「安養寺(あんようじ)」は、創建以来13代にわたって法燈(信仰の灯火)が受け継がれ続けてきました。
安養寺の創建
安養寺の創建は、元和元年(1615年)、開祖である僧侶空真沙彌(くうしんさみ)によって、この寺が建立されました。寺院が築かれた場所は、かつて古代の豪族の墓とされる鯨山古墳の上であり、歴史的遺産としての古墳と、仏教的な霊的空間が融合する、特異な場所です。空真沙彌は、この霊的な力を引き継ぎながら、地域の人々に安らぎと信仰の場を提供するために寺院を建てたのかもしれません。
安養寺の発展と再建
安養寺が本格的に整備されたのは、享保年間(1716年~1736年)、二世住職である「俊照阿闍梨(しゅんしょうあじゃり)」の時代です。俊照阿闍梨は、地元の領主「源定陳(みなもとのさだのぶ)」から深い信頼を受けており、領主の支援を受けて多くの人々の協力を得ながら寺院の整備を進めました。この時には、数百人の労働力が動員され、伽藍が大きく整備され、地域の宗教的な中心地として機能し、多くの信者が集まる場となりました。
本堂は、天明元年(1781年)に建立されました。その後、明治期に再建が行われ、昭和57年(1982年)になるとさらに大規模な再建が実施され、現在の荘厳な本堂が完成しました。
歴代の住職たちは、その長い歴史の中で、地域の人々に支えられながら、信仰の場としての寺院を守り続け、寺院の維持と発展に尽力してきました。
鯨山古墳の由来と安養寺の関係
安養寺が鎮座する鯨山古墳は、愛媛県指定史跡として「日高鯨山の古墳」と名付けられている大型の古墳です。
鯨山古墳の名前の由来は、その地形と古代の地理的環境に深く関係しています。古墳の場所は、現在でこそ丘陵として残っていますが、かつてこの地域は入り江に面しており、今の地形とは異なる海岸線が形成されていました。
この山は元々は串山呼ばれていましたが、満潮時には丘陵がまるで海に浮かぶクジラのように見えたことから、神亀5年(728年)に鯨眠山と名付けられました。
この伝承について、江戸時代の地誌である『愛媛面影』には次のように記録されています。
「かつてこの地域は海に面しており、現在の丘陵が海上から突き出る姿がクジラのように見えたため、地域の人々が『クジラが泳いでいるようだ』と称した」
時代が進むにつれて、地元の人々はこの山を「鯨眠山」からより簡略化した「鯨山(くじらやま)」と呼ぶようになりました。
安養寺の呼称と山号の変遷
安養寺もまた、時代と共にその呼ばれ方が変わってきました。安養寺の前身は前述の創建よりもはるかに古く、和銅5年(712年)にまでさかのぼります。この年、「串山」に三島神社が建立され、その別当寺(神護寺)として「串山安艱寺」が作られました。
しかし、串山が鯨眠山と呼ばれるようになったため、神亀5年(728年)に「鯨眠山安艱寺」と山号を変更。元和元年(1615年)には、山号を「新宮山」とし、現在の「新宮山安養寺」となりました。
そして、明治8年(1875年)に神仏分離令が発令され、三島神社は神道の施設として、安養寺は仏教寺院としてそれぞれ単独で存続することとなりました。この分離によって、それまで密接に結びついていた神仏習合の関係が解消され、それぞれが別々の宗教施設として新たな歴史を歩み始めたのです。
地殻変動にでクジラのような丘陵地へ
約1万年前、氷河期が終わり地球の気温は急激に上昇しました。この温暖化によって氷河や氷床が溶け出し、海面が上昇しました。この現象は「海進(かいしん)」と呼ばれ、世界中の沿岸地域で海面が内陸へ進出し、海岸線が大きく後退しました。古墳がある馬越町もこの時期に海岸線が内陸まで進入していた地域の一つとされています。
海面の上昇は数千年にわたって続き、特に約6千年前の温暖期には、海面がさらに高くなり、現在の馬越町一帯はほとんど海に囲まれた状態でした。この頃、丘陵地であった鯨山古墳の位置する場所は、周囲の低地に海水が入り込み、まるで島のように海に浮かぶ地形となっていました。このため、地域の人々はこの丘陵を「クジラのようだ」と見なし、やがて鯨山と呼ばれるようになったと考られます。
地質学的な調査によって、この地域に海水が入り込んでいたことが明らかになっています。特に、蒼社川や浅川などの河口が現在よりもはるかに広がっていたことが確認されています。これらの河川は、長い時間をかけて土砂を運搬し、次第に内陸部の低地を埋め立てていきましたが、氷河期終焉直後の時期にはまだ海が深く入り込んでいました。
馬越町の標高は約7メートルですが、過去の研究によれば、約2200年前にはこの地域が海岸線に接していたことが推定されています。この推定は、土木工事などの際に発見された地質的な証拠、例えば岩盤に付着したカキ殻の存在からも裏付けられています。カキ殻は、海洋生物であるため、海水がこの地域まで達していた証拠と見なされます。
また、馬越という地名には「かつてこの地域が海であった頃、人々が馬に乗ってこの地を越えた」という伝説が残されています。この話は、地域の伝承として長く語り継がれていますが、歴史的な観点からは矛盾も存在します。たとえば、中国の歴史書『魏志倭人伝』では、弥生時代の日本には馬が存在していなかったと記されています。したがって、この伝説は実際の歴史というより、後世に作られた物語の可能性が高いです。しかし、こうした伝説が必ずしも事実に基づいていないとしても、地域の人々にとっては重要な歴史の一部であり、世代を超えて口伝され続けてきました。
また、周辺地域の考古学的発見として、阿方貝塚や片山貝塚などの遺跡からも、海岸線がかつてこの地域まで広がっていたことが示されています。これらの貝塚は、古代の人々が食料として利用した貝殻などを捨てていた場所であり、標高約10メートル付近で発見されています。このことから、当時の海岸線が現在よりも内陸に位置していたことが確認されています。
このような地殻変動は、海面の上昇だけでなく、周辺の河川の堆積作用も地形に大きな影響を与えました。蒼社川や浅川など、馬越町を流れる河川は、山間部から土砂を運び、次第に低地に堆積させていきました。この堆積作用によって、次第に内陸部の海が埋め立てられ、現在のような平地が形成されました。今治地方では、河川の堆積物が100年間に約10センチメートルのペースで蓄積すると言われており、数千年を経て広大な平野が形成されていきました。
馬越町の標高は約7メートルで、これは現在の海面よりも高い位置にありますが、過去に海水が侵入していた時代にはこの地が海岸線に接していました。このことからも、当時の人々はこの地を「クジラのような島」として認識していた可能性があります。
地方豪族の権威の象徴
古墳時代(500年〜)にはいると、この地域は現在のような丘陵地帯としての特徴を持つようになりました。古墳時代の特徴の一つが、地域の豪族たちが自らの権威を示すために大規模な古墳製造です。鯨山古墳もその一例であり、この地域を支配した豪族の重要な墓として位置づけられています。
鯨山古墳には、「越智国造(おちのくにのみやつこ)」という地方豪族が深く関わっているとされています。越智国造は、古代の伊予国(現在の愛媛県)を支配した有力な豪族であり、瀬戸内海一帯を中心に強大な影響力を持っていました。
国造制度は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本各地の地方支配者が、中央の大和朝廷から国造としての地位を与えられる制度で、国造はその地域の行政や治安、宗教的な儀式を統括する役割を果たしていました。越智国造は、古代の伊予国においてその勢力を強め、地域の政治的・宗教的リーダーとして位置づけられで、中央の大和政権ともつながりが深い一族でした。
越智国造の中で、重要な人物であり鯨山古墳に埋葬されたと伝えられているのが「小千御子(おちのみこ)」です。小千御子は、古代において地域の統治者としてだけでなく、宗教的な権威も持っていたと考えられ、埋葬された場所である鯨山古墳は特別な意味を持っていたと考えられます。
現在の鯨山古墳
現在、鯨山古墳は今治市の住宅地に囲まれており、その全体像を一望することは難しいですが、地域の重要な歴史的遺産として大切に保存されています。1950年(昭和25年)には愛媛県指定史跡に指定され、今もなおその歴史的価値が広く認識されています。
鯨山古墳は、古代から現代に至るまで、多くの歴史と文化を抱えた存在です。発掘調査が行われていないため、古墳の全貌はまだ明らかになっていませんが、今後の研究や調査によって、さらなる発見が期待されています。
そんな鯨山古墳の後円部に建てられているのが、1615年に創建された安養寺です。この寺院は、地域の人々の信仰の場であり、古墳の歴史と密接に関わっています。安養寺の存在は、仏教的な信仰と古代の霊的遺産が融合した特別な場所を象徴しており、鯨山古墳の歴史的な重要性をさらに高めています。