今治市玉川町畑寺に鎮座する「光林寺(こうりんじ)」は、天皇家とも歴史的に深い繋がりを持つ寺院です。境内からは、南に約7kmの地点にある「楢原山(なばらさん)の絶景を遠望することができ、その雄大な姿は、光林寺の静けさと相まって訪れる者の心を和ませます。
楢原山は「奈良原山」とも呼ばれ、奈良原山神社が鎮座しており、光林寺はその別当寺としての重要な役割を担ってきました。別当寺とは、神社の管理や宗教儀式を行う寺院を指し、光林寺は長い間、奈良原山神社の運営を支えながら、地域の信仰や文化の中心的な存在として人々に親しまれ続けています。
「光林寺」は、大宝元年(701年)、文武天皇の勅命により、徳蔵上人によって開かれました。この寺は、奈良原山山頂にあった蓮華寺と共に設立され、光林寺の歴史の始まりとなりました。徳蔵上人は、古代日本に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫であると伝えられており、弓月君は第十五代応神天皇の時代に日本へやってきたとされています。
光林寺の始まりと教え
徳蔵上人は、当時の仏教における重要な二つの宗派、法相宗(ほうそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)の教えを深く学んだ高僧でした。法相宗は、唯識思想に基づいて、人間の認識や心の働きを中心に仏教の教えを体系化した宗派で、奈良にある興福寺や薬師寺を中心として広まりました。
これに対して、三論宗は、中国から伝わった仏教哲学で、すべてのものが無常であるという空の思想を重視し、現実のものごとがすべて一時的であると説きます。三論宗の教えは、現在も東大寺で伝えられています。
光林寺は、これらの宗派を同時に学ぶ二宗兼学の寺院として設立されました。その体制は、約100年もの間続き、さらに複数の宗派の教えを学ぶ三宗兼学も行われていました。
当時、仏教はさまざまな教えを取り入れて発展しており、光林寺もその影響を受け、幅広い仏教の知識と信仰を深める場として機能していたのです。
弘法大師(空海)の教え
時を経て、唐から帰国した「弘法大師(空海)」がこの地に立ち寄り、玉川町の南部に位置する楢原山(ならばらさん)に登り、そこで密教を伝授しました。 それまで光林寺は、法相宗と三論宗という仏教の教えを広めていましたが、空海の訪問により密教の教えがこの寺院で展開されるようになり、光林寺は密教を広める重要な拠点へと変わったのです。
この出来事により、光林寺は日本における密教の中心的な寺院となり、後に多くの天皇や貴族たちの保護を受けるようになりました。特に空海の密教思想は、日本仏教界に大きな影響を与え、光林寺もまた、密教の発展において重要な役割を果たしました。
火災と復興の歴史
光林寺の歴史は、火災と復興の繰り返しでもありました。 天長3年(826年)年3月、空海の講義を聞いた「淳和天皇」が光林寺の再興を命じ、大規模な修復・拡充が行われました。天長7年(830年)には。
僧坊が49院(お坊さんが住む建物)が建てられ、寺院は大いに栄えました。 その後、長久3年(1042年)に第69代後朱雀天皇の勅裁によって光林寺は再び再建されます。この再建には、当時の有力な武将であった源頼義や河野親経が深く関わり、堂塔や僧坊が新たに建てられました。
この時に建立された薬師堂は、源頼義が国内に49カ所建立した薬師堂の一つで、光林寺の復興とともに信仰の拠点としての重要性を増すこととなりました。
しかし、光林寺はその後の歴史の中で幾度も火災に見舞われ続けました。
光林寺の歴史において最も大きな被害をもたらしたのが、文永3年(1266年)に発生した大火でした。この火災は、寺院の多くの建物を焼き尽くし、光林寺の存続が危機に瀕しました。多くの歴史的な建造物や貴重な文化財が失われ、その影響は深刻でした。
しかし、仁王門と総門だけは奇跡的に焼失を免れました。この奇跡は、寺院にとって大きな希望をもたらし、光林寺が再び復興するための象徴となりました。この火災の後、光林寺は天皇や地元有力者たちの支援を受けて、再建に向けた取り組みが始まりました。
この再建には、一つの伝説が伝えられています。
当時の天皇であった亀山天皇は、光林寺の復興を強く願い、特別な祈願を行いました。すると、まるでその願いが通じたかのように、突然雨が降り始めたのです。その年は深刻な干ばつが続き、大飢饉が心配されるほどの危機的状況でした。人々はこの奇跡に深く感謝し、寺の再建に喜んで協力したと言われています。
こうして再び繁栄を取り戻した光林寺でしたが、その後も火災の試練が続きます。
文保2年(1318年)に起こった大火でも、多くの建物が被害を受けてしまいました。しかし、この時も仁王門と総門は無事であり、寺院のシンボルとしてそのまま残りました。そして、再び再建のための支援が再び行われ、光林寺は再度復興を果たします。
さらに、永禄元年(1558年)と元亀3年(1572年)と立て続けに大規模な火災が発生しました。この時期は戦国時代の混乱の中でもあり、寺院の維持が非常に困難な状況にありました。光林寺は、これらの火災で再び多くの建物を失うことになりますが、それでもなお仁王門と総門は無事でした。
この時の再建は、伊予を治めていた河野氏の一族である「河野通直(こうの みちなお)」先頭に立って、修復の指揮を執りました。通直は、旧来の様式を尊重しながら寺院の再建を進め、慎重に修復が行いました。 元禄十四年(1701年)、光林寺は開山一千年を迎えました。
この記念すべき年に、伊予国今治藩の第3代藩主である「松平定陳(まつだいら さだのぶ)」によって、新たに本堂が再建されました。この再建された本堂は、現在もそのままの姿で残り、訪れる人々を迎え入れています。
その後も、光林寺は修復と発展を続けました。元治2年(1865年)には、寺の重要な施設である客殿が再建され、こちらも現在まで保存されています。 さらに、昭和55年(1980年)には、光林寺の象徴ともいえる仁王門が茅葺きから瓦葺きへと改修されました。 そしてこれらは、光林寺の壮大な歴史を現代に伝えています。
光林寺の影響力
光林寺は、今でこそ高野山真言宗に属しており、その本山は和歌山県にある金剛峯寺ですが、戦前までは京都にある大覚寺派に属していました。 大覚寺派は、平安時代に創建された由緒ある寺院であり、真言宗の中でも特に皇室や貴族との関わりが深い宗派です。
光林寺はその中で重要な役割を担う中本寺(中規模の主要寺院)として、広範囲にわたる末寺や地域社会への影響力を持っていました。 大覚寺派に属していた当時、光林寺の末寺は今治市の玉川町や朝倉村、さらに越智郡の島々にまで広がっており、地域全体にわたる信仰のネットワークが形成されていました。
光林寺がこのように広範囲に影響を及ぼしていた背景には、大覚寺派の持つ宗教的な威厳と共に、地域の人々からの強い信仰がありました。 特に、光林寺は大覚寺派の中で、地域の仏教信仰の拠点としてだけでなく、神護別当という役割をも果たしていました。
神護別当とは、神社の管理や祭祀を担当する役割を指し、光林寺は地域の神社とも深い関わりを持っていたのです。大三島にある薬師寺とは特に密接な関係があり、光林寺がその本寺としての役割を果たしていました。 しかし、明治時代に神仏分離令が発布され、神道と仏教が分離される政策が進められると、光林寺も大きな変革を迎えることになります。
これまで共存していた神仏習合の慣習に基づき、神社には仏像や仏具が安置されていましたが、神仏分離によりこれらが寺院へ移されました。光林寺は、大三島の大山祇神社から仏像や仏具を引き取り、仏教的な要素を受け継ぐことになりました。
このように、光林寺は戦前までは京都の大覚寺派に属し、広範囲にわたる影響力を持ちながら地域社会に根ざした信仰の拠点として機能していました。現在では高野山真言宗の一員として、密教の教えを伝える寺院として続いていますが、戦前の大覚寺派との関わりは、光林寺の長い歴史の中で重要な位置を占めています。
この時代の光林寺は、単なる寺院としてだけでなく、地域の信仰、文化、そして神社との関係を通じて、重要な役割を果たしていたと言えるでしょう。
光林寺に残る重要な文化財
光林寺には、長い歴史の中で蓄積された貴重な文化財が多く残されています。 その中でも特に際立っているのが仁王門です。この門は、数々の災害から免れ、今日まで守られてきました。現在、仁王門は県指定有形文化財に指定され、訪れる人々にその荘厳な姿を見せ続けています。
本尊「不動明王」
本尊である不動明王は密教における重要な守護仏であり、その力強い姿と鋭い眼差しで、人々を守り導く存在として信仰されています この不動明王像は、もともとは楢原山に安置されていたものですが、神仏分離政策の影響で移転されることとなり、光林寺に移されて本尊として祀られています。
「護摩堂」修行の場
光林寺はかつて、門下49を誇る大規模な寺院として、数多くの僧侶たちが修行に励む中心的な場所でした。ここで、僧侶たちは密教の教えを学び、実践するために、厳しい修行を積み重ね、心身を鍛え続けていたのです。
現在でも、光林寺の境内には護摩供養を行う護摩堂があり、そこには不動明王が安置されています。不動明王の前で行われる護摩供養は、炎の中に護摩木を投げ入れ、祈りを捧げる儀式です。この儀式は、精神的な浄化を目的としており、僧侶たちにとって非常に重要な修行の一つです。 護摩堂は、光林寺が密教の伝統を守り伝える場として、今でもその役割を果たし続けています。
四国三十六不動霊場
光林寺は、新四国曼荼羅霊場、四国三十六不動霊場の一つでもあります。 新四国曼荼羅霊場は、四国の様々な寺院を巡りながら仏教の教えを深める霊場の一つで、光林寺はその中でも重要な役割を担っています。四国三十六不動霊場は、不動明王を本尊とする霊場を巡礼する信仰の道であり、光林寺もその霊場の一つとして、多くの信仰者を迎えています。
光林寺は、不動明王を本尊とし、護摩供養などの密教儀式が行われる寺院であるため、不動明王に対する強い信仰を持つ巡礼者が訪れます。霊場巡りを行う信者たちにとって、光林寺は単なる参拝地ではなく、精神的な浄化や悟りを求める場となっています。
県指定文化財「石造宝印塔」
光林寺の境内の裏手には、歴史的に貴重な石造宝印塔が建っています。この塔は、鎌倉時代に作られたもので、現在は県指定文化財として保存されています。
「八祖大師堂」
また、光林寺の八祖大師堂には、中央に彫刻家の桒山賀行が制作した稚児大師坐像が安置され、正面および左右には真言八祖像が並びます。この八祖像の中でも、弘法大師の坐像は特に大きく、他の高僧像よりも一回り大きい姿で表現されています。
「阿弥陀堂飛燕閣」
さらに、光林寺の境内にある阿弥陀堂飛燕閣は、現代建築の技術を取り入れた5階建ての建物で、1階には阿弥陀堂、上層階には位牌堂があり、最上階には展望室があります。この阿弥陀堂には十二神将立像や、内陣には阿弥陀三尊坐像が祀られています。阿弥陀如来は彩色され、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は素木のままで、大和座りをしています。
阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来像は、元々1373年に神仏混淆が許されていた時代、山の頂上に安置されていました。この時代、神社と寺院の融合が許されており、山岳信仰の一環として阿弥陀如来が祀られていたのです。
その後、鈍川木地の人々の手によって、阿弥陀如来像は山から下ろされ、今治市内に移されました。これにより、阿弥陀如来像は地域の中心的な信仰対象となりましたが、長い年月の経過により、像は傷みが進んでいました。
そこで、阿弥陀如来像は京都に運ばれ、専門の技術者による大規模な解体修復が行われました。この修復によって阿弥陀如来像は再び美しさを取り戻し、その後、現在の光林寺に安置されることとなったのです。
休憩スペースと遊び心
5階の展望室には、ソファやテーブルが設置され、参拝者が休憩できる空間となっており、ここには大功徳弁財天像や蔵王権現立像なども安置されています。 このような歴史的な文化財や密教の教えを守り続ける一方で、光林寺は現代的な感性も取り入れています。
その象徴が、法名「晃覚院蓮照直道大童子」と名付けられた像、一言で言えばピカチュウです。 ピカチュウの存在によって、光林寺は一層親しみやすい場所となっています。厳粛な寺院というイメージに、ポケモンの人気キャラクターであるピカチュウが加わることで、子どもたちにも興味を持ってもらいやすくなり、若い世代からも注目されるようになりました。
法名を持つキャラクターとしてのピカチュウは、寺院の伝統や信仰を大切にしながらも、現代の文化を柔軟に取り入れる光林寺の姿勢を象徴しています。
光林寺に残る「長慶天皇伝説」
光林寺には、日本各地に伝わる「長慶天皇伝説」の一つが残っています。
長慶天皇(ちょうけいてんのう)は、南北朝時代(1336年〜1392年)における南朝方の天皇で、第98代天皇に数えられています。 長慶天皇が生きた南北朝時代(1336年〜1392年)は、日本史の中でも非常に複雑で混乱した時期でした。
この時代は、後醍醐天皇が1333年に鎌倉幕府を倒し、新たに天皇中心の政治体制である建武の新政を打ち立てたことから始まります。しかし、この新政は貴族や武士たちの支持を得られず、内乱や不満が次第に広がりました。
これに反発したのが、後に室町幕府を開いた足利尊氏です。尊氏は北朝側の天皇を擁立し、京都を拠点に独自の朝廷を設置しました。こうして、天皇家が二つに分裂し、南朝と北朝が激しく対立する時代が始まったのです。 南朝は、後醍醐天皇によって建武の新政が崩壊した後、京都から吉野へ逃れ、南朝の朝廷を立てました。
しかし、足利尊氏率いる北朝の強力な軍事力に押され、長慶天皇を含む南朝の天皇たちは各地を転々としながら、絶え間ない戦乱と追撃の中で逃亡生活を送っていました。
南朝は、後醍醐天皇が自らの正統性を主張し、京都から吉野(奈良県)に拠点(朝廷)を移して抵抗を続けましたが、足利尊氏率いる北朝の強力な軍事力に押され、南朝側の天皇やその家臣たちは各地を転々としながら、絶え間ない戦乱と追撃の中で逃亡生活を送っていました。
長慶天皇も、後醍醐天皇の後を継いで南朝の3代目の天皇に即位こそしましたが、同じく北朝からの激しい追撃にさらされ、各地を転々とすることを余儀なくされました。 この逃亡生活の中に、長慶天皇が信頼のおける案内人を頼りに、吉野から高野山や四国(伊予の国)へと逃れることが記録されています。
そしてこの一行がたどり着いた場所の一つが、光林寺でした。
当時の光林寺は、地域で大きな勢力を誇る寺院であり、総門、大門、仁王門をもつ拠点にするにはぴったりの場所でした。 また、経済力もあり、広範囲の「荘園(しょうえん)」を持っていました。
荘園とは、平安時代から室町時代にかけて、日本の寺院や貴族、武士たちが所有した私有地のことです。 荘園は、朝廷や中央政府の直接的な支配を受けない免税地としての性格を持っており、寺院や貴族が自ら管理し、農民たちから年貢を徴収していました。
荘園は、土地の所有者が経済的な利益を得るための重要な資源であり、その管理権を持つ者にとって大きな権力の源となっていました。 荘園によって得られる収入は、寺院の運営や維持に使用されていましたが、その土地や財産は他の勢力や盗賊から狙われることもありました。
荘園は通常、政府の直接的な支配から免れていたため、外部の力に頼ることができず、寺院は自分たちで財産を守る必要がありました。 そのため、寺院は「僧兵(そうへい)」と呼ばれる、戦闘訓練を受けた僧侶を兵士として組織し始めました。
このため、当時の光林寺ではなんと7,000人もの僧兵を擁していたのです。これにより、光林寺は地域における重要な拠点として、宗教的役割だけでなく、軍事的・経済的な力をも保持していたのです。また、僧兵は寺院の所有する荘園を守り、外部からの侵略に対抗するだけでなく、時には寺院間や他の勢力との争いに加わることもありました。
その中でも有名なのが、石山本願寺の顕如と織田信長の対立関係です。戦国時代、石山本願寺は僧兵を擁する強力な寺院であり、織田信長の勢力にとって最大のライバルとなっていました。 本願寺の僧兵たちは武力を行使し、信長の拡張を阻止しました。信長は顕如率いる本願寺との戦いにおいて多くの兵力を投じましたが、僧兵たちの抵抗は非常に強力であり、何年にもわたって織田軍を悩ませ続けました。
それだけではなく、光林寺の近くの楢原山には蔵王権現が祀られており、全国から多くの修験者たちが集まっていました。修験者たちは、修行を通じて霊力を得ており、南朝を支持して長慶天皇一行を支えたとされています。
このようにして、光林寺は単なる寺院ではなく、僧兵と修験者が結集する強力な拠点として機能していたため、長慶天皇はこの地で一時的に安全を確保し、休息を取ることができたと伝えられています。
しかし、最終的には北朝の追っ手を完全に振り切るため、長慶天皇は楢原山を越えて、現在の東温市方面に移動していったと言われています。
この伝説を裏付けるように、今治市玉川町には、南朝側の元号が記された経典が今も残されています。これは、この地域が当時、南朝の勢力を支持していたことを示しており、長慶天皇の逃避行がこの地に深く関わっていることを証明しています。
光林寺を中心とした長慶天皇伝説は、単に一つの寺院に留まらず、この地域全体に広がっており、南北朝時代の歴史的背景を現代に伝える重要な文化的遺産となっています。
この光林寺と天皇家との繋がりは、現在も続いています。平成16年に発生した災害で、長慶天皇の第3皇子「尊聖皇子」とその妃「観子妃」のお墓が崩れてしまいましたが、その際に宮内庁と連携することになったのです。
このお墓は古くから地元奈良の人々によって大切にお祀りされていたもので、また「宮ノ上」という地名が示すように、非常に高貴な方々のものと考えられてきました。こうした歴史的背景や、玉川に長慶天皇が潜伏していたという伝説とも関連があるため、宮内庁にも確認がなされ、お墓を修復することについて正式な許可得て、お墓をが作り直されました。
また、長慶天皇が光林寺に滞在されたことを記念する塔を境内に建立する際にも、住職が宮内庁に許可を得るために直接出向いたと言われています。このような行動からも、光林寺と天皇家の繋がりが非常に強く、歴史的にも重要な関係を持っていることがうかがえます。
「光範上人の雨乞い伝説」
光林寺とゆかりのある楢原山は、古くから雨乞いの霊験あらたかな場所として広く知られています。この地域では、仏僧や神職が楢原山の頂上にある奈良原神社に登り、雨を祈念する儀式が長年にわたって行われてきました。
光林寺にも僧侶「は「光範上人(こうはんしょうにん・俊良房)」のの雨乞いの伝承が残っています。
光範上人は、光林寺の僧侶として、地域の人々から深く尊敬されていました。書道や漢詩にも優れ、幅広い知識を持つ博学な僧として知られていましたが、特にその優しさと親身な姿勢が村人たちに強く慕われていました。
常に村人たちの立場に立ち、彼らの不安や悩みに心から寄り添う姿勢は、学識を超えた温かさで、多くの人々に安心感を与え、村全体にとって大きな支えとなっていたのです。
その温かい人柄は、困難な状況でも変わることはありませんでした。
元禄六年(1693年)、この地域は何十日にもわたる日照りに見舞われ、稲田や草木が枯れかける状況に陥っていました。この時、光範上人は村人たちと共に、楢原山の頂上へ登り、七日間にわたって雨乞いを行いました。
上人は、水天宮の像を安置し、「満願までに雨を降らしてください。満願の日が来ても雨が降らない時は、私を焼き殺してください」と、光範上人は命を捨てる覚悟を決めて祈願を行ったと伝えられています。
お願いしたそうです。しかし、最後の満願の日がやってきても、一向に雨が降りそうになく、空には一点の曇りもありません。
そんな中で、祈とうしていた上人は、村たちに向かって「雨が降ることになったぞ。みんな家に帰りなさい。早く帰らぬと祓川(奈良原山のふもとの川)が渡れなくなるぞ。」と言いました。
村人たちは「こんなに良い天気なのに…」と思いましたが、上人の言われることなので、急いで山を下り、家に帰り始めました。
すると、村人たちが祓川を越えた瞬間、突然空が曇り始め、大雨が降り出しました。雨は川の水が溢れ出すほど激しく、村の田畑は再び潤い救いがもたらされたのです。
このおかげで、その年の秋には大豊作となり、村中がにぎわいに包まれました。この奇跡のような出来事によって、光範上人の霊験は広く知られるようになり、その功績を称えて今治藩主の松平定陳から感謝状が贈られました。
また、雨乞いの際に提出された「雨乞願書草」という請願文は、今も光林寺に大切に保管されています。光範上人は、その後も三度の雨乞い祈願を行い、すべて成功を収めています。
雨乞いの伝統は光範上人の時代以降も続いており、今治藩主が光林寺に参詣したという記録も数多く残されています。近年では、2017年(平成29年)の愛媛国体の際に再び雨乞いが行われました。この時も効果は絶大で、ボート競技に使用される予定だった玉川ダムの水量が短期間で急増し、話題となりました。
その後の光範上人は、地域の信頼を集めながらさらなる貢献を続けました。元禄十三年(1700年)には、光林寺に伝わる重要な仏教経典である大般若経六百巻の修復という大事業を成し遂げました。この修復は、光林寺にとって非常に重要な出来事であり、光範上人が宗教的にどれほど尽力していたかを示す象徴的な業績です。
光林寺の境内には、「法印権大僧都光範林洞上人」と刻まれた墓が残されており、今でも多くの人々に大切にされています。さらに、近年では光範上人の250回忌が行われ、その功績が改めて称えられました。