日高地区高橋の権現山(ごんげんやま)に鎮座する「大須伎神社(おおすぎじんじゃ)歴史は非常に古く、聖徳太子(厩戸皇子)が推古天皇4年(596年)に自ら筆をとって「神名額(しんめいがく)」を奉納した記録が残されています。
神名額(しんめいがく)は、神社の本殿や拝殿に掲げられる額で、神社に祀られている神の名前や由緒を記すもので、神社にとって非常に重要なものです。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として政治を担い、日本に仏教を広めた立役者でしたが、同時に日本の古来の宗教である神道にも深い敬意を抱いていました。
聖徳太子が仏教を国家の教えとして広めようとした背景には、日本の安定と繁栄を願う思いがありました。仏教の教えは、倫理や道徳に基づく社会秩序を強化し、国家の統治に役立つものとして受け入れられました。しかし、仏教の導入にあたって、日本に古くから根付いていた神道を排除することはありませんでした。
神道は自然崇拝や祖先の霊を敬う信仰に基づき、日本人の生活に深く根ざしたものでした。聖徳太子は、その重要性を理解し、神道を尊重しながら仏教を普及させていきました。
大須伎神社に奉納された神名額は、その象徴的な一例といえます。
神名額を奉納するという行為は、神社に対する尊敬と信仰の表明であり、特に高位の人物が行う場合、その価値はさらに高まります。聖徳太子が行ったこの奉納は、仏教と神道の調和を意識し、両者の共存を願ったものでした。この姿勢は、後に広まる仏教と神道が互いに影響を与えながら共存する「神仏習合」の基礎を築いたとされています。
聖徳太子の伝承
伝承によると、同年(596年)に聖徳太子に伊予国を訪れて、松山の道後温泉に立ち寄ったとされています。道後温泉は「神の井」として霊妙な効能があるとされており、聖徳太子はその美しさと力に感動し、碑文を刻んで湯の岡に建てたという話が伝えられています。この逸話は『伊予国風土記』に残されており、地元の歴史書や『愛媛県史』でも輝かしい史実または伝承として扱われています。
聖徳太子が実在したかどうかについては、学者の間で今なお議論が続いています。しかし、伝承が真実であったとすれば、聖徳太子は道後温泉に向かう途中、または帰っている途中に大須伎神社に立ち寄ったと考えられます。
聖徳太子の帰路についても、今治市の大島にある「高龍寺(こうりゅうじ)」に興味深い伝承が残されています。
大島は、現在の「しまなみ海道」の今治から出発すると最初の島で、間の海域(来島海峡)は古くから海路の要所でありながら、潮の流れが複雑かつ速いため、航海の難所として知られていました。
その日、船で帰路につく聖徳太子は来島海峡の能島の辺りで、突然のシケ(嵐)に襲われてしまいました。命の危機の中で、聖徳太子は救いを求めて祈りました。すると、亀の背に乗った千手観音が現れ、船を安全な入り江「千石の港(現津倉港)」にまで導いてくれたといいます。
この救済に深く感謝した聖徳太子は、伊予国守であった小千勝海に命じて、高麗僧恵慈を開山とし、法興7年(597年)に「大亀山慈眼堂舟守院龍慶寺」を建立させたと言われています。この寺は、後に高龍寺と呼ばれるようになり、地域の人々から信仰を集めるようになりました。
また、今治の風早町にある「常高寺」にも、聖徳太子にまつわる伝承が残っており、この寺の御本尊の阿弥陀如来像が聖徳太子自ら彫ったものとされています。
ただし、これらはあくまで伝承ではあるあめ、聖徳太子自体が本当の実在したかどうかについても学者の間で意見が分かれています。
多くの伝承や史料が聖徳太子の存在をしさしていますが、その一部は後世の作り話である可能性も指摘されています。しかし、聖徳太子に関するこのような伝承が残っていることは、当時から非常に重要な人物であり、神社や寺院をはじめとする日本の宗教文化に大きな影響を与えたことを示しています。
延喜式神名帳にも記載
その後、醍醐天皇の勅命により、大須伎神社には毎年、朝廷から幣帛(へいはく)が奉られることが定められ、神社はさらに重要な神社として認められました。幣帛は、祭祀において神に捧げる布や供物を指し、国家が正式に神社に供えるものです。これは、大須伎神社が名神(特に尊い神社)として格別の信仰を集めていた証です。
実際に、大須伎神社は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にその名前が載せられています。この神名帳は、当時の朝廷が全国の重要な神社を記録したものであり、全国で2861社が記載されています。
『延喜式神名帳』に載せられた神社は、当時「官社」として指定され、国家による祭祀を行う特権を持っていました。神社は地域における宗教的中心であり、朝廷や皇族からの信仰を集める格式の高い場所とされていたのです。大須伎神社もこの式内社(しきないしゃ)の一つとして記載されており、平安時代にはすでに非常に重要な神社であったことの裏付けとなっています。
また、愛媛県内には24社の式内社があり、そのうちの7社が今治の越智地区に存在していることから、この地域の宗教的、文化的な重要性もうかがえます。大須伎神社はその中でも特に参拝者が多く、古くから地域の信仰の中心地であったことがわかります。
「正三位 大次大明神」としての大須伎神社
かつて大須伎神社は、「正三位 大次大明神」としても広く知られていました。「正三位」とは、神社や神が受ける社格や神階を表す称号の一つです。平安時代から、朝廷は神社の格式や神威を認め、その位階を定めていました。正三位は神階の中でも非常に高位にあたるもので、大須伎神社がいかに重要視されていたかを示すものです。
「大次大明神」は、この神社の主祭神であり、地域を守護する存在として崇敬されてきました。大次大明神は、地域の災いを防ぎ、豊穣や繁栄をもたらす神として長く信仰されており、地域社会の安定と発展に深く結びついていました。
大須伎神社の歴史と神社合祀の影響
元々、大須伎神社は現在の「高橋児童公園」(愛媛県今治市高橋177-3)の場所に鎮座していました。社名は、この場所に大きな木々が繁茂していたことに由来すると伝えられています。
古代から続くこの神社は地域に深く根付いていたものの、蒼社川の度重なる氾濫によって、社殿が何度も流出してしまいました。特に、延喜16年(916年)、寛弘8年(1011年)、承久2年(1220年)、正長元年(1428年)の洪水被害は深刻で、そのたびに神社は再建を余儀なくされてきました。
また戦乱によって荒廃したため、長い歴史の中で由緒や祭神などが不詳となるほど衰微していきました。
神社の規模はどんどん縮小し、やがて小さな本殿がひっそりと残るのみとなり、貞享2年(1685)年の「今治領寺社明細言上」には伊予熊野権現や、高橋村の氏神である小林八幡宮の格下(末社)として明記されるまでになりました。
その後も、蒼社川の氾濫による洪水被害が繰り返される中で、神社の存続自体が危ぶまれるようになっていきました。
そこで、より安全な場所への移転が考慮され、最終的に現在の場所に社殿を移すことが決定しました。この移転先は、初代今治藩主・松平定房(まつだいら さだのぶ)公以来、歴代藩主が祈願所として大切にしてきた「伊予熊権現(伊予熊野神社)」が鎮座していた場所です。この場所は信仰的にも重要であり、地域の歴史とも深く結びついていたため、移転先としてふさわしいと判断されたのです。
この移転に加え、明治時代の神社合祀政策の影響も考えれます。明治33年(1900年)、内務省神社局が設置され、政府の主導で小規模な神社や無格社を整理統合する方針が打ち出されました。この神社合祀の目的は、財政的な効率化とともに、神社管理の中央集権化を図るものであり、府県社や郷村社に対して神饌幣帛料を供進できる体制を整えることにありました。この政策は全国的に多くの神社に影響を与え、愛媛県内でも複数の神社が統合されました。
大須伎神社も、明治44年(1911年)のこの合祀政策の一環として、近隣の重要な神社であった伊予熊権現や、国司玉純公から崇敬を受けていた小林八幡神社を合祀しました。これにより、複数の神社が一つの場所に集められ、現在の「大須伎神社」として再編されました。
「河上安固の腰掛け石」
大須伎神社の参道には、地元で霊石とされている「河上安固(かわかみ やすかた)の腰掛岩」があります。この石には、今治の治水に大きく貢献した人物である河上安固にまつわる伝説が残っています。
河上安固(かわかみやすかた)は、江戸時代中期の宝暦年間(1751年頃)に活躍した今治藩の治水担当者です。安固が治水を行った蒼社川は、昔、今治市を流れており、特に大雨や台風が襲うたびに川の流れが変わり、洪水を引き起こす「暴れ川」として知られていました。蒼社川の度重なる氾濫は、農地や家屋を破壊し、農民たちにとって大きな悩みの種でした。
この問題を解決するため、今治藩の5代藩主である定郷公は、蒼社川の治水工事を指揮する人物として河上安固を任命しました。安固は治水にあたって慎重に現地の状況を調査し、どのように川の流れを制御すべきかを判断するために、毎晩権現山に登りました。そして、この権現山の上にある「腰掛岩」に腰を下ろし、川の流れの方向や水勢の強弱、地形などを綿密に観察して、川筋を変える大規模な治水工事を藩に提案しました。
そしてその最高責任者に任命された安固は、川の流れを制御するために、川底を掘り下げ、流れを安定させる土木工事を行い、見事に蒼社川の氾濫を防ぐことに成功しました。この偉業により、安固は今治の人々から敬われその名前は今でも語り継がれています。安固の墓は今治市鳥生(愛媛県今治市祇園町2丁目3−47)にあり、地元の人々によって大切にされています。
稲荷神社の御由緒
権現山の頂上にある「稲荷神社」も、大須伎神社と同じく歴史的にも非常に由緒ある神社です。この神社は、慶長年間に藤堂高虎侯が、山城国伏見稲荷神社を勧請して創建されたものです。
藤堂高虎侯が今治城を築城した際、稲荷神社の御神霊を城内に祀るため、荘厳かつ壮麗な社殿を建てました。この社殿は非常に大規模で、数間にわたる美しい建築として知られていました。しかし、藤堂高虎が他の領地へ国替えを命じられたため、稲荷神社も今治城内にそのまま残されることとなりました。
その後、初代の今治藩主となった久松定房侯が城主となると、稲荷神社への信仰を特に厚く持っていました。定房侯は、寛文10年(1670年)に「伊予熊野神社」の再興を行った際に、稲荷神社の社殿も建て直し、城内にあった稲荷神社の御神霊を現在の場所に遷しました。
この稲荷神社は代々の藩主たちにより、深く信仰され続け、毎年2月の初午祭と11月の例祭の際には、近臣を使者として派遣し、藩主の代わりに拝礼させることが習わしとなっていました。また、藩主自身も毎年一度はこの稲荷神社に参拝し、幣帛(へいはく)を奉納するなど、厚く敬意を示していました。
「雨乞い石」
稲荷神社には雨乞い石と名付けられた神聖な石があります。
雨乞い石は、古代から村民の信仰を集めた特別な場所です。長期間の干ばつが続いた際、村民たちはこの石の周りに集まり、雨乞いの祈祷を行っていました。その時、不思議なことにこの石が潤い、石のくぼみに水滴ができたと伝えられています。その後、必ず大雨が降り、村に恵みの雨をもたらしたという伝説が残っています。村民たちにとって、腰掛け石は神聖な存在であり、自然の力とつながる象徴的な場所であったことがわかります。
伝説の「御宝松」
稲荷神社には、かつて「御宝松」と名付けられた樹齢100年を超える老松がありました。この松は、村民にとって特別な存在であり、神聖な木として崇められていました。伝承によると、松を伐採しようとした際、一羽の鳥が飛来し、その鳴き声によって伐採を止めさせたとされています。この出来事をきっかけに、村民たちはこの松を「御宝松」と呼び、神木として崇敬するようになりました。
やがて、御宝松は長い年月を経て枯れてしまいましたが、鳥が松に止まった様子を描いた絵が神社の宝物として大切にされていました。しかし、昭和20年の戦災により、宝物庫が焼失し、この絵も失われてしまいました。その後、二代目の松が植えられましたが、松食い虫の被害を受け、枯れてしまいました。
現在では、新たに植えられた松がその跡を継ぎ、御宝松にまつわる伝承や信仰の伝統が受け継がれています。御宝松の歴史とその神秘的な出来事は、地域の人々にとって重要な記憶として今も語り継がれています。