延喜地区「えんぎの観音さま」として知られる「乗禅寺(じょうぜんじ)」は、昌泰元年(898年)に醍醐天皇の発願によって、国家の安泰や皇室の繁栄を祈願するために建てられました。
「延喜」の由来
当時、伊予の国野間郡小谷村には頓魚上人(とんぎょしょうにん)という名僧がいました。ある日、菅原道真公が伊予国国分寺を視察した際に、頓魚上人の法力と仏力の効能を醍醐天皇に伝えました。天皇が夢で見た頓魚上人を召し出すと、わずか三日で病気が癒えたため、天皇は大いに喜びました。そこで、僧侶が集まり修行を行う場として「七堂伽藍(しちとうがらん)」がこの地に建立されました。
また、村名もその時の年号により「延喜」と改められました
「誰でもひとつだけ願いが叶う」
延喜元年(901年)には、年号の改元とともに、乗禅寺は国家の鎮護や皇室の繁栄を祈願する「勅願寺」として正式に「伊予国延喜乗禅寺」と名付けられました。醍醐天皇の崩御後、裏山に御陵が建立され、現在もその場所にあります。この御陵は「帝さん」として親しまれ、「誰でもひとつだけ願いが叶う」との伝説があり、多くの人々が訪れる心の拠り所となっています。
このような長い歴史の中で、醍醐天皇や足利尊氏の祈祷申込書など、歴史的価値の高い貴重な文書が保存されており、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造られた11基の石塔群もあり、宝筐印塔五基、五輪塔四基、宝塔二基がすべて重要文化財に指定されています。
これらの石塔は、芸予諸島を介した職人の移動の証としても重要視されています。
長友佑都の足跡
さらに、乗禅寺には、愛媛県西条出身のプロサッカー選手、長友佑都さんの足形が残されており、サッカーファンにとっても知る人ぞ知る必見のスポットとなっています。歴史だけでなく、現代のスポーツとの繋がりも感じられるこの場所で、新たな発見を楽しんでください。
清水の舞台から飛び降りた隆賢和尚
乗禅寺には、江戸時代後期に生きた真言宗の僧侶、隆賢和尚の伝説が残されています。
隆賢和尚の生まれは、現在の愛媛県波方町に位置する樋口村の百姓家でした。しかし、幼い頃からいたずら好きで百姓仕事もせず、家族や村人からは厄介者と見られていました。やがて、家族は手を焼き、村から約四キロ離れた乗禅寺に隆賢を小僧として預けました。しかし、乗禅寺でも問題は解決しませんでした。隆賢は記憶力が鈍く、お経を覚えることができず、いたずらも一向にやむことはありませんでした。経典を学ぶ努力をするものの、すぐに忘れてしまい、最後には破門を言い渡されるまでに至りました。
乗禅寺から破門された隆賢和尚は、家にも帰ることができず、志を立てて京都へ修行の旅に出ました。数々の寺を訪れ修行を試みましたが、どの寺でも頭の鈍さが災いし、破門され続ける日々が続きました。困り果てた隆賢和尚は、絶望の中で清水寺に足を運び、観音様にこう祈りました。
「自分は志を持って故郷を離れたが、何一つ成し遂げられず、どうにもならない。もしこの道に進む価値があるなら、どうか自分を変えてほしい。役立たない人間であるなら、この命をここで終わらせてください」
そして地上12メートル、高さ4階建てのビルに相当する清水の舞台から、後ろ向きに飛び降りました。
その願いが天に届いたのか、奇跡が起こりました。隆賢和尚は地面に激突することなく、腰を強打し気絶はしたものの、命は無事でした。そして、まるで運命に導かれるように偶然通りかかった僧侶が彼を発見し、救いの手を差し伸べたのです。
この僧侶は隆賢和尚を丹波の山奥にある寺に引き取り、再び修行の道を歩ませました。ここから隆賢和尚の本当の修行が始まります。一度死んだつもりで全てに打ち込み、厳しい苦行を六年間も続けました。やがて隆賢和尚は、人の心を見抜く「観心術」という特別な術を会得しました。
修行を終えて故郷の乗禅寺に戻った時、寺は火災で焼失し、周囲は荒廃していました。隆賢和尚は、寺の再建に全力を注ぎ、特に荒行が有名です。手のひらに油を注ぎ、手燈明を捧げながら観音経を読経するなど、命がけの修行を行いました。
その姿勢は、次第に信者たちの心を捉え、多くの参詣者が隆賢和尚を慕って寺を訪れるようになりました。隆賢和尚は、参詣者の願いを見事に言い当て、またお説教も巧みであったことから、寺はますます繁栄していきました。荒廃していた乗禅寺は、隆賢和尚の努力と信仰によって再建され、前にも増して栄えることとなりました。
この隆賢和尚の物語は、単なる伝説というよりも、実際の史実に基づく伝統的な伝記といえるかもしれません。隆賢和尚の生涯は、いかに愚鈍であっても、真摯な努力と信仰によって偉業を成し遂げることができるという仏教の教えを象徴しています。