円照寺の起源は、平安時代中期の朱雀天皇(すざくてんのう)の治世にさかのぼります。
朱雀天皇(923年9月7日〈延長元年7月24日〉 – 952年9月6日〈天暦6年8月15日〉)は日本の第61代天皇であり、930年から946年まで在位しました。諱は寛明(ゆたあきら)で、第60代醍醐天皇の第十一皇子です。母は藤原基経の娘で、中宮藤原穏子です。
延長4年(926年)には東宮となり、立太子の背景には兄保明親王とその子慶頼王の夭折がありました。母后穏子は怨霊を恐れ、寛明親王を特別に保護して育てました。延長8年(930年)に先代の醍醐天皇が危篤となり、9月22日に即位。醍醐天皇はその7日後に崩御し、朱雀天皇はわずか8歳で即位しました。政治は伯父の藤原忠平が摂関として取り仕切っていました。
社会情勢
朱雀天皇の治世(930年〜946年)は、平安京が政治と文化の中心地として栄えた一方で、地方では混乱や反乱が頻発した時代でした。
特に、海賊の活動が盛んになり、地域の治安が不安定になることが頻繁に起こりました。さらに富士山の噴火、地震、洪水などの破壊的な天変地異が相次ぎ、社会不安が広がる中で、地方の住民たちは生活の脅威にさらされていました。
このような混乱の中で、地方の有力氏族は自らの土地や作物を守るために武装集団を抱えるようになりました。中央政府の統制力が弱まる中で、地域の治安を維持するためには、自らの武力が不可欠だったのです。武装集団は自己防衛のための組織を形成し、朝廷の権威に対抗する動きが見られるようになりました。
瀬戸内海の状況
9世紀後半、瀬戸内海は官物や租税などの物資運送の重要な海上路となっていました。同時に、それを狙った海賊たちが頻繁に出没しており、その存在は、物流を脅かすだけではなく、国の商業活動自体に深刻な影響を与えるほどになっていました。この状況は、朝廷にとって大きな悩みの種となっており、治安維持が急務とされました。
これを改善させるべく、朝廷は承平6年(936年)に紀淑人(きの よしひと)を伊予守兼南海道追捕使に任命し、海賊問題の解決を目的に、現在の宇和島市の離島「伊予国の日振島(ひぶりしま)」に派遣しました。
そして、日振島が拠点の海賊の首領であった藤原純友に対し、海賊制圧を行わせて沈静化を図りました。純友は紀淑人の指導のもとで地域の海賊たちを次々と統制していきました。さらに、紀淑人は元海賊たちに田畑を与え、農業に従事させるなどの投降策も講じていきました。
その甲斐あってか、1000人の海賊が海賊行為を辞め、地域の治安が著しく回復していきました。しかし、それも長くは続きませんでした。
939年(天慶2年)末、東国(現在の千葉県)で平将門が反乱を起こしました。これが「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」です。将門は、関東地方の有力な武士であったため、朝廷にとって大きな脅威となりました。
そして、東で平将門の乱に朝廷が対応に追われているさなか、今度は西で藤原純友が地域の海賊と共に、大規模な海賊連合を結成し、海を舞台に朝廷に牙を向きました。
これが「藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)」です。これにより、朝廷は東西両方で同時に発生した大規模な反乱に対処することを余儀なくされ、後に平安時代中期の日本におけるこの二大反乱は「東の将門、西の純友」と呼ばれるようになりました。
藤原純友は、海賊を統率しながら瀬戸内海の島々を拠点にし、西日本の沿岸地域に攻撃を加えました。
純友が率いる海賊連合は瞬く間に勢力を拡大し、伊予国や周辺の国々を支配下に置いていきました。朝廷の統治が弱まっていたため、地方の住民たちは不安に陥り、治安が急速に悪化しました。朝廷は、純友の反乱を鎮圧するためにさまざまな懐柔策を試みましたが、効果はほとんどありませんでした。
征夷大将軍「藤原忠文」の派遣
朝廷は、純友の反乱に対処するため、941年に同族であり有力な武将であった藤原忠文を「征夷大将軍」に任命し、純友の討伐に乗り出しました。忠文は、地方の武士たちと連携しながら軍を編成し、反乱を鎮圧するために瀬戸内海へ進軍しました。
この戦いにおいて、紀淑人をはじめとする地方の武士も朝廷側について、藤原純友の軍と対峙しました。純友は、朝廷軍との戦いで一時的に優位に立つこともありましたが、次第に追い詰められていきました。
反乱の終息
941年2月、朝廷軍は藤原純友の本拠地であった伊予国を制圧することに成功しました。これにより、拠点を失った純友は西へ逃亡、博多湾から大宰府へ侵攻しました。大宰府では都府楼に火を放ち、観世音寺を略奪するなど暴虐を振るいます。しかし、同年5月には朝廷の派遣軍が到着し、小野好古や大蔵春実といった武将が指揮する軍勢によって純友の軍はついに撃破されます。
命からがら伊予へ逃げ戻った純友はですが、同年6月には朝廷軍の一人で警固使の「橘遠保(たちばなのとおやす)」によって討伐されました。純友は捕らえられ、獄中で死去したとも伝えられています。この戦いにおける橘遠保の功績は大きく、その後、宇和郡に勢力を拡大し、子孫がその地に定着しました。
藤原純友の乱と円照寺の創建
円照寺の創建はこの藤原純友の乱に深く関係してます。
藤原純友の乱の発生前、紀淑人は、仏教を通じて地域の安定を図るため、この寺に「焚鐘一字」を奉じました。「焚鐘一字」とは、鐘を焚き上げる儀式の一環として、神仏への祈りや感謝の象徴となるもので、寺院は地域住民の信仰の中心となりました。
しかし、上記のように可乱は発生してしまい、最終的に藤原純友は討たれて乱は終息しました。
しかし、その後の939年から始まった藤原純友の乱によって、日振島やその周辺は混乱に巻き込まれました。
この藤原純友の乱で活躍した人物の一人が、今治の越智郡を治めていた越智(河野)好方です。好方は、越智氏や河野氏の祖先として知られ、藤原純友の乱に際して朝廷側につき、純友の討伐のために戦いました。
戦いの後、越智好方は日振島に建てられていた寺院を、藤原純友の故郷でもある現在の今治市の高橋に移しました。そして、自身の弟である越智好純を出家させ、このお寺を守らせることにしました。
そして越智好純は出家後、「直岳律師」として律宗の教えを広め、寺の開基の始祖となりました。これが、円照寺の正式な始まりです。
円照寺の発展と中興
その後、円照寺は幾度かの宗派変遷を経て発展していきました。
最初は律宗として始まった寺院でしたが、浄土宗に改宗し、寛永年間(1624〜1647年)頃に、泰甫宗大和尚が臨済宗東福寺派に改宗し、現在まで続いています。
このお地蔵様は、母乳の出に悩む母親たちや子育てに関する祈願を行う信者から長く敬われてきました。その由来や信仰の歴史について、詳しく見ていきましょう。
高橋の円照寺に伝わる乳地蔵(授乳地蔵)
円照寺には特別なお地蔵があります。それが「授乳地蔵(乳地蔵)」です。
授乳地蔵はその名の通り、母乳に悩む母親や、子供の健康を願う家族に特別な力をもたらしてくれる存在であると信じられています。
古くから母乳の出に悩む母親たちにとって、希望の象徴として信仰されており、母乳の出が悪いとき、母親たちはこのお地蔵様に「乳をお授け下さい」と祈りを捧げ、その祈願が叶うと信じられていました。
授乳は、特に昔の時代には重要な問題でした。現代のように哺乳瓶や人工乳が発達していない時代では、母乳が出ないことは子供の健康や命に大きく関わる問題であり、母親たちにとって非常に深刻な悩みでした。母乳の出が悪い母親たちは、授乳地蔵にすがり、子供のために母乳を授かりたいという強い願いを持って祈りを捧げたのです。
こうした背景から、乳地蔵尊は母親たちにとって単なるお地蔵様以上の存在となりました。母乳が出ないことで悩んでいた母親が、乳地蔵尊に祈ると不思議なことにその願いが叶い、母乳が出るようになったという話が広まり、このお地蔵様は特別な力を持つとされるようになりました。
願いが成就すると、母親たちは感謝の気持ちを込めて2つの乳房をかたどった模型を奉納するという風習が現代も続いており、地蔵堂には乳の模型がたくさん吊るされています。
しかし、現代では哺乳瓶で粉ミルクの授乳することも増え、母乳の出に悩む母親が減少したため、かつてほど乳地蔵尊に母乳を祈願する人は少なくなってきています。それでも、乳地蔵尊は今も地域の人々に子供の健康や家族の幸福を願う場として、地域の人々に大切に信仰されています。
小さなお地蔵様と奇習
円照寺の地蔵堂には、もう一つ注目すべきお地蔵様があります。それが、縁側に祀られている小さなお地蔵様です。このお地蔵様にも独特な風習があり、今でも信者たちによって大切に守られています。その風習が「化粧を施す」というものです。
この風習は、もともとお地蔵様の胴体部分に刻まれたひび割れを隠すために始まりました。信者たちは、お地蔵様のひび割れを隠し守るために、おしろいや土を用いてお化粧を施すようになったのです。しかし、この行為は単なる修復にとどまらず、次第にお地蔵様をいたわり、いたわることで自身の健康を願うという信仰へと発展していきました。
特に下の病気に対して大きなご利益があると信じられており、今でも多くの参拝者がこの奇習を守り続けています。
乳地蔵のご縁日と行事
毎年8月23日は乳地蔵のご縁日として、多くの参拝者が圓照寺を訪れます。この日には、境内で盆踊りなどが行われ、地域の人々が集まり賑わいを見せます。母乳に悩む母親たちだけでなく、子供の健康や家庭の繁栄を願う家族がこの日を目指して参拝し、乳地蔵尊に祈りを捧げます。