波止方に鎮座する「龍神社(りゅうじんじゃ)」は、江戸時代の天和年間(1681年~1684年)に創設された、地域の繁栄を願う神社です。
全国にある「龍神社」
龍神社自体は、日本全国の様々な場所に建立されており、そこに祀られている龍神は、地球を守護し、天地を自在に動き回って「流れ」を生み出す超越的な存在とされています。龍神は、気象や海流を司り、自然界の調和を保つ役割を果たす神として崇められています。
龍神信仰は元々は古代中国から伝来したもので、日本でも広く受け入れられました。龍は中国では権力の象徴とされ、日本においては自然崇拝と伝統的な神道が結びついた形で信仰されるようになりました。
特に水の神として、海や川、湖などの水辺に関連づけられており、地域の水源確保や農業・漁業の繁栄を願う神として重要視されています。ここ瀬戸内海に面した海事都市である今治市にも多くの龍神社があり、その中の一つが波止浜の龍神社です。
波止浜の由来は「塩田」
龍神社の創設には、この時代の塩田プロジェクトと深い関わりがあります。
波止浜地域は、もともと波方村(現:波方町)の一部でしたが、塩田が広がりを見せるにつれ、独立した地域として発展していきました。
「波止浜」という名前の由来も塩田が深く関わっており、町場を「波止町(はしまち)」、塩田を「浜(はま)」と呼んだことからきています、
塩田によって独立を果たした波止浜村
塩田は、海水を田のような平坦な土地に引き入れて蒸発させ、塩を作る方法です。
瀬戸内海沿岸は、穏やかな気候と広い干潟があるため、塩田に適していました。波止浜もこの地の条件を活かし、江戸時代には塩の生産が始まりました。
江戸時代、塩は保存食の製造や調味料として必要不可欠なもので、非常に価値がありました。そのため、波止浜の塩田で生産された塩も、その高い需要に応えて全国に流通していき、この地域は塩の生産地として栄えることとなりました。
一方で、塩田での作業は過酷なものでした。夏の炎天下で塩を作るために海水を何度も引き入れ、蒸発させる作業はかなり肉体労働で、多くの人手も必要でした。
この仕事に従事したのが地元の労働者で、敬意を込めて「潮止(しおどめ)さん」と呼ばれていました。彼らは、塩田に海水を引き入れるための堤防を管理し、海水の流れを調整する重要な役割を担っていました。
潮止さんたちの働きによって、波止浜の塩田は維持され、高品質の塩を生産し続けることができたのです。
塩田産業が成長するにつれて、波止浜も発展しました。役場には「年寄(としより)」という地域の自治を担当する役人が置かれ、浜には「庄屋」が設けられて、地域全体が塩田を中心に自治組織としてまとまりました。
塩田産業を基盤に、独立した村としての力をつけた波止浜は、明治13年(1880年)に波方村から正式に分村し、波止浜村として自立しました。
その後、明治22年(1889年)に町村制が施行され、周辺の杣田村、高部村、来島村と統合されて新たに波止浜村が誕生しました。明治41年(1908年)に町制を敷き、「波止浜町」が誕生しました。
その間も、塩田産業は波止浜の経済を支え、多くの家族が塩田で働くことで生計を立てていました。この頃には、波止浜は瀬戸内海有数の塩生産地としてその名を知られるようになっていました。
塩田産業の終焉
しかし、昭和30年代に入ると、世界的な経済の変化が波止浜の塩田産業に影響を及ぼし始めました。
外国から安価な塩が大量に輸入されるようになったことや、技術革新による国内での塩の生産過剰が原因で、塩の価格が低下し、塩田産業は次第に経済的に厳しくなっていったのです。
波止浜も例外ではなく、塩の生産コストが輸入塩と比べて高くなり、利益を上げることが難しくなっていったのです。
さらに、日本政府は国内の塩の供給過多を抑えるため、1959年から1960年にかけて「塩業整備臨時措置法」に基づく第3次塩業整備を実施しました。この措置により、多くの塩田が姿を消していき、波止浜の塩田もその歴史に幕を閉じることとなりました。
そして長い間、地域の経済と生活を支えてきた塩田がなくなるとともに、波止浜塩業組合も解散しました。
現在では塩田時代の面影はほとんどなくなりましたが、塩田に関連する「内堀」や「地堀」といった地名は残っています。塩田作りのために作られた堤防の上には、国道317号線が通り、今も地域経済を支えています。
塩田産業を祈願する神社が必要
ここまでが波止浜の塩田の歴史ですが、この歴史の中で龍神社が創建されることになります。
時代は塩が生活の必需品だった江戸時代、波止浜の塩田産業が始まる前にまでさかのぼります。
この当時、波止浜は松山藩に属しており、港周辺の広がる入り江は「筥潟(はこがた)」と呼ばれ、遠浅の干潟が広がる地域でした。この干潟は、塩作りに非常に適した場所でした。
波止浜で初めて塩田の可能性を見出したのが、後に波止浜塩田の開祖と呼ばれる事になる「長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ」です。
代々松山藩に仕えていた長谷部家の長男として生また九兵衛は、地元の塩田産業で波止浜を発展させようと決意し、塩の名産地として知られていた広島県竹原に製塩法を学びに赴きました。しかし、当時の封建社会では、藩の重要機密である製塩技術は門外不出の秘密とされ、他藩の者がその技術を知ることは厳しく禁じられていました。
そこで九兵衛は乞食(こじき)になって、日雇い労働者としてそこに潜入することにしました。そして、過酷な重労働に耐えながらも製塩技術を学び、密かに絵図などでメモをとって、知識と技術を身に付けて地元に戻ってきました。
九兵衛の情熱と技術を目の当たりにした、松山藩は塩田開発を支援することを決め、九兵衛は浦手役(うらてやく)に任命され、塩田プロジェクトに携わることになりました。
当時、郡奉行兼代官を務めていた園田藤太夫成連(そのだ とうだゆう なりつら)も、この塩田プロジェクトが地元(波止浜)の繁栄に貢献すると信じ、積極的に開発に取り組みました。
この塩田プロジェクトが進んでいく中で、九兵衛と園田藤太夫は、工事の成功と地域の繁栄を祈願する神社が必要だと考えました。
そこで、現在の波止浜港を見下ろす小高い丘の上、塩田と町をつなぐ入り口にあたる場所に、地元で信仰されていた水と土地を守る神々を祀ることにしました。この神々は、遠く近江国勢田郷(現在の滋賀県)から勧請され、「八大籠神宮」として塩田の鎮守神としての役割を担うこととなりました。
龍神は、自然界の調和や気象、海流を司る神として崇められており、特に水に関連する神として日本各地で信仰されており、塩田の成功を祈願するには最適な神であると考えられたのです。
そして、これが「龍神社・波止方」の始まりです。
塩田建設の最大の難関「堤防建設」
塩田建設の工事は順調に進んでいましたが、特に難航したのは堤防の建設でした。波止浜の堤防は、龍神社の建設地である宮ノ下から築き始め、もう一方は金子(かねこ)側から築いていきました。
両側からの工事が合流する最後の箇所は特に難しくで、当時の技術では非常に大きな挑戦だったと伝えられています。干潮時という短く限られた時間の中での工事だったため、実に1083人もの労働者が動員されました。
そして、天和3年(1683年)に南北270間(約491メートル)にも及ぶ巨大な堤防が完成しました。これは、愛媛県で初めての、潮の干満差を利用して自動的に海水を塩浜に導入する「入浜式塩田施設」の誕生でもありました。
龍神社の社殿が完成
天和3年(1683年)、塩田が完成したその年、まるでその誕生を祝うかのように「龍神社」の社殿も完成し、御神体が本殿へと移されました。それから35年後の1718年には再建が行われ、これが現在にも続く社殿の姿が形成されました。
その後、時代と共に神社の名前も変わっていきます。
安永6年(1777年)には、「八大籠神宮」の「八大」の2字が仏号であるとして除かれ、「龍神宮」と呼ばれるようになりました。そして、明治6年(1873年)に現在の神社名「龍神社」に改称されました。
昭和15年(1940年)には「郷社」に昇格しました。この「郷社」の地位は、地域に深く根付いた神社に与えられる名誉ある称号であり、龍神社が地域社会にとってどれほど重要であったかの証明になりました。
市の天然記念物「ウバメガシ」
龍神社を囲む約50本のウバメガシの古木は、特にこの地域では珍しいもので、その美しい樹林は今治市の天然記念物に指定されています。ウバメガシは耐塩性が強く、海に面する波止浜の環境にもよく適応しており、塩分の影響を受けにくい樹種です。
また、この木々は乾燥や公害にも強く、非常に丈夫な性質を持っています。ウバメガシの樹林は、横本、アベマギ、黒松など他の樹木と共に成長しており、これらの木々が一体となって龍神社の周りに自然の美しい景観を形成しています。
龍神社のウバメガシがこれだけの大群を成して生育しているのは東予地域では非常に珍しく、その存在は地域の文化と自然を守るシンボルとなっています。これらの樹木が長年にわたって成長してきた背景には、龍神社自体の重要性が深く関わっており、神社を取り巻く自然環境と信仰の融合が、波止浜の人々にとって大きな意義を持っています。
「神明神社」
龍神社の裏手にある「神明神社(じんめいじんじゃ)」も、波止浜の人々に長く信仰されている神社です。この神社は、 龍神社が創設された天和3年(1683年)に、当時波止浜の開発を進めていた園田藤太夫が、波方町養老から移設して建立したものです。
神明神社は、地域を守るために祀られた神社で、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)を祭神としています。天照皇大神は、日本の神話に登場する太陽の神であり、伊勢神宮でも祀られている神です。光と生命を与える存在として、国全体を守護する神とされています。
豊受大神は、食物や豊作を司る神で、地域に豊かな恵みをもたらすとされています。
神明神社では、火難除けや疫病退散を願うために多くの人が参拝しに足を運んでいました。昔は火災や疫病が頻繁に発生し、地域に大きな被害をもたらしていたため、神明神社への祈りは、村全体を守るための大切な儀式でした。
江戸時代の元文年間(1736年~1741年)頃にはお祭りも始まり、毎年旧暦の1月14日に開催されるようになりました。この伝統行事は、地域全体で行われる大切なイベントとして、今もなお受け継がれています。
お祭りでは、各町から山車(だし)が出され、町中を練り歩きます。山車にはその年の干支や装飾が施され、鉦(しょう)、太鼓、笛といった楽器が鳴り響く中、子供たちが山車を引いて進みます。「ヒッチャコチャンエイヤナ」というリズミカルな掛け声が響き渡り、地域全体に祭りの活気が広がります。
このお祭りは、単なる楽しいイベントではなく、地域全体で健康や平安、繁栄を祈願する重要な行事でもありました。安政6年(1859年)にコレラが流行した時や、文久2年(1862年)の麻疹(はしか)流行時には、神明神社で疫病退散を祈りながら、この山車行事が特に盛大に行われました。地域全体が力を合わせ、神社に感謝と祈りを捧げてきたのです。
しかし、明治維新の際に時代の変化とともに、多くの山車が取り壊されてしまいました。唯一残されたのが新町の山車でした。そして明治の中頃には、住民たちの手によってお祭りは見事に復活しました。
現在では、1月15日前後に山車が再び引き出され、氏子総代が中心となって、地域全体で盛り上げています。
石造りの太鼓橋
神明橋は、愛媛県今治市に現存する最も古い石造アーチ橋であり、地域の歴史や文化を象徴する重要な建造物です。この橋は、かつて波止浜の塩田に関連する用水路を越えて、龍神社の裏手にある神明神社へ参拝するために、明治33年(1902年)に、地元の石工である藤原清八郎氏が、その技術と情熱を注いで建設したものです。
(橋の親柱には「明治42年(1909年)5月」と刻まれており、正式な日付については諸説あります)
石造りのアーチ型橋は当時でも珍しく、とても高い技術が要求されました。石を巧みに積み上げ、アーチの形を作ることで、重量を均等に分散し、橋全体が安定する構造を持っています。こうした設計により、神明橋はその美しい形状と耐久性を長年にわたって保ち続けてきました。
長い間、神明橋は地域の人々の生活に欠かせない存在でしたが、昭和56年(1981年)の道路の拡張工事の際に、現在の位置に移築されました。
移築後も当時の姿を保ちながら、地域の歴史を物語る重要な遺産として大切にされています。
「海中鳥居」
波止浜湾の海中に立つ鳥居は、龍神社創設から32年後の正徳五年(1715年)、長野平蔵という人物を中心に奉納されたもので、龍神社の象徴的存在です。
当時、この地域は塩田や漁業が栄え、海との結びつきが非常に強い土地柄でした。鳥居は、まさにこの海と町を結ぶ要所に建てられ、参拝者がその下をくぐることで、龍神様の霊験を得られると信じられていました。
現在の龍神社の陸の上にある大鳥居の方は、昭和十五年(1940年)に建立奉納されたもので、当時はこの辺り一帯も深い入り海となっており、この鳥居も海中に立っていました。
一方で、海中の鳥居があった場所は、昔は干潟であったといわれています。
毎月1日と15日になると、大きなサメが鳥居をくぐりに泳いできたという伝説も残っており、この日に漁をすると、網が破られるなど魚がまったくとれなかったと伝えられています。
現在では、かつてのようにな光景は見ることはできませんが、その名残は地堀川の岸辺に残り、地域の歴史と信仰を伝える重要なシンボルとして存在し続けています。
「潮止明神」
もう一つ、塩田にまつわる興味深い話が伝わっています。
塩田施設施設建設の時、堤防の最後の部分が完成する直前、当時の信仰に基づいて、波方村の一頭の牛が人柱の代わりとして生き埋めにされました。この儀式は、堤防が無事に完成し、塩田が繁栄することを祈願するためのものでした。
その後、犠牲となった牛の霊を弔い、感謝の意を込めて、堤防完成後にその場所に松を植え、祠を建てました。この祠は「潮止さん(しおどめさん)」または「潮止明神(しおどめみょうじん)」と呼ばれ、地元の人々に大切に祀られるようになりました。
この松と祠は、現在も国道317号線沿いの波止浜地掘(じぼり)にある「波止浜興産中堀給油所」の近くに残されています。現在の松は当時のものではありませんが、代わりに新しい松が植えられています。
塩田と波止浜の歴史
塩田と波止浜の歴史は、自然と共存しながら培われた信仰や伝統に彩られています。龍神社や潮止明神に代表されるように、塩田の繁栄は海や土地、そして神々への深い感謝と共に築かれたものです。人々は、自然の力を畏敬し、その恵みを敬いながら、生活と文化を紡いできました。
現在、塩田は姿を消し、町の景観も大きく変わりましたが、波止浜に残る鳥居や祠、そして人々の記憶には、かつてこの地が塩の生産で栄え、地域を守り、発展させた先人たちの努力と信仰が息づいています。これらの遺構は、過去の名残であると同時に、今も地域の誇りとして受け継がれています。波止浜と塩田の深い繋がりは、現代にも続く信仰と伝統の中で、未来へと語り継がれていくでしょう。