「城慶寺(じょうけいじ)」は、16世紀中頃に大龍存守和尚によって創設されました。大龍存守和尚は、大分県にある森安楽寺の第8世住職であり、そのため、城慶寺は森安楽寺の末寺として伝えられています。
村上海賊ゆかりの寺
城慶寺が最初に建立されたのは、現在の場所ではなく、瀬戸内海の来島でした。来島は、かの有名な村上海賊の拠点の一つであり、村上海賊は瀬戸内海を支配した強力な水軍として知られています。中でも来島村上氏は特に大きな影響力を持ち、海上交通や防衛において重要な役割を果たしました。城慶寺は、来島村上氏の菩提寺としてその信仰を支え、村上海賊の歴史や文化とも密接に結びついていました。
その後、文政年間(1818年〜1830年)に、城慶寺は来島から現在の小湊城跡地(こみなとじょうあとち)に移築されました。この小湊城も村上海賊の拠点として利用されていた城で、その跡地に移築された城慶寺は、村上海賊の歴史的背景を今に伝え続ける存在として、日本遺産「村上海賊」の構成文化財として認定され、多くの歴史ファンや観光客に親しまれています。
小湊城(こみなとじょう)は、瀬戸内海に面した標高約27メートルの丘陵地に築かれた要塞で、南に今治平野、東には来島海峡を一望できる絶好のロケーションでした。戦国時代、村上海賊の拠点として重要な役割を果たしており、来島海峡を通る船舶の監視と防衛を行うことで、瀬戸内海の海上交通を支配していました。
この城の最も古い記録は1531年、伊予国の守護である河野通直が「こみなとのうら」から京都へ向けて出航したとされるものです。このことから、小湊は伊予国において上洛する際の重要な港であったことがわかります。
小湊城に残る歴史の足跡
また、来島村上氏だけの城というわけではなく、1571年に能島村上氏の当主である村上武吉が小湊を家臣に与えようとした記録や、1585年に武吉とその息子元吉が小湊城の扱いについて議論していたこともわかっています。
1585年には、豊臣秀吉の四国攻めによって伊予国は小早川隆景に与えられ、多くの城が破却されましたが、小湊城は来島城や鹿島城とともに残された10城の一つとして名を連ねていました。さらに、関ケ原合戦後に今治に入部した藤堂高虎も、今治城が築かれるまでの間のお城として、小湊城を重視していたという記録もあります。
また、城跡の周辺には相の谷古墳群が存在し、発掘調査によって中世遺物が発見されたことから、小湊城や城慶寺周辺が古代から続く文化的な影響を受けていたことも明らかになっています。
ぜひ一度城慶寺を訪れ、古代から中世、そして近代に至るまで、この地域が育んできた多層的な歴史に触れ、村上海賊の時代から受け継がれてきた文化と伝統の深さを感じながら、瀬戸内海の美しい風景に思いを馳せてみてください。