「称名寺(しょうみょうじ)」は、寛永20年(1643年)に一世玄恵法師によって創設され、その後も地域の人々に親しまれてきた歴史ある寺院です。この寺は浄土真宗に属しており、浄土真宗は鎌倉時代初期に仏教家の「親鸞(しんらん)」が展開した教えを基にした大乗仏教の宗派の一つです。
称名寺には、親鸞聖人御像が安置されており、浄土真宗の教えを大切に守り続けていることを象徴しています。
「他力本願」の浄土真宗
浄土真宗の教えは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の力にすべてを委ねて救われる「他力本願」を中心にしており、この教義を特徴としています。
ただし、ここでの「他力本願」という言葉は、一般的な私たちが知る「他人任せ」という意味ではありません。浄土真宗における「他力」とは他人の力ではなく、阿弥陀仏の慈悲の力のことを指しています。
親鸞は、阿弥陀仏が「すべての生きとし生けるものを救わずにはおかない」という強い願いを持っていると教えました。つまり、私たちが修行や努力を重ねて救いを求めるのではなく「阿弥陀仏の慈悲の力にすべてを委ねましょう」というのが、浄土真宗の基本となっています。
浄土真宗の独自性
浄土真宗の独自性は、他の仏教宗派と比べて、戒律を重視しない点にあります。伝統的な仏教では、僧侶は厳しい戒律を守り、世俗的な生活から離れることが求められます。しかし、親鸞は「非僧非俗」(ひそうひぞく)、つまり僧侶でもなく俗人でもないという立場を取ることで、僧侶であっても家庭を持ち、日常生活を送りながら信仰を深めることを認めました。このため、浄土真宗の僧侶は肉食や妻帯が許され、他の仏教宗派とは異なる社会とのつながりを持ちながら活動を続けることができました。
また、浄土真宗の信仰実践において最も大切にされているのが「念仏」です。「南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏への感謝と信仰の心を表します。念仏は、ただ単に声に出して唱えるだけでなく、心から阿弥陀仏の慈悲を信じ、その救いを受け入れることを示す行為です。修行や厳しい戒律に頼るのではなく、念仏を通して信心(しんじん:信仰の心)を深め、阿弥陀仏に救いを委ねるのです。
浄土真宗の葬儀は他の宗派と大きく異なります。一般的な仏教の葬儀では、死者が成仏するための供養や儀式が重要視されますが、浄土真宗では「故人はすでに阿弥陀仏の力で救われている」と考えるため、特別な供養や導きの儀式は行われません。阿弥陀仏の慈悲によって、死者はすでに極楽往生していると信じるため、葬儀は故人を弔うというよりも、阿弥陀仏の教えを確認し、生きている者が仏の教えに触れる場とされています。この点が、浄土真宗の葬儀が他の宗派と異なる大きな理由です。
このように、浄土真宗の教えは厳しい修行や戒律を必要とせず、阿弥陀仏の力にすべてを委ねるという非常にシンプルでわかりやすいものです。誰でも阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えることで救いを得ることができるという教えは、庶民に親しまれ、現代でも多くの信者に受け入れられています。この信仰は、日常生活の中で実践でき、心の平安をもたらすものとして、多くの人々の精神的な支えとなっています。
親鸞の生涯
親鸞は1173年(承安3年)、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)に誕生しました。父は日野有範、母は吉光女で、日野家は藤原氏の流れをくむ名家でしたが、当時の日本は戦乱と混乱の最中にありました。平安時代末期から鎌倉時代へ移り変わる激動の時期で、武士が台頭し、平氏と源氏が権力を巡って争っていたのです。さらに、台風や地震といった自然災害や疫病も相次ぎ、人々は「末法の世」に入ったと感じ、恐れを抱えていました。
9歳のとき、親鸞は出家を決意し、当時の日本仏教の中心地だった比叡山に入り天台宗の修行を始めました。親鸞は「不断念仏」を修する堂僧として、主に横川(よかわ)にある首楞厳院(しゅりょうごんいん)という寺で20年間修行に励みました
「不断念仏」とは、昼夜を問わず念仏を唱え続ける修行法です。親鸞は、ただ念仏を唱えるだけでなく、「生死いづべき道」、つまり生と死の解決を求め、悟りの道をひたすら追求していました。この20年間は、ひたすら学問と修行に没頭する日々で、天台宗の教えを深く学び、厳しい修行に耐えながら悟りを得るための道を探し続けました。
しかし、どれだけ学問や修行に打ち込んでも、自らの力ではどうしても悟りに達することができないという限界に気づくようになりました。
法然上人と浄土宗との出会い
そんな中で、浄土宗の開祖である「法然上人(ほうねんしょうにん)」と出会いました。法然の説いた「専修念仏」、すなわちただ念仏を唱えることで阿弥陀仏の救いにあずかるという教えに深く感銘を受けました。この教えに共感し、親鸞は法然の弟子として修行を続けました。そして、念仏の教えを実践し、多くの人々に伝えていったのでした。
「元久の法難(1204年)」
法然上人の教えである「専修念仏(南無阿弥陀仏を唱えることによって救われるという教え)」は、広く民衆に支持されていました。しかし、この教えが急速に広まる中で、法然の弟子や信者の一部は他宗派を軽視する言動を取り、浄土宗と他宗の間で摩擦が生じるようになりました。浄土宗の影響力が増すことを危惧した延暦寺の僧侶たちは、念仏を差し止めるよう求め、延暦寺のトップである真性に申し入れを行いました。
延暦寺の圧力を受けた法然上人は、弟子たちに対して行動を慎むよう戒めるための文書を作成し、弟子たちに署名を求めました。法然は、自らの教えを誤解して他宗を批判することを戒め、他宗との対立を避けようと努めました。この事件が「元久の法難(げんきゅうのほうなん)」として知られる出来事です。
この戒めによって一時的には事態が収まりましたが、浄土宗と他宗派との緊張は依然として続き、根本的な解決には至りませんでした。法然上人は弟子たちに行動を改めるよう強調し、教えを正しく理解し、誤解されないよう努めることを求めました。
「建永の法難(1207年)」
「元久の法難」から3年後、今度はさらに大きな事件が発生しました。浄土宗の教えが引き続き広まりを見せる中、法然の2人の弟子が後鳥羽上皇に仕えていた侍女を無断で出家させる事件が起こったのです。この行動は、当時の社会秩序に反するものであり、後鳥羽上皇の怒りを買いました。
そして建永2年(1207年)、後鳥羽上皇はこの事件を厳しく処罰しました。法然上人の弟子である2人は死罪に処され、法然上人は四国の土佐に、弟子の親鸞も連座し、越後国(現在の新潟県上越市)に流罪とされました。この出来事が「建永の法難(じょうげんのほうなん)」です。
この時、法然上人は75歳、親鸞は35歳でした。
この時のことを親鸞は「主上臣下が法に背き、義に違う」ことで罪を着せられたことを語っており、流罪が不当であったことを述べていますが、同時に師である法然上人の潔い姿を見て、自らもその運命を受け入れました。
越後国での厳しい暮らし
親鸞は、京都を出発し、逢坂の関を越え、船で琵琶湖を北上し、山路を経て越前、越中を抜け、糸魚川周辺で再び船に乗り、越後国分寺の近くにある居多ヶ浜に上陸しました。
越後国は、都から遠く離れた辺境の地であり、当時は未開の地とされていました。流罪とは、遠く隔絶された土地に送り込まれる厳しい刑罰で、親鸞も最初の一年間は役人の厳しい監視下に置かれ、社会から完全に隔離されていました。
越後での生活は極めて厳しく、一日米一升と塩一勺だけで過ごし、自給自足の生活を余儀なくされました。
「非僧非俗(ひそうひぞく)」宣言
翌年、越後での生活が少し落ち着いた頃、親鸞は種子籾を受け取り、荒れ地を開墾して自給自足を目指すことになりました。しかし、耕作できる土地は河原のような不毛な場所しか与えられず、親鸞が手にした収穫は決して多くはなかったと言われています。それでも親鸞は、自らの信仰を揺るがせることなく、、「人々は生死に迷っているであろう、この未開の地でこそ仏の慈悲を説く機会があるのだ」と師への感謝を抱き、厳しい環境に順応していきました。
そして、親鸞はこれまでの僧としての立場にとらわれず、「もはや私は僧ではなく、かといって世俗の者でもない」と「非僧非俗(ひそうひぞく)」宣言し、自由な信仰の道を歩むことを決意しました。
この時から親人は「愚禿(ぐとく)釈親鸞」と名乗るようになりました。「愚禿」とは、自らを「愚か者の禿(僧侶)」と表現する謙遜の意味で、名乗りに込められた深い自己認識を示しています。つまり親鸞は、自らの地位や権威を捨て、阿弥陀仏の慈悲に身をゆだねた信仰者としての道を貫こうとしたのです。
異例の結婚
親鸞は越後で恵信尼(えしんに)という女性と出会い結婚しました。恵信尼は教養の高い女性で、親鸞の信仰を支え、困難な流罪生活の中で家庭を守りながら共に生きました。当時の僧侶は妻を持つことが異例とされる時代でしたが、親鸞は結婚が念仏の道に反するものではないと確信していました。
親鸞は「信心に貴賤や聖俗の区別はなく、男女の差別もない」という考えを持ち、当時の男尊女卑の社会においても、平等の精神を尊重していました。そして二人は越後の地での厳しい生活を支え合いながら、家族の絆を深めていったのです。
「すべての人救われる」越後での布教
親鸞は、越後国での過酷な生活の中でも、多くの人々と関わりを持ち、念仏の教えを広めていきました。当時の越後国は貧困に苦しむ人々が多く、親鸞はその人々に対して阿弥陀仏の本願を説きました。やがて「すべての人が等しく救われる道」を説く親鸞の教えは、厳しい環境に生きる人々にとって、大きな希望となっていき、は越後国で多くの信者を得ることとなりました。
法然上人の帰京と入寂
建暦元年(1211年)、法然上人は流罪先の土佐から5年ぶりに京都へ戻りました。しかし、かつての住まいである吉水の草庵は荒れており、法然上人は大谷の禅房に移り住みました。高齢だった法然上人は帰京後すぐに病に伏せ、翌年、弟子の勢観房源智上人から念仏の要点を記すよう求められます。
これに応えて書かれたのが『一枚起請文』で、「ただ一向に念仏すべし」と説き、念仏を最も大切にする教えが簡潔にまとめられています。建暦2年(1212年)1月25日、法然上人は80歳で静かに息を引き取りました。その後、法然上人の念仏信仰は弟子たちによって広まり、全国に浸透していきました。
親鸞の関東への旅と伝道
法然上人が帰京を許された同じ年(1211年)、親鸞も流罪から解放されました。
しかし、その年に届いたのは師である法然上人の訃報でした。この知らせは親鸞に深い悲しみをもたらし、今後どのように生きるべきか大きな悩みを抱えました。法然上人のいない京都に戻る気もせず、また越後に留まることも考えられなかった親鸞は、今後の人生の方向を模索しました。
親鸞がその悩みの中で決断したのが、関東への移住でした。この決断には、妻である恵信尼の父が常陸(現在の茨城県)に所領を持っていたことも影響していたと言われています。親鸞は家族とともに越後を離れ、徒歩で関東地方に向かいました。この旅は決して容易なものではなく、当時の交通手段はほとんどが徒歩であったため、山や川を越える険しい道のりを進む必要がありました。
関東への道中、親鸞は長野の善光寺に立ち寄り、一光三尊仏(阿弥陀仏を中心に観音菩薩と勢至菩薩が脇に控える仏像)を拝みました。この一光三尊仏に対して、親鸞は特別な感慨を抱き、これまで学んできた書物での仏法理解を超える深い信仰心を得ました。この出会いが、念仏の教えをさらに確信させ、布教活動に大きな影響を与えたのです。
関東での20年間の普及活動
関東に到着した親鸞は、当時の混乱した社会状況の中で布教を開始しました。当時、関東地方は政治的にも社会的にも不安定であり、武士や庶民の生活は厳しいものでした。このような時代背景の中で、親鸞が説いた「他力本願」の教えは、多くの人々に希望を与えるものでした。
親鸞の「他力本願」とは、自分自身の修行や努力ではなく、阿弥陀仏の慈悲にすべてを委ねることで救いが得られるという教えです。念仏を唱えることで、誰もが平等に救われるとするこのシンプルな教えは、武士たちが戦乱に巻き込まれ、庶民が経済的に困窮している状況において、彼らに大きな安らぎと希望をもたらしました。難解な修行や理論を必要とせず、ただ阿弥陀仏を信じ念仏を唱えるだけで救われるという親鸞の教えは、困難な時代に生きる人々にとって非常に魅力的だったのです。
親鸞は、関東各地を巡り、農村や集落を訪れて人々と直接交流しながら教えを広めていきました。親鸞は学問的な難しい理論を説くのではなく、誰にでもわかりやすい形で念仏の教えを伝え、多くの人々に心の安らぎを提供しました。その結果、親鸞の教えは短期間で関東一帯に広がり、武士や庶民の間に深く浸透していきました。
また、この時期に親鸞は多くの弟子を育て、彼らもまた親鸞の教えを広める役割を担いました。弟子たちは各地で布教活動を行い、念仏信仰をさらに多くの人々に伝えました。関東滞在中に親鸞は、後に浄土真宗の根本教典となる『教行信証』の執筆を始め、念仏の教えを体系的にまとめることにも尽力しました。
関東に到着した親鸞でしたが、当時の関東地方は、政治的にも社会的にも不安定な状況にあり、特に武士や庶民の生活は厳しいものでした。
この中で、親鸞が説いた「他力本願」の教えは、困難な環境に生きる人々にとって大きな希望となりました。この教えの核心は、個人の修行や努力ではなく、阿弥陀仏の慈悲にすべてを委ね、念仏を唱えることで誰もが平等に救われるというものでした。武士たちは戦乱に巻き込まれ、庶民も経済的に苦しんでいる中で、このシンプルで力強い教えは彼らにとって非常に魅力的だったのです。
関東での親鸞の布教活動は、単に教義を説くだけではなく、人々との直接の交流を通じて念仏の教えを伝えていくものでした。農村や小さな集落を巡りながら、多くの武士や庶民に語りかけ、念仏を唱えることで救いが得られるという信仰を広めました。親鸞の教えは、学問的な理論や難解な修行ではなく、誰にでも理解できるものであったため、短期間で広く浸透していきました。
浄土真宗の誕生
また、関東での活動中、親鸞は多くの弟子を育て、弟子たちを通じてさらに念仏の教えが広まっていきました。弟子たちは各地で布教活動を行い、親鸞の思想をより多くの人々に伝えていきました。この時期、親鸞は『教行信証』を執筆し始め、念仏の教えを体系的にまとめることにも取り組みました。
『教行信証』は、親鸞の教えを詳細に記した浄土真宗の根本教典であり、その思想を全てをまとめ上げたものです。この書物の草稿が一応の完成を見た1224年は、後に浄土真宗の「立教改宗」の年とされるようになりました。
晩年との親鸞と教えの広がり
常陸を中心に約20年間(1214年〜1232年頃)に渡り念仏の教えを広めた後、親鸞は京都に戻り、さらに教えを深めながら多くの弟子たちに説法を行いました。晩年は、京都での生活を送りつつ、念仏の教えを広め続け、信仰を貫きました。90歳の長寿を全うし、1263年(弘長2年)に生涯を閉じるまで、親鸞の教えは人々に影響を与え続け、後世の浄土真宗信徒に大きな影響を残しました。
親鸞が著した『教行信証』は、浄土真宗の思想を体系化した代表的な著作であり、親鸞の教えが後世まで受け継がれる重要な書物となりました。今日でも、親鸞の教えは多くの人々に影響を与え、浄土真宗は日本国内外で広く信仰されています。
浄土真宗の広がり
親鸞の死後、曾孫である覚如(かくにょ)(1270年 – 1351年)が、親鸞の教えを引き継ぎ、その遺産を守るために京都に浄土真宗本願寺派「西本本願寺」を創設しました。覚如は、親鸞の直系の子孫であったため、親鸞の教えを守る正当な後継者であることを主張しました。
本願寺は当初、天台宗の末寺としての位置づけでしたが、やがて浄土真宗の中心地となり、大きな勢力を築く拠点となります。
浄土真宗が大きく発展したのは、八世の蓮如(れんにょ)(1415年 – 1499年)の登場によるものでした。蓮如は、民衆の成長や社会的な変化を背景に、念仏信仰を広めるために「講(こう)」と呼ばれる信者の組織を作り上げました。この講は、信者が集まり教えを学び、互いに支え合う場を提供するもので、浄土真宗の信仰を拡大する基盤となりました。
さらに、蓮如は『御文(おふみ)』と呼ばれるわかりやすい手紙を通じて親鸞の教えを広めました。これにより、浄土真宗は多くの民衆に浸透し、急速に広がっていきました。やがて西本願寺を中心とした浄土真宗は「一向宗(いっこうしゅう)」として大きな宗教勢力に成長していきました。
この一向宗の信者たちは、強い団結力を持ち、時には武装して領主や大名に対抗する「一向一揆(いっこういっき)」という武力闘争を起こすようになりました。一向一揆は、領主の圧政に対抗するための手段となり、特に加賀国(現在の石川県)では大規模な一向一揆が発生し、加賀を実質的に支配する状況が続きました。
この一向一揆は戦国時代において大きな勢力となり、織田信長や徳川家康など、当時の大名たちにとって大きな脅威となりました。そのため、織田信長をはじめとする大名たちは、一向宗を禁教とし、信者を弾圧する政策を取るようになりました。
その後、織田信長との対立が激化し、石山合戦と呼ばれる大規模な戦闘を経て本願寺は一時的に衰退しましたが、豊臣秀吉の時代に京都で再興されます。しかし、江戸時代に入り、徳川家康の宗教政策によって本願寺は東西に分裂し、現在の「西本願寺」と「東本願寺」が形成されました。これ以降、本願寺派と他の真宗各派は、それぞれの道を歩むこととなりました。
こうして、親鸞聖人の教えは後世に引き継がれ、浄土真宗は日本各地で広まり、多くの人々に影響を与える一大宗派へと発展しました。
伊予への浄土真宗の広がり
蓮如は、叡山西塔の衆徒による法難を受け、越前吉崎を拠点に北陸に教化活動を展開しました。その後、山城・摂津・河内・紀伊などを巡り、最終的に山科に本願寺を再興しました。晩年には摂津石山に本願寺を移し、これが後の石山本願寺(現在の大阪城の地)となります。
伊予における浄土真宗の布教は、石山本願寺の活動を中心とするものの、他の地域ほど一向宗のような組織的・集中的な布教は見られず、個々の寺院が独自に浄土真宗に改宗し、その教えを広める形で進んでいきました。
例えば、西条市の長敬寺は伊予で最も古い浄土真宗の寺院とされ、弘安六年(1283年)に創建されましたが、三世西念代に本願寺三世の覚如から寺号を賜り、浄土真宗へと改宗しました。
享禄四年(1531年)に道後に開創された浄蓮寺は、その後、松前町に移転し、さらに慶長十一年(1606年)に現在の松山市本町に移されました。松山市に移ってからは、浄土真宗の中心的な寺院として発展し、江戸時代には特に繁栄しました。浄蓮寺は、地域の信仰の中心となり、多くの人々に支えられながら、浄土真宗の教えを広める重要な役割を果たしました。また、寺格としても「中本寺」として認められ、伊予地域における浄土真宗の象徴的存在となりました。
このような長い歴史の中で、今治では称名寺が、1643年(寛永20年)に創設されました。称名寺は浄土真宗の寺院として、親鸞聖人の教えを受け継ぎ、阿弥陀仏の慈悲を信じる「他力本願」の教えを広める寺院として、今も地域の人々に親しまれています。