「城慶寺(じょうけいじ)」は、かつて瀬戸内海を制し、日本最強の水軍と称された村上水軍の御三家「来島村上氏」と深い関わりを持つ寺院です。
来島村上氏ゆかりの寺
来島村上氏は、伊予国北条にある安楽山大通寺を菩提寺としていましたが、本拠地である来島(くるしま)にもその末寺を建立し、信仰を深めていました。
来島は、今治市波止浜湾に浮かぶ周囲850mほどの小さな島ですが、15世紀中頃には島自体を要塞化した来島城が築かれていました。
来島城は、周囲の潮の流れを巧みに利用した海城で、来島海峡の急潮を知り尽くした来島村上氏の水軍にとって、まさに難攻不落の城でした。
こここを拠点にした来島村上氏は、単なる海賊衆ではなく、瀬戸内海の交通を管理し、時には船舶の護衛も行う「海の武士団」として活動していました。
こうした水軍の本拠地として発展した来島には、戦の勝利を祈り、一族の繁栄を願う精神的支柱となる寺院の存在が不可欠でした。
そのため、来島には安楽山大通寺の末寺が建立され、代々の当主や家臣たちの信仰を集める場となっていました。
この寺が「城慶寺」の前身となるお寺です。
四国攻めでの秀吉側につく
来島村上氏は、代々伊予の地を治めていた河野氏に仕え、瀬戸内海の要衝・来島を拠点にして勢力を誇っていました。
かし、戦国時代が進むにつれ、戦国大名の勢力図が大きく変わる中で、来島康親の父である来島通総(くるしま みちふさ)は、四国攻めを行っていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に天正9年(1581年)から臣従するようになりました。
これは、毛利氏と対立していた河野氏の衰退や、秀吉の急速な勢力拡大を見越した選択でもありました。
城慶寺が現在の形になるには、来島康親(くるしまやすちか)の人生が深く関係しています。
来島村上氏は代々伊予の地を治めていた河野氏に支え、この地を守っていましたが、戦国の時代の中で来島康親の父「来島通総(くるしまみちふさ)」は、四国攻めを行っていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に天正9年(1581年)から臣従するようになりました。
天正13年(1585年)、秀吉が四国征伐を開始すると、来島村上氏は水軍として参戦し、大きな戦功を挙げました。その結果、伊予風早(現在の愛媛県松山市北部)に1万4000石を領する近世大名となり、来島水軍は軍事力のみならず、正式な領地を持つ大名家としての地位を確立しました。
しかし、慶長2年(1597年)、豊臣政権下で行われた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍していた通総は、鳴梁(めいりょう)海戦において戦死しました。
鳴梁海戦は、朝鮮水軍の名将・李舜臣(り しゅんしん)が日本水軍に大打撃を与えた戦いであり、ここでの通総の戦死は、来島村上氏にとって大きな転機となりました。
その後、家督を継いだのが、当時17歳だった来島康親(当時の名は長親)でした。
関ヶ原の戦いに敗れ領地没収
そのわずか3年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発しました。康親は、旧来の主君である毛利氏との関係を重視し、西軍として参戦しましたが、西軍の敗北により所領を没収され、来島村上氏の本拠地であった伊予の地を失うこととなりました。
しかし、妻の伯父である福島正則の取りなしにより慶長6年(1601年)に豊後国玖珠郡、日田郡、速見郡(はやみ)3郡から成る森藩1万4000石を与えられました。これにより、豊後森藩(ぶんごもりはん)が誕生し、康親はその初代藩主となりました。
その後、2代藩主の通春(みちはる)は、元和2年(1616年)に姓を「来島」から「久留島(くるしま)」に改めました。
村上水軍の終焉
来島村上氏は関ヶ原の戦いでの敗北により内陸の豊後森藩へ転封されたことで、物理的にも海から切り離されました。瀬戸内海に面した鶴見村(現別府市)と辻間村内の頭成(現日出町)を領地として与えられたものの、これらは小規模な沿岸地域に過ぎず、かつてのような水軍としての活動を維持するには不十分でした。
さらに、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が発布した海賊停止令(海賊禁止令)は、来島村上氏にとどまらず、瀬戸内海で活躍していた村上水軍全体に大きな影響を与えました。
この法令により、かつてのような独立した海上勢力としての活動が厳しく制限されることとなり、水軍としての存続は困難になりました。
この結果、能島村上氏や因島村上氏は、四国攻めで主君の河野氏を失った後、毛利氏に従属する道を選び、長州藩の船手組として毛利水軍の一部に組み込まれることになりました。
これにより、瀬戸内海で覇権を握っていた海の覇者「村上水軍」の歴史は幕を閉じることになったのです。
菩提寺の移転と城慶寺の成立
このような歴史の中で城慶寺が作られることになります。
少し時間を巻き戻し、豊後森へ移ることとなった来島康親にとって、新たな地での菩提寺の確立は重要な課題となっていました。
そこで、来島村上氏の菩提寺として、すでにこの地にあった古い寺院を再編する形で整えられることとなります。
もともとこの地には、貞和年間(1345〜1349年)に大暁禅師によって開創された寺院が存在していました。
この寺院を基盤とし、来島村上氏の旧菩提寺である「安楽山大通寺」(松山市旧北条市)にちなんで、元の山号と寺号を入れ替え「大通山安楽寺」と改称しました。こうして、旧来の家系の信仰を新たな土地でも継承することとなったのです。
さらに、文政年間(1818年〜1830年)になると、第8世住職である大龍存守(だいりゅうぞんしゅ)和尚の尽力によって、大通山安楽寺の発展が進みました。
その中で、大龍存守和尚は、来島村上氏がかつて本拠としていた「来島」にあった寺院を、大通山安楽寺の末寺として「小湊城跡地(こみなとじょう あとち)」へと移築することを決断しました。
そして、旧来の寺の名称を受け継ぎつつも、新たな地にふさわしい名前として、小湊城の名を取り「城慶寺(じょうけいじ)」と称しました。
小湊城(こみなとじょう)の歴史と役割
小湊城は、村上水軍の重要な拠点の一つであり、来島村上氏だけでなく、能島・因島の村上三家とも深い関係を持っていました。
1571年には、能島村上氏の当主・村上武吉が小湊の地を家臣に与えようとした記録が残されており、さらに1585年には、武吉とその息子・元吉が小湊城の扱いについて議論していたことが明らかになっています。これらの記録から、小湊城が能島村上氏の勢力圏内にあり、戦国時代の村上水軍において重要な位置を占めていたことがわかります。
その後、1585年の豊臣秀吉による四国攻めでは、伊予国が小早川隆景に与えられ、多くの城が破却されました。しかし、小湊城は来島城や鹿島城とともに、例外的に存続を許された伊予十城のひとつとして名を連ねています。これは、小湊城が瀬戸内海の要衝として特別な価値を持っていたことを示しており、豊臣政権下においても重要視されていたことがうかがえます。
さらに、関ヶ原の戦い(1600年)の後、伊予国を領有した藤堂高虎は、今治城が築かれるまでの間、小湊城を臨時の拠点として利用しました。築城の名手として知られる藤堂高虎が一定期間小湊城を重視していたことは、この城が持つ戦略的な価値の高さを物語っています。
小湊城の遺構と文化的価値
小湊城跡および城慶寺の周辺には相の谷古墳群が存在し、発掘調査によって中世の遺物が多数出土しています。これにより、戦国時代以前からこの地が交通の要衝として機能し、歴史の流れの中で重要な役割を果たしてきたことが確認されています。
こうした歴史的背景を持つ小湊城と城慶寺は、日本遺産「村上海賊」の構成文化財の一部として認定され、その価値が再評価されています。村上水軍の活動を象徴する地として、そして瀬戸内海の歴史を物語る重要な史跡として、今もその存在を伝えています。