今治市富田地区に鎮座する「堀部神社(ほりべじんじゃ)」は、加藤嘉明の家臣であり、拝志城(はいしじょう)の城代を務めた「堀部主膳(ほりべ しゅぜん)」を主祭神として祀っています。
堀部主膳は江戸時代初期、この地の発展に大きく貢献した人物で、その名を冠した堀部神社は、長きにわたり地域の人々に敬愛され、今も信仰の中心地として親しまれています。
拝志城
堀部主膳が城主を務めた拝志城は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、愛媛県今治市に存在していた城で、当時の伊予国(現在の愛媛県)の中で重要な防衛拠点の一つでした。この城は、地域の政治と軍事の中心として、また戦略的な要所として機能していました。現在では、拝志城の跡地は「今治ワールドプラザ」というショッピングモールが建っていますが、城の痕跡が周囲の水路にわずかに残り、その名残を今に伝えています。
拝志城の正確な築城時期は明らかではありませんが、、加藤嘉明によって築かれたとされています。
加藤嘉明は、豊臣秀吉の家臣として数々の戦いで武功を挙げた武将で、特に水軍を率いる戦いでその才能を発揮し、秀吉の中国攻めや四国攻め、さらに朝鮮出兵などで活躍しました。この功績により、秀吉から重用され、領地を与えられるなど、徐々にその地位を高めていきました。
関ヶ原の戦い(1600年)
関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した東軍側の武将たちは、日本各地の領地を再編しました。伊予国(現在の愛媛県)では、藤堂高虎(宇和島城主)と加藤嘉明(松前城主)がそれぞれ領地を分割し、伊予国を半国ずつ支配することになりました。これにより、今治の府中平野には藤堂氏と加藤氏の所領が混在する形となり、両者の間には緊張が高まりました。
藤堂高虎は、今治に新たな城を築くことを決意し、瀬戸内海の戦略的な要衝である来島海峡を睨む沿岸部に今治城を建設しました。この新城は、海上交通の監視や防衛のための要所であり、藤堂高虎はその城代に養子の藤堂高吉を据えました。今治城はその後も藤堂家の支配下で重要な拠点として発展していきます。
一方、藤堂氏の勢力に対抗するため、加藤嘉明は拝志郷に拝志城(はいしじょう)を築き、弟の加藤忠明を城代に任命しました。拝志城は、藤堂高虎の今治城に対抗する城として重要な役割を果たしました。拝志城は地理的にも今治城に近く、両者の間で勢力の均衡を保ちながら、伊予国の防衛と支配を維持しました。
しかし、この状況は両者の間に常に緊張がある状態でもあり、軍事的な衝突の火種を抱えていたのです。
「拝志騒動」
1604年、今治領内で藤堂家の家臣が加藤家の家臣を殺害するという重大な事件が発生しました。後に「拝志騒動(はいしそうどう)」と呼ばれるこの事件は両家の間に積もっていた緊張を一気に爆発させるきっかけとなりました。
1604年7月、藤堂高虎は、徳川家康に伺候するために徳川家康の居城である駿府(現在の静岡市)へ赴いており、養子である藤堂高吉が今治城の留守を預かっていました。藤堂高吉は、忠実な家臣である「星合忠兵衛(ほしあい ちゅうべい)」に、主君の藤堂高虎へ中元の挨拶をするため、使者として駿府へ向かうよう命じました。
しかし、この忠兵衛に深い恨みを抱く人物がいました。それが、藤堂家に仕える小者である「太郎兵衛(たろべえ)」という人物です。太郎兵衛はかねてから忠兵衛に対して強い恨みを持っており、その復讐の機会を伺っていました。そしてついにその機会が訪れます。
忠兵衛は、明朝の早朝に出立する準備を整え、家路を急いでいました。しかし、その途中、太郎兵衛は暗闇に潜み、忠兵衛が油断した瞬間を狙って、一気に襲いかかりました。そして忠兵衛は防御する間もなく、太郎兵衛によって斬り殺されてしまいました。
その後、太郎兵衛は鷹匠(たかじょう)の彦太夫という人物の助けを借り、今治城の東に位置していた拝志郷に逃げ込みました。家臣を無惨に殺され激怒した藤堂高吉は、逃亡者を捕らえるために、家臣の淵本権右衛門と弟の淵本馬左衛門に追跡を命じました。二人は彦太夫の案内で拝志に赴きましたが、突如として彦太夫は権右衛門に襲いかかりました。しかし、馬左衛門は強く逆に斬り捨てられました。
恨みを晴らした太郎兵衛は鷹匠彦太夫という人物の助けを借り、藤堂家の領地である今治を離れ、拝志郷に身を隠しました。この頃、拝志郷を治めていたのが拝志城の城代を務めていた、加藤嘉明の弟である加藤内記でした。
この事件を知った藤堂高吉は激怒し、すぐに家臣である淵本権右衛門とその弟淵本馬左衛門に、逃亡した太郎兵衛と鷹匠彦太夫の探索を命じました。二人は、太郎兵衛と彦太夫が隠れているとされる拝志郷へと向かうため、案内役として鷹匠彦太夫を立てました。
淵本兄弟が彦太夫の案内で拝志郷に向かったところ、彦太夫は突然裏切り、先頭に立っていた淵本権右衛門に襲いかかりました。しかし、その場で弟の馬左衛門が素早く反応し、彦太夫を一刀のもとに斬り捨てました。
しかし、この一連の行動を見て拝志の町人たちは、「今治の侍が拝志の者を襲った」と騒ぎ、町は大混乱に陥りました。この混乱の中での探索は不可能であると判断した淵本兄弟は、拝志郷を離れる決断をし、回り道をしながら今治城へと帰りました。そして、この出来事を藤堂高吉に報告したのです。
この報告を聞いた藤堂高吉はさらに激怒しましたが、この事態を収めるために家臣の渡辺庄左衛門を拝志郷に派遣しました。渡辺は、拝志の人々に事件の謝罪と事情説明を行おうとしましたが、拝志の町与力五右衛門(苗字不明)がこれを聞き入れず、馬上の渡辺を槍で突き殺してしまいました。
この報告を受けた高吉の怒りは遂に頂点に達し、自身の親衛隊である馬廻衆を引き連れ進軍を開始。 そして高吉の軍勢は、ついに領分境である絹乾山(衣干山)まで到達。いよいよ戦かと思われた矢先に、藤堂家の重臣友田左近右衛門が追いつき、事態を公儀(幕府)に委ねるべきだと説得を試みました。
友田の賢明な説得により、高吉は冷静さを取り戻して軍を引き返しました。そして友田の助言に従い、高吉はこの件を幕府に訴えることに決めました。
この報告をうけた主君の藤堂高虎はmこの事件を重く受け止めて、駿府(徳川家康の居城)での伺候中にもかかわらず、すぐに家臣を通じて幕府に正式な訴えを起こしました。藤堂高虎にとって、領地内での重大な事件であり、加藤家との対立がさらに激化する恐れがあったため、幕府の裁定を仰ぐことが最善の策だと判断したのです。
一方、加藤嘉明も自分の家臣が巻き込まれたこの事件を軽視するわけにはいかず、藤堂家に対抗するために自らも幕府に訴えを起こしました。
両家からの訴えを受けた幕府は、事件の詳細を調査し、最終的に藤堂高虎側に軍配を上げました。
この裁定に基づき、加藤家の城代である加藤内記に対して厳しい処分が下されました。加藤内記は、事件における責任を問われ、剃髪(髪を剃ることにより身分を降格されること)して京都嵯峨東福寺に蟄居(ちっきょ)を命じられました。これは事実上の謹慎処分であり、加藤内記は以後の政治活動から退くことを余儀なくされました。
また、加藤内記の指揮下にあった町与力・五右衛門も、渡辺庄左衛門を槍で突き殺した責任を問われ、切腹を命じられました。この裁定により、事件は一応の決着を迎えたのです。
一方で、幕府は藤堂高吉の行動にも問題があると判断しました。高吉が拝志郷への進軍を行ったことは、公儀(幕府)の裁定を待たずに私的な軍事行動を取ったものとして、幕府の目には軽率かつ危険な行為と映りました。そのため、藤堂高虎は養子である高吉にも責任があるとして、高吉に対して大洲の野村(現在の愛媛県西予市野村町)での3年間の蟄居処分を命じました。
この事件当時、藤堂高吉はまだ26歳の若い武将でしたが、幕府の裁定に従い、蟄居生活を余儀なくされます。蟄居処分が解かれた後、高吉は大洲藩に仕官し、再び武将としての活動を再開しました。
拝志郷を救った英雄「堀部主膳」
加藤忠明が追放された後、拝志郷は急速に経済的困窮に陥り、かつての賑わいを失いました。特に、徳川二代将軍・秀忠の治世(1615~1620年)に越智郡一帯が幕府の天領(直轄地)とされたことにより、地域の農民たちは田畑を奪われ、生活基盤を失ってしまいました。天領に組み込まれるということは、幕府の直轄管理下に入ることを意味しており、それまでの領主による保護や支援は一切期待できなくなりました。
この状況により、農民たちの生活はさらに厳しいものとなりました。特に田畑を失った農民たちは、食料を得る手段が無くなり、深刻な貧困に苦しむことになります。生活の糧を絶たれた人々の中には、絶望のあまり自ら命を絶つ者も現れるなど、地域社会全体が危機に瀕していました。日々の暮らしに不安を抱える住民たちは、夜毎に集まり、今後の生活をどう立て直すかを真剣に話し合う場を設けましたが、明るい展望はなかなか見出せない状況が続きました。
加えて、幕府の天領政策による重税も農民たちをさらに苦しめました。天領では、幕府が直接税を徴収するため、領地の発展や農民の生活改善が後回しにされがちでした。結果的に、地域社会全体が経済的に疲弊し、次第に町の活力が失われていきました。
こうした厳しい状況の中、拝志城の新たな城主として統治を任されていたのが堀部主膳でした。主膳は、寂れつつあった拝志の町を復興させるために様々な施策を打ち出していきました。
まず最初に行ったのは、拝志郷の住民に対する地子(じし)の免除です。地子とは、宅地税や土地使用料に相当する税金で、当時の住民にとっては非常に重い負担でした。堀部主膳は、藩主にこの税金の免除を願い出て、承認を得ることに成功しました。
地子の免除により、住民たちは生活費の負担を大幅に軽減され、経済的な余裕を取り戻しました。これにより、住民たちは生活を立て直すことができ、拝志の町は再び活気を取り戻し始めました。堀部主膳のこの政策は、拝志の復興の第一歩となり、住民たちに深い感謝の念を抱かせました。
次に注力したのは、拝志郷の産業振興です。拝志の土地は農業に適していなかったため、堀部主膳は地域の特産品として「ケンド(穀物をふるい分ける農具)」の製造を奨励しました。
ケンドは、拝志の地で作られた堅牢で安価な農具であり、特にその品質の高さで評判を呼びました。堀部主膳は住民たちにケンドの製造を推奨し、これを商売として地域外に販売するように奨励しました。住民たちはケンドを船に積み、今治や周辺の村々で行商を行うようになり、拝志の経済は再び回復し始めます。
拝志で作られたケンドは、今治や周辺地域だけでなく広範囲にわたって行商されるようになりました。さらに、堀部主膳の指導のもと、住民たちはケンドだけでなく、蓑(みの)や笠、箕(み)といった生活用品も製造し、これらを売り歩くようになっていきました。
行商活動は、拝志の住民たちにとって重要な収入源となり、拝志は再び繁栄を取り戻したのです。
拝志城の消失と人々の不屈の精神
しかし、寛永12年(1635年)になると、拝志は今治藩に組み込まれることになり、拝志城は廃城となりました。さらにその5年後には、今治城下の港周辺の石垣補修のために拝志城は取り壊され、その石材が転用されることとなりました。
町の誇りとシンボルでもあった拝志城はこうして無くなってしまいましたが、そんな状況にあっても拝志の人々は立ち止まることなく、堀部主膳守が築き上げた地域の活力を胸に新たな道を歩んでいきました。
「堀部神社」神として祀られた英雄
堀部神社の創建に関する正確な記録や、堀部主膳の亡くなった時期についての詳細は残っていませんが、地域にもたらした善政と発展への貢献を忘れないために、地域の人々が神様として堀部主膳を祀り始めたと考えられます。
堀部主膳は、拝志郷の経済を再建し、住民たちの生活向上に尽力しました。その取り組みは住民の心に深く刻まれ、拝志の発展に大きな影響を与えました。堀部神社は、堀部主膳の偉業を後世に伝え、地域の人々にとって感謝と敬意を表す象徴として建てられたものとされています。この神社は、堀部主膳の精神とともに、地域の心の支えとして今なお信仰の場として大切にされています。