「海禅寺(かいぜんじ)」は、禅の教えを大切にし、心の平安を求める人々のための場所として、地元の人々に長く親しまれてきたお寺です。創建以来、海禅寺は時代の変化に寄り添いながら、地域の精神的支えとして重要な役割を果たしてきました。寺院としての役割はもちろんのこと、文化的な活動や行事を通じて、地域社会と深いつながりを築いています。
創建の歴史と再興の歩み
海禅寺の創建時期ははっきりとはわかっていませんが、元々は「海會寺(海栄寺・かいえいじ)」として栄えていましたが、戦国時代の激動の中で荒廃し、長い間修復されることがありませんでした。しかし、江戸時代に入って、寛永十年(1633年)に天嶺玄嶝(てんれい げんとう)という僧侶が開山住職として迎えられ、再び息を吹き返します。
この時、今治藩主であった藤堂高吉公(とうどうたかきち こう)から寺領の免許状を拝領し、寺名を「海禅寺」と改めました。
以降、海禅寺は地域社会の精神的な支柱としての役割を果たすようになり、歴代藩主の久松氏(ひさまつし)をはじめとする、家老や士族たちの菩提寺としても高い格式を持つようになりました。その格式は非常に高く、久松松平家が今治での菩提寺としていた松源院(しょうげんいん)、そして玉川地区の光林寺に続くほどでした。
現在も、海禅寺の境内には、歴代藩主や士族たちの墓所が数多く残されています。その中には、久松藩の家老である江島偽信(えじま ためのぶ)の遺髪が眠る「遺髪塚」や、明治維新において活躍した藩士久松監物(ひさまつ けんもつ)の墓もあります。さらに、1869年(明治2年)に刊行された「愛媛面影」の著者であり、伊予国全域を初めて本格的にまとめた地誌を編纂した半井梧庵(なからい ごあん)の墓もこの境内にあります。
これらの墓所は、歴史とともに海禅寺の存在意義を地域に深く根付かせ、今でも地元の人々にとって大切な祈りの場として継続されています。
盗賊による放火
こうした深い地域の歴史を持つ海禅寺ですが、明治3年(1870年)の冬には、盗賊が寺に火を放ち焼失してしまいました。現在の本堂や庫裡などは、明治30年(1897年)**に再建されたものであり、当時の面影を残しつつも、新たに生まれ変わった建物となっています。
ご本尊と宗派「臨済宗妙心寺派の禅寺」
海禅寺のご本尊はお釈迦様(釈迦如来)です。釈迦如来は仏教の開祖であり、悟りを開いた存在として、仏教徒にとって最も重要な仏の一つです。海禅寺は、臨済宗妙心寺派という禅宗の一派に属しており、京都市にある「正法山妙心寺(しょうぼうざん みょうしんじ)」が本山となっています。臨済宗は、禅の教えに基づき、坐禅や修行を通じて心の平安や悟りを目指す宗派であり、海禅寺もその教えを大切にしています。
観音堂と十一面観音菩薩
海禅寺には、釈迦如来のほかに観音様も祀られています。観音様を祀る観音堂は、寛保年間(1741年~1744年)に八世和尚によって建立されました。この観音堂は、府中西国三十三ヶ所霊場の第一番札所として指定され、地元や遠方からの巡礼者にとって重要な拠点となりました。
観音堂には、十一面観世音菩薩が安置されていましたが、残念ながら第二次世界大戦中の空襲によって堂は焼失してしまいました。しかし、観音様は奇跡的に救出され、現在では本堂に安置されています。観音様は、慈悲の象徴として多くの信仰を集め、今日でも多くの人々が訪れ、心の救いを求めています。
「塩釜桜」
海禅寺は、南面する丘陵の地に位置し、展望が非常によく、その裏山一帯は桜の名所としても知られています。境内には名木「塩釜桜(しおがまざくら)」があり、その美しさから地域の人々に愛され続けてきました。
海禅寺の桜の美しさは、古くから人々の心を魅了してきました。その美しさに心を奪われた一人が、今治藩主の松平定陳(まつだいら さだのぶ)です。定陳は貞享4年(1687年)に、この桜と寺院の風景を詠んだ歌を残しており、桜の絶景が当時の人々の心に深く刻まれていたことが伝わってきます。
現在でも春になると多くの人が訪れ、この歴史ある桜の景観を楽しんでおり、海禅寺はその自然美と歴史的背景を持つ特別な場所となっています。
東吟(とうぎん)さんの物語
昔、海禅寺にはとても賢く、少し風変わりな僧侶がいました。その名は「東吟さん」と呼ばれ、本名を西月東吟といいました。東吟さんは、江戸時代中期に実在し、その博識さから「今治三僧」の一人として多くの人々から尊敬を集めていました。
しかし、東吟さんはただ賢いだけではなく、ちょっと変わった習慣を持っていました。毎朝、明け方になると庭に出て、東の空に向かって声高らかに笑ったのです。その理由は誰にもわかりませんが、まるで新しい一日の始まりを祝福しているかのようでした。
東吟さんは、黒衣をまとい、胸に托鉢袋を掛けて、村々を歩きながら施しを受ける托鉢僧としての生活を送っていました。しかし、もらった米や麦を自分のために使うことはほとんどなく、貧しい人々に施すために預け、必要になった時にだけ受け取っていました。
ある春の日、村の百姓が麦を干しているところに東吟さんが托鉢に訪れました。急な用事で出かけることになった百姓は、「鶏が麦を食べないように、しばらく番をしてほしい」と頼みました。東吟さんは快く引き受けましたが、百姓が戻ってくると、なんと乞食風の男が干していた麦を袋に詰めているではありませんか。驚いた百姓は、「せっかく頼んだのに、まったく役に立たない坊さんだ!」と怒鳴りました。すると東吟さんは、穏やかにこう答えました。「私は鶏の番を頼まれたのであって、人の番を頼まれた覚えはありませんよ。」この一言で、百姓は呆気にとられてしまいました。
そんな風変わりな東吟さんも、安永七年(1778年)の7月26日、村人たちに惜しまれながらこの世を去りました。村人たちはその遺徳を偲んで、東吟さんが預けていたたくさんの米や麦をすべて海禅寺に納め、その米で観音堂と山門を建立しました。この行いは、東吟さんの高い徳を称えるものでした。
さらに「西月東吟堂」を建て、毎年8月26日(旧暦7月26日)には縁日「東吟祭」を開きはじめました。この縁日は、今治最後の夏祭りとして露店や盆踊りが行われ、賑わいを見せるようになっていきました。現在では東吟堂は老朽化により取り壊されましたが、海禅寺の本堂には今でも東吟さんの木像が安置され、施餓鬼法要と共にお祭りが続けられています。
「薬師寺寛邦キッサコ」
現代において、海禅寺は地域との深いつながりを保ちながら、伝統を守り続けています。海禅寺の副住職「薬師寺寛邦(やくしじ かんぽう)」さんは、お寺での活動に加えて、現代の人々に仏教の教えを伝えるために、音楽を使った独自の取り組みを行っています。
薬師寺寛邦さんが立ち上げた「薬師寺寛邦キッサコ」は、仏教の教えを音楽で表現するプロジェクトです。その中でも、代表的な楽曲が「般若心経 cho ver.」です。般若心経は、仏教でとても大切なお経ですが、薬師寺さんはこれに美しいコーラスを加えて、現代風にアレンジしました。
この「般若心経 cho ver.」は、多くの人々に共感を呼び、YouTubeでは200万回以上再生されています。また、台湾ではニュース番組で取り上げられ、160万回再生されました。さらに、中国のSNSでは2,000万回も再生され、大きな話題になりました。フジテレビの「めざましテレビ」などでも紹介され、薬師寺寛邦さんの活動は広く知られるようになりました。
こうした反響を受けて、2018年12月には中国本土や台湾でワンマンライブツアーが開催されました。このツアーは大成功を収め、6カ所での公演には多くのファンが集まりました。それ以降も、薬師寺寛邦さんは国内外でライブを続け、仏教の教えを音楽を通して広く伝えています。
薬師寺寛邦さんの活動は、仏教と音楽を組み合わせ、仏教の大切な教えを現代の人々に伝える新しい方法です。音楽を通じて心の安らぎや癒しを提供し、多くの人々に感動を与え続けています。