和銅年間(708~714年)、奈良時代の天皇「元明天皇」の詔勅により、伊予国の国司「越智玉純(おちのたまずみ)」が、伊予国の九十四郷それぞれに、大三島の大山祇神社から勧請した神霊を祀り、九十四の「三島神社」を設立しはじめました。
ただし、「三島神社・郷本」の創建は奈良時代よりもさらに古く、その起源は小市国造(おちのくにのみやつこ)であった越智氏によるものとされています。
小市国造と越智氏の起源
奈良時代以前の日本は、律令制度が整備される前で、地方の統治は朝廷から委任された豪族たちによって行われていました。こうした地方の統治者の一つが小市国造(おちのくにのみやつこ)です。
小市国(おちのくに)とは、現在の愛媛県今治市東部を中心に広がる地域で、古代の行政区画である伊予国越智郡に相当します。この地域は、農業や海上交通が盛んで、瀬戸内海に面した自然豊かな土地でした。
国造(くにのみやつこ、こくぞう)とは、律令制度が整備される以前に朝廷から任命され、地方の統治を任された支配者のことです。国造は、その地域の行政や祭祀(神事)を司り、地域の平和と発展を担っていました。
越智氏は、小市国造として任命された一族であり、血縁集団であると同時に、政治と宗教を担当する豪族集団でもありました。越智氏は、この地域を長期間にわたって支配し、中央の朝廷と密接な関係を築きながら、その勢力を広げていきました。
「三島神社・郷本」の始まり
「三島神社・郷本」の創建は、越智氏が神籬(ひもろぎ)を立て、大山積命(おおやまつみのみこと)を祀ったことに由来します。
大山積命は、山や海を司る自然の神であり、特に農業や漁業の守護神として信仰されていました。瀬戸内海に面した小市国(現在の愛媛県今治市東部)を統治していた越智氏にとって、この神を崇めることは地域の平和や繁栄を願うための重要な宗教的行為でした。
神籬(ひもろぎ)とは、神様を一時的に迎えるための神聖な場所のことです。古代の日本では、神様を木や石などに宿すと考えられており、榊(さかき)などの木を立てて、その周りにしめ縄を張り巡らし、その場所を神聖な領域としました。こうすることで、神様が降臨する場所を作り、そこで祈りや儀式が行われました。
当初は一時的な場所として立てられた神籬でしたが、地域の信仰が強くなるにつれて、このような神聖な場所が恒久的な施設、つまり神社へと発展していきました。越智氏がこの場所に神籬を立てて大山積命を祀り続けたことで、その信仰が地域全体に広がり、やがては神社として地域の信仰の中心となっていったのです。
奈良時代
「三島神社・郷本」は奈良時代に入るとさらにその重要性が増していきます。
奈良時代(710年〜794年)は、日本で初めて本格的な中央集権国家が築かれた時代です。この時代に、日本は唐(中国)の制度を取り入れ、律令制度を整備し、国全体を中央から統治する体制が作られました。各地方には国司が派遣され、地方の統治とともに、重要な神社の管理や宗教的な役割も果たしました。
和銅5年(712年)には、伊予国(現在の愛媛県)に派遣された国司である小千宿祢玉興(おちのすくねたまおき)が、大三島から雷神(いかづちのかみ)と高龗神(たかおかみのかみ)の二神を勧請し、社殿を建てました。これにより、「三島神社・郷本」は立花郷(現在の今治市立花地区)の氏神として、地域に深く根付きました。
雷神は雷や稲妻を司り、農作物の育成に不可欠な雨をもたらす神として崇められ、高龗神は水の神として信仰されていました。この二神を祀ることで、「三島神社・郷本」は農業の守護神として、地域の豊作を祈る重要な場所となりました。
一の宮への昇格
神亀5年(728年)、この年に「三島神社・郷本」がさらに発展を遂げ、「国中一の宮」としての地位に昇格しました。一の宮とは、その地域の中で最も重要で格式の高い神社のことです。伊予国において、「三島神社・郷本」は宗教的な中心地として認められ、地域全体から信仰を集める神社となりました。
河野通綱による寄進
さらに時代が進むと、元弘3年(1333年)には、伊予国の国司であった河野通綱が、「三島神社・郷本」に水田を寄進しました。河野通綱は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて伊予国を支配した有力な豪族で、神社への寄進は地域の宗教的な支援を意味します。この寄進により、「三島神社・郷本」は経済的な基盤を確立し、神事の規模や影響力が拡大しました。
宇迦魂神(うかのみたまのかみ)
その後、宇迦魂神(うかのみたまのかみ)も合祀され、さらに豊作祈願や商売繁盛を願う神社としての役割が強化されました。
宇迦魂神は、穀物や食物の神であり、特に稲作を司る神として知られています。「ウカ」は穀物を意味し、主に稲を象徴しています。宇迦魂神は、日本神話の中で農業の守護神として登場し、稲作に深く関わることから、古代より五穀豊穣を願う農民たちに厚く信仰されてきました。
また、宇迦魂神は食物全般を司る神であることから、次第にその信仰は農業にとどまらず、商売繁盛や家内安全の祈願へと広がっていきました。宇迦魂神は、後に稲荷信仰とも結びつき、全国に広がる稲荷神社の主要な神として崇敬されるようになりました。特に、商売繁盛や商業の発展を祈る人々からも強い信仰を集め、農業と商業の両面において重要な神となりました。
「三島神社・郷本」への宇迦魂神の合祀
「三島神社・郷本」に宇迦魂神が合祀されたことで、神社としての役割は大きく広がりました。
それまで、「三島神社・郷本」は主に大山積命を祀り、山や海、自然の恵みを守る神として、農業や漁業の守護を祈願する場所でしが、宇迦魂神も合祀されたことで五穀豊穣の農業の信仰、商売繁盛の信仰も加わりました。
こうして、「三島神社・郷本」は多くの人々から厚く崇敬されるようにな、やがて地域社会にとって欠かせない存在となりました。
衰退と復興
元弘3年(1333年)、河野通綱(こうの みちつな)は、この神社に水田を寄進しました。広大な水田は、神社の財力を支え、地域の信仰の象徴として輝いていましたが、戦国の世になると神社は衰退してしまいました。時代は流れ、文政10年(1827年)。再びこの地に活気が戻り、社殿と拝殿が新たに建てられました。そして、明治6年(1873年)には本殿も新たに築かれ、神社は再びその姿を取り戻しました。
大正10年(1921年)には、神社の改築が行われ、さらに昭和25年(1950年)には屋根が葺き替えられ、現在も、その姿は変わらず、訪れる人々を静かに見守り続けています。
祇園神社の見所
拝殿に奉納されている「三十六歌仙図」の6面は、天保14年(1843年)に矢野与惣右衛門らが奉納したもので、山本美によって描かれた作品です。三十六歌仙の優雅な姿が生き生きと表現されており、近隣の絵馬の中でも芸術性の高さが評価されています。
境内の東北には、目通り3メートル、樹高13メートルのクスノキがそびえています。推定樹齢200年以上で、市の保存樹にも指定されているこの巨木は、長い年月を経て神社とともに成長してきました。周囲に穏やかな影を落とし、その威厳ある佇まいは訪れる人々に自然の力強さを感じさせます。この大木の前に立つと、歴史と自然の共鳴を感じることができるでしょう。
社殿の左手にある神池は「神が宿る霊池」として知られ、古くから神聖視されています。