来島海峡大橋を望む「大浜八幡大神社(おおはまはちまんだいじんじゃ)」は、地元では親しみを込めて「大浜さん」と呼ばれる歴史ある神社です。この神社は、古代伊予地方の豪族である「越智氏」の祖先とされる「乎致命(おちのみこと)」を祭神として祀っています。
大浜八幡大神社の歴史
応神天皇(270~310年)の時代、まだ若干7歳であった乎致命は、応神天皇の命により、伊予国(現在の愛媛県)に派遣されました。この当時、伊予はまだ未開の地であり、様々な困難が予想される場所でしたが、乎致命はその地に館を構え、東予地方の開拓を進めていきました。
乎致命がこの血を統治した時代は、地域の発展と安定が確立され、非常に素晴らしいものであったと伝えられています。強力な武力を振るいながらも、ただ力に頼ることなく、農業や交通インフラの整備を通じて地域の人々の生活を守り、発展を支援しました。
このため、乎致命が亡くなった後も、その功績は長く後世に語り継がれていきました。
時代は進み、乎致命の9代目にあたる「乎致足尼高縄(おちのすくねたかなわ)」が、祖先の乎致命を祀るために、大浜に「大浜大神(大濱宮)」を建立しました。この地域は、かつて「御浜」や「王浜」とも呼ばれ、応神天皇の時代(270~310年)には「王濱宮」として知られていました。
天智天皇(668~671年)の時代には、大島の西に位置する津島で祀られていた天智天皇の祖神、門島神(もんじまのかみ)を合祀しました。このとき、饒速日命(にぎはやひのみこと)と天道日女命(あめのみちひめのみこと)が新たに祀られるようになり、神社は「門島神社」としても知られるようになったと言われています。
885年には、朝廷から神位従五位を授けられました。この時代、神社における神々に朝廷から位階が授けられることは、神社の地位や重要性を示すものでした、
その後、貞観元年(859年)または延長2年(924年)頃に、伊予国の国司(地域の統治者)である河野大夫興村が、八幡神社の総本宮「宇佐八幡宮(大分県)」から八幡神を招いてこの神社に祀りました。
これによって、大浜大神(大濱宮)と八幡神が一緒に祀られることとなったため、「大浜八幡大神社」と呼ばれるようになりました。以降、この神社は地域全体を守る大切な存在となり、地域の総氏神として要な神社として発展していきました。
江戸時代の繁栄と信仰
江戸時代に入ると、大浜八幡大神社は今治藩の藩主によって、今治越智郡の総氏神として大切にされてました。藩主は毎年必ず一度、神社を訪れて参拝し、神社を守り続けていたことが記録されています。
この神社を参拝していたのは、歴代の藩主だけでなく、その家族、そして伊予国の守護であった河野氏、来島を拠点にしていた村上水軍(村上海賊)の一族の来島氏など、地域の有力者たちも深く信仰していました。
特に、江戸時代の大浜八幡大神社の大祭(旧暦8月15日)は、今治地方で最も盛大なお祭りとして知られていました。この祭りでは、神輿が今治城へ出向き、藩主以下の拝礼を受けてから、町を練り歩くのが恒例でした。海上渡御の際には神輿が船で移動し、神輿を守るために10隻以上の櫂伝馬船(かいでんません)を従えた船団が組まれました。これは、神輿が海上を渡る際に安全を祈願するための儀式で、壮観な光景が繰り広げられたと伝えられています。
航海の安全を祈る神社
このように大浜八幡大神社は、古くから航海の安全を祈る神社として重要な役割を果たしてきました。参勤交代の際にも、船がこの神社の近くで発着していたため、多くの人々が航海の無事を祈願する場所として信仰を集めていました。
そのため、何度も再建されており、江戸時代の慶安2年(1649年)と元文3年(1738年)には、今治藩の藩主の命により大規模な再建が行われています。
それ以前にも、元弘3年(1333年)には伊予国の守護であった河野氏、大永4年(1524年)には務司城の城主であった村上吉智・吉任。そして天正3年(1575年)には村上水軍の来島道総(くるしま みちふさ)によって再建されました。
このように、時代ごとに再建されていることから、大浜八幡大神社が地域の信仰の中心として重要な場所だったことがわかります。
「越智氏族発祥之地」の石碑
昭和16年には、越智氏同族会によって『越智氏族発祥之地』の石碑が建立されました。この石碑は、越智氏族の歴史や発祥を後世に伝えるために建てられ、越智氏の由緒を象徴する重要な存在となっています。
この石碑は、越智氏の歴史を後世に伝えるための重要な遺物であり、祖先を敬い、彼らの功績を称える場所として設立されました。越智氏族の子孫たちは、この石碑を通じて自らのルーツを再確認し、地域の結束や信仰の象徴として大切にしています。
初代総理「伊藤博文」との繋がり
大浜八幡大神社には、初代内閣総理大臣である伊藤博文(いとうひろふみ)との深い縁があり、境内には伊藤博文を讃える像が建てられています。伊藤博文の母親は今治市出身であり、伊予国にルーツを持っていました。母親の故郷である今治市は、幼少期から伊藤博文にとって精神的な支えとなっており、伊予地方とのつながりが非常に強く結ばれていました。
さらに、伊藤博文の一族は越智氏の末裔であり、明治時代に政府高官を紹介した『明治中興雲台図録』という書物の中では、伊藤博文の名前が「越智宿称博文朝臣」と記載されています。
「越智」という氏族名、「宿称(すくね)」というカバネ(貴族や豪族に与えられる称号)、そして「博文」という諱(正式な名前)が使われており、「朝臣」はさらに高い格式を示す称号です。この名乗り方は、当時の貴族や高位の人物に見られるもので、伊藤博文が越智氏族に属し、その血筋を誇りとしていたことを示しています。
大浜八幡大神社に建てられた伊藤博文の像の台座にも、「この地に公の像を建つるは、越智氏族神裔の方々の誇りと、公の偉業を後世に知らしむためなり」と、伊藤博文が越智氏の一族であることを示す碑文が刻まれています。
この像は、今治市や伊予国との深い縁を象徴するものであり、神社を訪れる参拝者にとって見どころの一つです。