「三島神社・新谷(みしまじんじゃ)」は、愛媛県今治市の清水地区に鎮座する由緒ある神社で、地域の氏神として長きにわたり信仰されてきました。神社の創建は、神亀5年(728年)に、伊予国の乎致宿祢玉興(おちのすくね たまおき)とその弟・玉純(たますみ)によって行われたと伝えられています。
「乎致宿守興公の墓」
創建当初、「三島神社・新谷」は新谷地域の守護神として崇められていましたが、後に玉興(たまおき)の父、「乎致宿守興公(おちのすくね もりおき)」の霊も合祀されたと伝えられています。
神社の入口にある大きな鳥居をくぐると、右手には「平致守興之奥城(おちもりおきのおくつき)」と書かれた立札が立っています。この「奥城(おくつき)」という言葉は、現代の「城(しろ)」ではなく、古代から中世にかけて使われていたもので、「お墓」や「墳墓」を意味しています。
さらにその立札の奥には、「小千守興之墓(おちもりおきのはか)」と刻まれた立派な墓石があり、これが守興公の墓とされています。この墓は、越智氏との深い関わりを持つこの地域の歴史を今に伝え、守興公とその一族がどれほどこの地にとって重要な存在であったかを物語っています。
「乎致(おち)」表記と越智氏
「乎致(おち)」は、古代日本における越智氏の古い表記の一つです。越智氏は、伊予国(現在の愛媛県)を拠点とした古代の豪族で、伊予国造(くにのみやつこ)として地域を統治していました。越智氏の「おち」という読み方は、古代には「乎致」や「小千」、「子致」などの漢字で表記されていたことが、古文書に記録されています。
「宿祢(すくね)」の称号
「宿祢(すくね)」は、古代日本において高位の豪族に与えられる称号で、特に有力な氏族に使われました。越智氏も伊予国で大きな影響力を持ち、天皇に近い身分や権力を持つ氏族として、この称号を受けていたと考えられます。乎致宿祢玉興という名前に含まれる「宿祢」は、玉興が豪族としての高い地位を持っていたことを示しており、越智氏の影響力を反映しています。
越智氏のゆかりのある神社
つまり、「三島神社・新谷」は、古代の有力な豪族であった越智玉興と、その弟である越智玉澄が守護神として大山祇神を祀ってよって創建し、さらに、後から父である越智守興(おちのもりおき)霊も合わせて祀ったということになります。
これは「三島神社・新谷」は地域の守護だけでなく、越智氏一族の祖先を祀る場所としても重要な役割も持っていたことを示しています。
越智守興と「白村江の戦い」
越智守興は、当時の伊予国(現在の愛媛県)に拠点を置く越智氏の重要な人物であり、日本古代史における最大の対外戦争の一つ「白村江の戦い(663年)」に参戦したことで知られています。
7世紀の朝鮮半島は、百済(くだら)、新羅(しんら)、高句麗(こうくり)の三国が覇権を争う「三国時代」と呼ばれる乱世でした。663年、百済とライバル関係にあった新羅が突如として唐(中国)と手を組み連合軍を結成。これによって、百済は一気に滅亡の危機に立たされしまいました。
百済は、古くから日本との関係が深く、文化や技術、仏教の伝来など、日本の発展に大きな影響を与えていました。そのため、日本は百済を友好国とみており、支援をおこなっていました。
そんな中で、滅亡の危機に瀕していた百済の王子「扶余豊(ふよほう)」は、日本に援軍要請が出しました。この要請を受けた日本の朝廷は、直ちに百済を救援するために大規模な軍を派遣することを決定し、2万7000人の兵士を送ることにしました。
さらに、海を渡る戦いには強力な水軍が必要とされたため、伊予国の水軍が重要な役割を果たすことになりました。この時、伊予水軍を率いたのが伊予国の豪族であった越智守興でした。
663年に、朝鮮半島南部にある白村江(現在の錦江)という川のほとりで、「百済・日本連合軍」と「新羅・唐連合軍」がついに激突しました。この戦いは海上を舞台に行われ、伊予水軍が先頭に立って戦いました。
しかし、大国であった唐と新羅の連合軍は非常に強力で、日本の艦隊は唐の軍勢によって次々と撃沈され、最終的に大敗を喫してしまいました。この敗戦により、日本軍は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、百済は完全に滅亡しました。
百済の滅亡したことで、朝鮮半島の主導権は新羅と唐が掌握し、日本は重要な同盟国を失うと共に、朝鮮半島での影響力を完全に失ってしまいました。
以降、唐と新羅が日本に侵攻してくる可能性を恐れ、防衛体制を強化するための大規模な政策を実施。この一環として、日本の沿岸部に防人(さきもり)という防衛兵が配備され、要塞や城が建設されました。また、大宰府(福岡県)の防衛も強化され、唐や新羅の侵攻に備えました。
伊予水軍を率いていた越智守興はというと、この戦いの中で新羅の捕虜となってしまいましたが、脱走に成功し、故郷である伊予国に無事に戻ることができました。しかし、帰還したのは大宝2年(702年)、実に39年間も抑留(諸説あり)されていたと伝えられています。
白村江の戦い以降日本は、直接的な軍事介入を控えるようになり、外交政策の転換を余儀なくされました。これまでの積極的な対外政策から、内政重視の政策へとシフトし、律令制を整備し、国内統治を強化することに注力するようになりました。
越智郡では律令的な地方行政組織の前身である「評(こおり)」が成立し、のちに郡制が導入されました。この制度は、大和朝廷の地方支配を強化し、越智氏もまた、地方官としての役割を果たすようになりました。
唐で生まれた!?「越智玉興と越智玉澄」
一説によると、越智守興が白村江の戦いで捕虜となっている間に、唐の武将の娘との間に生まれた子供が玉守と玉澄の兄弟であるとされています。この伝承に基づけば、玉守と玉澄は異国で生まれ、父親である越智守興が日本に戻った後、二人も一緒に伊予国に移り住んだことになります。
玉澄と河野氏の成立
ちなみに越智守興の息子である玉澄(たますみ)は、伊予国の風早郡(現在の愛媛県松山市近郊)河野郷に居を構えたことから、「河野玉澄」と名乗りました。これが、後に伊予国で大きな影響力を持つ武士団、河野氏の起源であると伝えられています。
河野水軍と村上水軍
河野郷に定住した玉澄は、河野氏の初代となり以降は越智ではなく河野という姓が使われるようになりました。河野氏はその後、中世の日本において、瀬戸内海周辺で強力な水軍「河野水軍」を持ち、最強の海賊である「村上水軍」を配下にしたがえ、瀬戸内海を完全に掌握した有力な武士団へと成長していきました。