「光林寺(こうりんじ)」は、大宝元年(701年)に文武天皇の勅願により、徳蔵上人が開山しました。徳蔵上人は、弓月君の子孫とされ、応神天皇の時代に日本へ渡来した弓月君の血筋を受け継ぐ人物と伝えられています。
三論宗と法相宗
光林寺は当初、三論宗と法相宗という二つの宗派に基づき、さらに三宗兼学(いくつかの宗派の教えを同時に学ぶこと)が行われる寺院として設立されました。
三論宗は、中国の三論学派の教えに基づく仏教哲学の学問で、空の思想を重んじる宗派です。一方、法相宗は、唯識思想に基づき、人間の認識を中心にして仏教の教えを体系化したものです。光林寺がこれらの宗派の教えを兼学する寺院として設立された背景には、当時の仏教が多様な教えを取り入れ、より広範な学問や信仰を求めていたことが影響していたと考えられます。この三宗兼学の体制によって、光林寺は地域における重要な仏教教育の拠点として機能しました。
弘法大師(空海)の教え
時を経て、唐から帰国した弘法大師(空海)がこの地に立ち寄り、玉川町の南部に位置する楢原山(ならばらさん)に登り、そこで密教を伝授しました。それまで光林寺は、法相宗と三論宗という仏教の教えを広めていましたが、空海の訪問により密教の教えがこの寺院で展開されるようになり、光林寺は密教を広める重要な拠点へと変わったのです。
この出来事により、光林寺は日本における密教の中心的な寺院となり、後に多くの天皇や貴族たちの保護を受けるようになりました。特に空海の密教思想は、日本仏教界に大きな影響を与え、光林寺もまた、密教の発展において重要な役割を果たしました。
天長3年(826年)には、空海の講義を聞いた第54代「淳和天皇」が光林寺の再興を勅願しました。この勅願により、光林寺は再建され、さらに天長7年(830年)には僧坊49院が創設されるなど、大規模な拡充が行われました。
火災と復興の歴史
光林寺の歴史は、火災と復興の繰り返しでもありました。天長7年3月、淳和天皇が光林寺の再興を願い、その繁栄を図ろうとした矢先に、光林寺は大規模な火災に見舞われました。この火災により、仁王門を除く多くの建物が焼失してしまいます。
その後、長久3年(1042年)に第69代後朱雀天皇の勅裁によって光林寺は再び再建されます。この再建には、当時の有力な武将であった源頼義や河野親経が深く関わり、堂塔や僧坊が新たに建てられました。特に、この時に建立された薬師堂は、源頼義が国内に49カ所建立した薬師堂の一つであり、光林寺の復興とともに信仰の拠点としての重要性を増すこととなりました。
しかし、光林寺はその後も度重なる火災に見舞われました。
特に、文永3年(1266年)、文保2年(1318年)、永禄元年(1558年)、元亀3年(1572年)の大火は、寺院の存続に大きな影響を与えました。これらの火災の中でも、仁王門と総門は度々焼失を免れ、光林寺のシンボルとして残され続けました。
その度に、天皇や有力者たちの支援を受けて寺院は再建されました。例えば、文永3年の干ばつの際には、亀山天皇の祈願により降雨がもたらされ、その感謝として寺の修復が行われました。また、永禄元年には河野伊予守四郎通直が指導し、旧来の様式を守りつつ光林寺の修復が行われました。
天和3年(1683年)には、今治城の城主「松平定陳(まつだいら さだのぶ)」の支援により、光林寺の本堂が再建され、光林寺は再びその威厳を取り戻しました。元治2年(1865年)には客殿も再建され、現在に続いています。
光林寺の影響力
光林寺は、今でこそ高野山真言宗に属しており、その本山は和歌山県にある金剛峯寺ですが、戦前までは京都にある大覚寺派に属していました。
大覚寺派は、平安時代に創建された由緒ある寺院であり、真言宗の中でも特に皇室や貴族との関わりが深い宗派です。光林寺はその中で重要な役割を担う中本寺(中規模の主要寺院)として、広範囲にわたる末寺や地域社会への影響力を持っていました。
大覚寺派に属していた当時、光林寺の末寺は今治市の玉川町や朝倉村、さらに越智郡の島々にまで広がっており、地域全体にわたる信仰のネットワークが形成されていました。光林寺がこのように広範囲に影響を及ぼしていた背景には、大覚寺派の持つ宗教的な威厳と共に、地域の人々からの強い信仰がありました。
特に、光林寺は大覚寺派の中で、地域の仏教信仰の拠点としてだけでなく、神護別当という役割をも果たしていました。神護別当とは、神社の管理や祭祀を担当する役割を指し、光林寺は地域の神社とも深い関わりを持っていたのです。大三島にある薬師寺とは特に密接な関係があり、光林寺がその本寺としての役割を果たしていました。
しかし、明治時代に神仏分離令が発布され、神道と仏教が分離される政策が進められると、光林寺も大きな変革を迎えることになります。これまで共存していた神仏習合の慣習に基づき、神社には仏像や仏具が安置されていましたが、神仏分離によりこれらが寺院へ移されました。光林寺は、大三島の大山祇神社から仏像や仏具を引き取り、仏教的な要素を受け継ぐことになりました。
このように、光林寺は戦前までは京都の大覚寺派に属し、広範囲にわたる影響力を持ちながら地域社会に根ざした信仰の拠点として機能していました。現在では高野山真言宗の一員として、密教の教えを伝える寺院として続いていますが、戦前の大覚寺派との関わりは、光林寺の長い歴史の中で重要な位置を占めています。この時代の光林寺は、単なる寺院としてだけでなく、地域の信仰、文化、そして神社との関係を通じて、重要な役割を果たしていたと言えるでしょう。