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神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

今治タオル物語

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03

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こぼれ話
伊予から愛媛へ──古代の国名から県名へと受け継がれた呼び名の起源をたどる
桜
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TEMPLE寺院の歴史を知る

円浄寺(今治市・今治中央地区)

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伊予で歩みを始めた名門・土岐氏が創建した菩提寺

今治市の中心部には、かつて城下町として栄えた面影を今に伝える「寺町」と呼ばれる地域があります。

この一帯には多くの寺院が立ち並び、それぞれが地域の歴史と文化を静かに語り継いでいます。

その中のひとつ、「円浄寺(圓浄寺・えんじょうじ)」もまた、長い歳月を静かに刻みながら、地域の信仰を支え続けてきた由緒ある寺院です。

土岐一族の菩提を守る寺

円浄寺の創建には、今治に移り住んだ土岐氏の一族が深く関わっています。

土岐氏は清和源氏の流れを汲み、美濃国土岐郡を本拠とする名門武家です。

室町時代には美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる大名として繁栄を極めましたが、戦国時代には斎藤道三の台頭によって本国を追われ、各地へと勢力を移すこととなりました。

この中には、西国方面に進み、伊予へ移住した一族がおり、のちに「伊予土岐氏」と呼ばれるようになりました。

美濃を離れた伊予で生きる土岐氏

土岐氏は、浮穴郡荏原(現:松山市恵原町)の徳川城(尉ヶ城・尉ノ城)を拠点に、河野氏の家臣として活動を始めましたが、南北朝期から伊予での職務に関わった例もあり、縁がまったくなかったわけではありません。

しかし、本格的な定着はこの戦国末期の時期と見られます。

伊予土岐氏・土岐頼政には、その最期にまつわる伝承が残されています。

戦国末期の天正年間、中国地方では毛利氏が勢力を拡大し、かつて山陰地方で勢力を誇った名門尼子氏との間で激しい戦いが続いていました。

尼子氏は永禄九年(1566年)に本拠・出雲国月山富田城を毛利氏に奪われて一度は滅亡しましたが、その遺臣たちは「尼子再興軍」として各地に拠点を築き、再起を図っていました。

その尼子氏再興軍の重要な拠点のひとつが、播州佐用郡にあった上月城(現在の兵庫県佐用町)でした。

天正五年(1577年)、毛利氏は河野氏など周辺勢力と連携し、この上月城を攻め落とすべく大規模な戦いを開始します。

そして、この上月城攻めに参戦したのが、伊予土岐氏の土岐頼政でした。

上月城は山城として堅固で、籠城した尼子再興軍は最後まで強い抵抗を続けたと伝えられています。

しかし、毛利・河野連合軍の攻撃によって城は落ち、天正五年(1577年)の戦いの中で、頼政は討ち死にしたと語られています。

伊予の地から遠く離れた播州の戦場で命を落とした頼政の最期は、のちに地域の伝承として深く語り継がれてきました。

これを裏づけるように、大西地区に残る土岐氏の墓には「土岐山城守頼政」と刻まれた墓碑が現存し、地域の人々や一族の手によって長く大切に守られてきました。

遠い戦地で戦死した武士をこの地で手厚く葬ったことは、伊予土岐氏が地域社会にしっかりと根ざしていたことを示す貴重な史跡となっています。

紺原に建立された円浄寺

頼政の死後、その実子である土岐政経は、父祖の菩提を弔うため紺原村に円浄寺を創建しました。開山には称阿貞関和尚を迎え、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺として歩みを始めました。

円浄寺は現在も古い過去帳が伝わり、そこには次のような記録が残されています。

「当寺大檀那 円誉浄信居士 土岐九郎右衛門政経 文禄三午年三月六日没」

この記録からは、政経が文禄三年(1594年)に没したこと、そして寺に対して特別な立場にあったことが読み取れます。

また、「円誉浄信居士」という高位の法名で記されていることから、政経が円浄寺の大檀那として寺の創建・維持に深く関与した人物であったことを示しています。

大檀那とは、寺院の建立や運営に最も大きく貢献した人物に付される尊称であり、政経が紺原の地でどれほど篤く寺を支えたかを物語っています。

さらに、「円誉浄信居士」という法名が記されている点は、父・頼政の菩提を弔うために寺が創建されたと伝える地元の伝承とも通じる部分があり、当時の状況を知るうえで貴重な記録となっています。

「寺町」藤堂高虎による都市整備

円浄寺は紺原村に建立されたのち、しばらくはその地にとどまっていましたが、まもなく寺の所在を左右する大きな変化が訪れます。

1602年頃、藤堂高虎(とうどう たかとら)が今治城の築城を進めると同時に、城下町の本格的な整備にも着手しました。

この都市計画の中で、高虎は今治で特に影響力をもっていた十四の寺院を一か所に集め、城下の外郭部に寺院群をまとめて配置する方針を採りました。

この施策により、各寺院はより計画的な都市構造の一部として再配置されることとなります。

これは、単なる寺院の再配置にとどまらず、江戸時代の城下町設計に見られる合理的な都市構想の一部でした。

それが、「寺町」と呼ばれる区域です。

円浄寺もこの十四寺の一つに選ばれ、紺原から現在の寺町へと移されることになったのです。

防衛拠点としての寺町

寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。

戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。

そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。

寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として、戦の拠点に利用されることもありました。

城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。

これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。

今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。

この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。

統制のための配置と宗教勢力の管理

寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。

戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。

比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。

江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集め、町人地とは切り離し、寺社を幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。

今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。

信仰と生活の場、そして門前町へ

寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。

江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。

寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。

やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。

江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んとなり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変わっていきました。

境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。

人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。

こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。

今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。

その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。

今治藩士としての土岐氏と円浄寺の絆

土岐氏は、藤堂高虎に仕えて今治城下の鳥生地区へ移住し、その後、藤堂家が伊賀へ転封となったのちも、今治藩の下で藩士として代々その地位を保ち続けました。

円浄寺が現在の地へと移設された際には、土岐一族の墓所もあわせて移され、先祖の菩提を弔う場として受け継がれています。

境内には政経以降の伊予土岐氏の墓が十一基残されており、いずれも一族にとって大切に守られてきたものです。

これらの墓所は、地域に残された中世武士団の記憶としても貴重であり、土岐氏の歴史を語る上で欠かすことのできない史跡となっています。

名僧・学信和尚ゆかりの寺

円浄寺は、名僧・学信和尚(がくしん おしょう)ゆかりの寺としても知られています。

享保7年(1722年)、鳥生地区にある明積寺(みょうしゃくじ)に生まれた学信和尚は、のちに江戸や松山、宮島などで浄土宗の教えを広め、『幻雲集』『要学集』などの著作を残し、浄土宗中興の祖の一人として高く評価されました。

その幼少期、学信和尚が最初に仏道修行を行ったのが、この円浄寺であったと伝えられています。

当時、円浄寺には名僧・真誉(しんよ)上人が在住しており、学信和尚はその薫陶を受けて、僧侶としての基礎を築いていきました。

このように、円浄寺は学信和尚にとっての信仰の原点ともいえる場所であり、現在もそのゆかりの地として静かに人々の訪れを受け入れています。

戦火を免れた寺院

円浄寺にとって最大の危機が訪れたのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)のことでした。

この年、今治市は米軍による激しい空襲に見舞われ、特に8月5日から6日にかけては、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、市街地の約75%が焼失しました。

住宅・商店・公共施設の多くが炎に包まれ、甚大な被害とともに多くの死傷者を出しました。

かつて城下町として栄えた今治の町並みは、この空襲によって壊滅的な打撃を受けたのです。

仏教寺院が密集する「寺町」も例外ではなく、数多くの伽藍が焼失し、尊像や古文書などの文化財も多くが失われました。

しかしその中にあって、円浄寺は奇跡的に戦火を免れ、本堂をはじめとする建物群は焼失を逃れることができました。

当時の人々にとって、それはまさに「仏の加護」とも感じられる出来事であり、寺町に残された数少ない歴史的建築として、円浄寺は貴重な存在となっていきました。

「火災からの復興」円浄寺の再生

ところが、それから70年余りを経た平成28年(2016年)11月25日の夜、円浄寺は火事により本堂が焼け落ちてしまいました。

かつて戦火をも免れた歴史あるお堂が、突然の火災で失われたことは、多くの人々に大きな衝撃と深い悲しみを与えました。

しかし、地域の人々の深い祈りと温かな支えによって、復興への歩みは静かに、そして着実に続けられています。

たとえその姿を変えようとも、円浄寺は今なお、信仰と地域の絆を育む場としてあり続けています。

 

寺院名

円浄寺(えんじょうじ)

所在地

愛媛県今治市本町4丁目3番地1

宗派

净土宗

山号

遍照山

本尊

阿弥陀如来

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