「明比城主神社(あけびじょうしゅじんじゃ)」は、波方の樋ノ口にある半島四国八十八箇所の「延命地蔵」や「地蔵菩薩」が祀られている大平池(前池)のすぐそばにある片上砦跡に鎮座しています。
片上砦は、16世紀に来島村上氏が波方浦に拠点を移し、村上水軍の防衛拠点として築いた波方城砦群の一つです。波方城砦群には、片上砦をはじめとして、西浦砦、龍神鼻砦、弁天島砦などが含まれており、それぞれの砦が周辺地域の防御や海上交通の監視に重要な役割を果たしていました
大平池の奥川の地名が「マトデ」と名付けられていたことから、片上砦では当時の武士たちが弓の練習をしていたと考えられています。
明比城主神社の詳細な歴史や創建については、記録が少なく、今のところ不明な点が多く残されています。しかし、神社内に記された内容によれば、明比城主神社は、明比家の大御先祖様を祀る神聖な場所とされ、明比家の大御先祖様として「春実公」と記されており、さらに、初代大名「種直公」、そして二十四代大名「信種公」と3人の名前が書かれています。
この3人は、大和朝廷において官物を納める蔵を管轄していた「大蔵氏」を祖とする大蔵姓原田家一族の「大倉春実」「原田種直」「原田信種」だ「大倉春実」「原田種直」「原田信種」だと考えられます。
さらに、神社の中には訪れる人々に向けた厳かな警告文も掲示されています。その内容には、明比家の先祖を敬い信仰することで幸せを手に入れられるという教えが記されており、次のような強い警告が添えられています。
「先ほどの将軍や大名の方々を信仰すれば、あなた方は幸せになります。しかし、無礼を働く者には天罰が下り、5年以内に不幸な出来事が起こるでしょう。決して疑ってはなりません」
この警告文は、明比家の先祖に対する敬意を払うことの重要性を強調しており、その教えを無視したり軽んじたりした者には厳しい罰が下るという厳粛な内容です。また、最後には、さらなる強い念押しの言葉が続きます。
「ここに記すのは、もし明比城神社や明比家のご先祖に無礼な行為をした場合、皆様が天罰を受けるかもしれないということを、念のためお知らせいたします」
最後にこの文を記した人物として、「武道師範 明比治郎右エ門」という名前が記述されています。この人物は明比家の武道における師範であり、この神社と明比家の歴史を守るために、厳格な教えを遺した人物であったのではないか?と考えられます。
一方で、明比氏が片上砦との関係についても現在のところわかっていませんが、「大倉春実」「原田種直」「原田信種」について説明します。
「大倉春実」平安の武人で藤原純友の乱の鎮圧者
「大蔵 春実(おおくら の はるざね)」は、平安時代中期に活躍した貴族で、「藤原純友の乱(935年)」の鎮圧にあたった人物です。春実は、士族である大蔵氏の一族で、父は官人「大蔵常直(おおくら の ひろかつ)」、母は貴族で歌人でもある「藤原敏行(ふじわら の としゆき)」の娘であったと伝えられています。
後に、参議である小野好古(おの の よしふる)の娘を妻とし、九州北部にある大宰府で官職にも就きました。軍事的にも優れた能力を発揮し、朝廷のために大きな貢献をしました。
939年、日本は二つの大規模な反乱「平将門の乱」と「藤原純友の乱」によって大きく揺れました。藤原純友の乱は、愛媛県宇和島にある日振島を拠点に、藤原純友が瀬戸内海全域から豊後水道を掌握し、朝廷に反旗を翻したものです。
この乱を鎮圧するために、朝廷は「追捕山陽南海両道凶賊使」という「追捕使(ついぶし)」の役職を任命しました。この役職は、反乱を起こした者や海賊を取り締まるために、一時的に設置された軍事指導者です。活動範囲は、瀬戸内海やその周辺地域で、特に海賊行為や反乱を鎮圧するために設けられたものでした。春実もその中の一員として、鎮圧活動に従事することになりました。
941年、春実は追捕使の長官であった小野好古とともに、西国へ派遣され、藤原純友の軍と激しく戦います。そして、現在の福岡市にあたる博多津での戦いで、春実が率いた討伐軍は純友軍の艦隊800余艘を奪取するという大勝利を収めました。
一方、この戦で惨敗した純友は故郷の伊予へと逃れましたが、後に潜伏先で捕らえられ、獄中で亡くなったとされえています、。
この功績により、春実は従五位下に叙され、対馬国の行政を司り、さらに大宰府で軍事や警察を統括する役職である「対馬守兼大宰大監」という重要な職に任命されました。
960年には、平将門の残党が京都に侵入するという噂が広がった際、再び武士団を率い、都を防衛するための警備にあたりました。この行動は、官職の枠を超えて武士団を動員した初の事例とされ、後の武士社会の成立に大きな影響を与えたと考えられます。
春実の子孫は九州に定着し、大宰府の「府官」として役職を世襲しました。府官は、主に九州地方の有力豪族や地元の権力者が任命される役職であり、春実の家系は代々この地で影響力を持ち続けました。
大蔵春実の子孫は、自身が活躍した九州に定住し、大宰府で「府官」としての役職を代々世襲しました。府官とは、大宰府の行政や軍事を担当する役人で、特に九州地方の有力豪族や地元の有力者が任命されることが多かった役職です。大宰府は九州全域の行政を統括していたため、府官としての役割は非常に重要でした。
春実の家系は、この府官としての地位を代々受け継ぎながら、次第に武士化していきました。当時、地方の豪族たちは武力を持ち、自らの領地を守るために武士化する傾向が強まりつつありました。大蔵氏の子孫も例外ではなく、武士階級としての地位を確立し、後の日本の武士社会においても重要な役割を果たしました。
「原田種直」平家として戦った武士
原田種直(はらだ たねなお)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将、華麗な一族である大蔵氏の正統な継承者です。種直は、大蔵春実の子孫にあたり、九州地方で大蔵家が築きあげた名声と遺産を引き継ぎました。
種直は、保元の乱以降、九州地方の大宰府で要職に就き、平清盛・平頼盛といった平家と私的な主従関係を築きました。種直は平清盛の長男・重盛の養女を妻に迎え、大宰府における平家政権の代行者として重要な役割を果たしました。また、日宋貿易に関わり、平家政権の経済基盤を支える存在でもありました。
治承3年(1179年)の平家による政変では、郎党を率いて御所の警護を担当するなど、平家の軍事力の中核としても活動しました。治承5年(1181年)の九州における反乱鎮圧にも参加し、肥後の菊池隆直と戦いました。
種直にとって、人生の大きな転機となったのが、1180年から1185年にかけての「源平合戦」です。平家側として参戦した種直でしたが、戦況は次第に不利になり、ついには1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が壊滅的な敗北を喫し、これを引き金に平家は滅亡。戦いの中で、種直の弟である敦種は討ち死にしてしまいました。
種直はそれでも抵抗しましたが、源氏側の将軍である源範頼が率いる軍に敗れてしまいました。この敗北により、種直の領地は「平家没官領」として領地が取り上げられ、源氏側に渡されてしまいました。
種直は関東に幽閉され、これによってこれまでの地位を失い、大きな挫折を経験しました。
平家側にいた武士たちの一部は、平家滅亡後、追討を避けるため、隠れ里や山間の村にひっそりと暮らすようになりました。この人々は「平家の落人(へいけのおちうど)」と呼ばれています、落人(落武者)は後世にその伝説や物語が数多く残されています。
「原田信種」筑前高祖城の武将
原田信種(はらだ のぶたね)は、安土桃山時代に活躍した武将であり、大名でもありました。大蔵氏の嫡流である原田氏の第80代当主として、筑前高祖山城(高祖城)の城主として知られています。通称は「五郎」、また「下総守」とも称され、二人の息子、嘉種と種房がいます。
信種の実父は肥前松浦の草野鎮永(宗揚)で、草野家は当時、龍造寺氏に従属していました。永禄11年(1568年)頃、信種は佐賀に人質として送られますが、草野家に後継者がいなかったため、原田了栄(隆種)に養嗣子として迎え入れられ、再び原田姓を名乗ることとなります。元服の際、龍造寺隆信から「信」の字を受け、「信種」と名乗るようになりました。
龍造寺氏の家臣として、信種は多くの戦いに参加しています。天正10年(1582年)には、筑前西部の早良郡へ勢力を広げ、那珂郡に侵攻しましたが、立花道雪率いる大友軍によって砦を破壊され、苦戦を強いられました。
祖父・了栄の重臣たちに頼らず、実父の草野宗揚を後見役にしたことが家臣団の不満を招き、家中で分裂が生じます。この状況に乗じた岸岳城主の波多親が領土を侵略しようとしましたが、信種はこれに反撃し、鹿家合戦で波多親を撃退しました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による九州停戦命令に従い、一時的に島津氏に従属します。しかし、天正14年(1586年)の九州征伐で秀吉軍が筑前に上陸すると、信種は投降を拒否しましたが、最終的には戦わずして降伏し、高祖城は破却されます。
その後、秀吉に赦免されたものの、領地申告で過少申告が発覚し、所領を没収されました。信種は肥後の加藤清正に仕え、朝鮮出兵にも参加しています。慶長3年(1598年)の第二次蔚山城の戦いで戦死したとも伝えられますが、信種の死没時期については諸説あります。
また、信種が朝鮮に降将として渡り、「沙也可(後の金忠善)」として日本軍と戦ったという伝説もありますが、これは史料から否定されています。
明比城神社の謎を追う
源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦いで、平家は源氏に敗北し、数多くの武将が討ち死にしましたが、平家の武将たちが密かに逃れ、落ち延びたという「落人伝説」が西日本各地に数多く伝わっています。
四国地方にも、この伝説は多く残されており、四国山地の山奥には、合戦後に逃げ延びた平家の落ち武者の子孫を名乗る家がいくつもあります。例えば、阿波(徳島)の阿佐家、土佐(高知)の門脇や小松という性は、平家の落人の代表例として知られています。
今治でも、「自分の家は平家の落人を先祖にもっているので鯉のぼりをあげない」という話を、子どもの頃に聞いたことがあるという人もいます。
このように、落人たちは平家の敗北後もひっそりと生活を続け、祖先に敬意を払いながら代々その物語を語り継いできました。
であるなら、原田種直を祖とする大蔵姓原田家の一族も、性を変えて四国地方に逃れていた可能性が十分考えられます。
つまり種直の一族が、瀬戸内海を渡り、現在の今治市波方の地に密かに住み始め、性を変えて暮らしていたのではないでしょうか?そして、先祖の英霊に敬意を表して、神社を建立し、明比城主神社としてひっそりとこの地に祀ったのではないでしょうか?
「明比(あけひ)」という姓は、全国的に見ても特に愛媛県に多く見られ、特に今治市の越智郡(島嶼部)では多くの明比姓の家系が存在しています。郷土史の歴史家である明比学氏の研究によると、明比家は今治市大三島町明日(あけび)を発祥の地とし、後に波方町や西条市中野に分派した武将の一族であったとされています。現在でも、明比姓を名乗る一族が多く住み、その周辺には砦や城跡などの遺構が残っており、これが一族の歴史を物語っています。
西条市には「明比神社(あけひじんじゃ)」があり、ここでは天正13年(1585年)の「天正の陣」で小早川隆景率いる豊臣軍と戦い、討ち死にした明比善兵衛家茂が祀られています。家茂は、石川氏の家臣であり高峠城の城主の家に仕えていた人物です。
一方、「明比城主神社(あけびじんじゃ)」も同様に先祖の英霊を祀っていますが、こちらで祀られているのは「大蔵姓原田家の一族」と考えられます。
このことから、明比神社と明比城主神社が祀る「明比」は異なる家系であるか、あるいは歴史の中で何らかの血縁関係を持つようになった可能性もあります。もしかすると、大蔵姓原田家一族がこの地に移り住み、後に明比家と血縁を結び、姓を明比に変えたということも考えられます。
ただし、これらはあくまで仮説であって真相は不明です。明比城の存在と片上砦跡の関係についても、現在のところ明確な記録はなく、歴史の謎の一つとして残されています。
それでも、このような歴史的背景に思いを馳せると、過去の時代を生きた人々の物語や伝承には、ロマンを感じずにはいられません。今も残る「明比」という姓や地名が、そうした伝説を現代に伝えているのかもしれません。