても非常に重要な意味を持つ出来事となりました。
その後、寺は徐々に再建が進められ、まず現在の羅漢堂が建立されました。続いて、明治43年(1910年)には無得和尚によって本堂が再建されました。
こうして、幾多の困難を乗り越えながら形作られた現在の西念寺は、戦乱の中で奇跡的に守られた四体の本尊を中心に、長い歴史を歩み続けています。羅漢堂に安置された本尊は、今も変わらず地域の人々の心の拠り所となり、静かに祈りを捧げる参拝者を迎えています。
この寺院が歩んできた歴史は、単なる建物の復興を超えて、時代を超えた信仰の力と結びつき、これからも人々の信仰を集め続けるでしょう。