「大熊寺(おおくまでら)」は愛媛県今治市日高地区に位置し、その起源は奈良時代にまで遡ります。寺伝によると、寺の創建は日本仏教界に大きな影響を与えた高僧、行基菩薩によるものとされています。行基菩薩は全国を巡りながら仏教の布教や社会事業を行い、各地に寺院を建立しました。大熊寺も、行基が当地を巡錫した際、村人たちの願いに応えて一体の仏像を刻み、小堂を建てて祀ったことがその始まりとされています。
寺伝によると行基菩薩が当地に巡錫の時・村人の願いで仏像を一体刻み小堂を建て此地にお祀りしたのがはじめである。
大熊寺の発展史
大熊寺は、江戸時代に大きな発展を遂げました。万治三年(1660年)には毘沙門堂が建立され、地域の守護神として崇められました。毘沙門堂には仏教の守護神である毘沙門天が祀られ、戦勝祈願や財運の守護として、地域の武士や商人たちから厚く信仰されていました。
また、寺には延享二年(1745年)や寛政六年(1794年)の棟札が残されており、「御鉾社 別当大熊寺」と記されています。御鉾社は、伊予国(現在の愛媛県)を拠点とする有力氏族である大祝氏の祖先を祀った神社で、かつて大祝氏が住んでいた大祝屋敷の守護神として祀られていました。
「別当」とは、神社に属しながらも仏教の儀式を行う僧侶のことで、神僧や社僧とも呼ばれました。この時代、神仏習合の影響により、神社と寺院が一体となり、地域の信仰を支える重要な役割を果たしていました。
大熊寺も、御鉾社の管理と仏教儀式を通じて、地域社会における精神的な支柱として機能していたと考えられます。
さらに、寺の伝承によれば、大熊寺は大祝氏のみならず、伊予国を拠点とした有力な武家である「河野氏」からも深い信仰を受けていたと伝えられています。
「大祝」という神職
「大祝(おおほうり)」という言葉は、古代から中世にかけての神社で高位の神職を指し、特に神事を取り仕切る役割を担っていました。大祝は地域や氏族の精神的な柱であり、神社の祭祀を主導する重要な存在でした。神職には「祝(ほうり)」「禰宜(ねぎ)」「宮司(ぐうじ)」といった役割があり、その中でも大祝は最も高位の役職でした。
例えば、日本で最古の神社の一つ、長野県の諏訪神社では「大祝」が神社全体の祭祀を統括していました。諏訪大社は、上社と下社に分かれており、その祭祀は大変独自の性質を持っています。
特に上社においての「大祝」は、神社の神職としてだけでなく、神様が人間界に降臨するための「依り代(よりしろ)」として崇められていました。つまり、大祝自身が神の化身として扱われ、社の祭神である「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の化身、すなわち「神そのもの」として信仰されていました。
大山祇神社と大祝の役割
伊予国一宮として、地域の中心的な神社であった「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)においても、「大祝」は重要な存在でした。
愛媛県大三島に鎮座する大山祇神社は、古代から神々を祀る信仰の中心地として栄えてきました。祭神である「大山祇命(おおやまづみのみこと)」は、日本神話において山や海を司る神とされ、古くから瀬戸内海の航海者や漁業者、農業従事者に深く信仰されてきました。また、全国の山岳信仰の中心でもあり、瀬戸内海の島々や沿岸地域からも多くの人々が参拝に訪れました。
伊予国(現:愛媛県)だけでなく瀬戸内海全域、さらには全国に影響を与える存在となりました。
宗教と軍事を統べた伊予の守護者「大祝氏」
大山祇神社の宗教的な権威を支えたのが、「大祝(おおほうり)」でした。大山祇神社における大祝は、伊予国一宮の神職として、非常に重要な存在であり、古代からこの地域を治めていた豪族「越智氏」の一族がこの役職を代々世襲していました。
越智氏族の中で、神社の神主さんのことはを「お祝(ほうり)さん」と呼んでいました。大山祇神社の普通の神主とは別格だったので、大の文字を付けて「大祝(おおほうり)さん」と呼んでいました。そして、大山祇神社を神主さんを代々務めていた家系は「大祝」を家名として名乗るようになり大祝家、大祝氏と呼ばれるようになりました。
当時、大山祇神社は単なる宗教施設ではなく、地域の政治的・経済的中心でもあったため、大祝は政治的な決定にも深く関与していました。地域社会における秩序の維持や、領地の管理、経済的発展にも貢献し、実質的な統治者としての地位を確立していたのです。
さらに神職として、地域の信仰と祭祀を取り仕切る一方で、戦時には水軍の指導者として活動するという特殊な立場にありました。これは、大山祇神社が航海や水軍の守護神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀っていたためで、そのトップである「大祝」は、宗教的な権威だけでなく、軍事的な指導力も求められめていたからです。
この中で大祝氏は、伊予水軍を率いる河野氏と深い繋がりを持つようになりました。この繋がりは単なる軍事的なものにとどまらず、両家は同じ祖先である「越智氏」を通じて血縁関係にあったため、その結びつきはとても強いものとなっていました。
大熊寺と「河野氏」
大熊寺は、伊予水軍を統率した有力な武士の一族である「河野氏(こうのし)」からも長年にわたり信仰を集めてきた寺院もあります。
河野氏の祖先である越智玉澄の父、越智守興(おちもりおき)は、天智天皇2年(663年)に起こった白村江の戦いで、伊予水軍を率いて出陣した武将です。白村江の戦いは、日本と唐・新羅連合軍との間で行われた大規模な戦いで、守興は日本側の軍船を指揮していました。
この戦いの後、守興は唐の武将の娘と結ばれ、二人の間に生まれたのが玉守と玉澄の兄弟です。この兄弟が、後に日本に帰国し、伊予国での越智氏の家督を継承しました。
玉澄は、兄の玉守と共に、日本に戻ってから伊予国風早郡(現在の愛媛県今治市周辺)の河野郷に居を構えました。
「河野」という姓は、この地理的特性に由来するとされています。伊予国は、瀬戸内海に面した地域であり、川や海に囲まれた自然豊かな環境が広がっています。この豊かな水源や川が、「河野」という名前の源となったと考えられています。
他の説では、越智氏が京(京都)から伊予国に下る途中、高縄山で水を補給するために降り立り、越智氏の一族が剣を地に立てたところ、不思議なことにその場所から豊かな水が湧き出し、この出来事に感動した越智氏が、その地の水の豊かさを称えて「河野」と名付けたといわれています。
いずれにせよ、「河野」という姓は、自然との密接な関係と地域の豊かな環境に由来していることが分かります。
越智氏の血脈が紡ぐ伊予の歴史と大熊寺
越智氏の血筋を引き継ぐ大祝氏も、河野氏と同じく越智玉澄の子である越智安久(おちやすひさ)を祖先としています。越智氏は、自分たちを神話の英雄である饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫だと主張しており、この神聖な血筋を背景に、地域の支配者としての正統性を神格化することで確立していました。
越智氏の勢力がさらに拡大したのは、越智玉興(たまおき)の時代です。玉興は、越智郡の最上位の長官職である大領に昇進し、伊予国(現在の愛媛県)での越智氏の支配力を大きく強化しました。玉興は政治的・軍事的な手腕に優れ、越智氏の影響力を拡大させ、伊予国における存在感を一層高めました。
その跡、玉興の子である玉澄(たまずみ)が越智氏の家系を継承し、伊予国における越智氏の影響力を強化しました。玉澄は、父から受け継いだ政治力と軍事力を背景に、地域社会における越智氏の権威を維持し続けました。
そして、玉澄の子が越智安元(やすもと)になります。安元は、伊予国における信仰の中心地である三島大社(みしまたいしゃ)、現在の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の初代大祝(おおほうり)となりました。
安元がこの役職に就いたことで、越智氏の宗教的な力も強化され、伊予国における支配が単なる軍事力にとどまらず、宗教的権威を伴ったものとなりました。これにより、越智氏は地域の統治者としての正統性をさらに高め、大祝氏と呼ばれるようになりました。
このように、両家はそれぞれ異なる役割を担いながらも、血縁を基盤にして協力し、伊予国における政治的・軍事的、そして宗教的な安定を支える重要な存在となりました。また、この両家は大熊寺との関わりが深かったとされています。
大祝屋敷の歴史
大祝屋敷の歴史は、南北朝時代(1336年~1392年)。もともと大祝家は「別名(べつみょう)」と呼ばれる地域を拠点とし、神聖な場所である三島大社(現在の大山祇神社)の祭礼を取り仕切る重要な役割を担っていましが、大祝氏の大祝安世(おおほうりやすよ・越智貞実)が、この時代に大祝家の分家を立て、この地に屋敷を構えたことが始まりです。
安世が大祝職に就任した元弘2年(1332年)は、鎌倉幕府が崩壊し、日本全国が内乱の時代に突入していく時期でした。翌年の1333年には、鎌倉幕府が倒れ、以後の南北朝時代(1336年~1392年)には、皇室や武家が南朝と北朝に分かれて抗争を繰り広げました。
大祝職は、宗教的な指導者として神社の祭祀を行う重要な役職でしたが、わずか4年後に大祝職を息子の安頭(やすかしら)に譲りました。これは、後に室町幕府を開くことになる利尊氏の要請を受け、武将として一族を率いて戦に参加するためでした。
天正年間(1573年~1592年)になると、大祝家の宗家の長男である安任(やすとう)が、分家である島生の大祝家に婿入りすることで、再び両家は一つになりました。
江戸時代に入ると、社会の安定とともに領主の権限が強化され、地域の豪族や寺社に対しても厳しい統制が行われました。この流れの中で、延宝3年(1675年)に、大祝家は、今治藩主から大山祇神社の本拠地でもある大三島への移住を命じられることとなりました。
この頃までにはこの地域では、広さ7反(約7,000平方メートル)ほどの土地が「昔、元弘・建武の時代(14世紀初頭)に烏生又三郎貞実(越智貞実)が住んでいた」と伝えられていました。この場所は「鳥生屋敷跡(愛媛県今治市祇園町2丁目3−22)」として残っています。
御鉾社の今
御鉾社は現在の鳥生公民館がある場所に存在していました。裏手には大祝墓地があり、この地域は大祝家にとって特別な場所でした。
しかし、明治39年(1906年)に政府の神社統合政策である神社合祀令が実施され、現在の祇園神社(愛媛県今治市祇園町1丁目1)の境内に移されることになりました。
神社合祀令は、明治政府が神道を国家の中心的な宗教として再編成するために、多くの小規模な神社を統合する政策でした。これにより、多くの地方の小さな神社が閉鎖されたり、より大きな神社に合祀されたりしました。御鉾社も例外ではなく、地域に密着した信仰の場であったものの、合祀令により、祇園神社の一部としてその役割を引き継がれることになりました。
樹齢約300年「藤の名所」
大熊寺は、今治市で藤の名所として知られており、毎年5月の連休には「藤まつり」が開催されます。市の天然記念物に指定されている樹齢約300年のノダフジは、この祭りの主役で、幹の太さは周囲約80cm、藤棚は200平方メートルに広がり、訪れる人々を圧倒します。花房は60cmから70cmもの長さに伸び、見事な景観を作り出すこの藤は、まるで紫色のカーテンが垂れ下がっているかのようです。
藤まつりの期間中、大熊寺の静寂な境内は、紫色の花房と心地よい香りで満たされ、まるで別世界にいるかのような感覚に浸れます。ノダフジの壮麗な景観は、今治の春を祝うシンボルであり、多くの人々にとって特別な思い出となるでしょう。
この季節にしか見られない大熊寺の藤の美しさを、ぜひ一度訪れてみてください。