旧越智郡朝倉村、頓田川の支流・多伎川のほとりに静かに鎮座する「多伎神社(たきじんじゃ)」は、その佇まいからまるで神様の世界への入り口を思わせるような神秘的な雰囲気が漂っています。
境内に一歩足を踏み入れると、周囲の自然と溶け込むような静けさと荘厳さが感じられ、訪れる者の心を清め、静寂と神聖さを体験させてくれる場所です。
多伎神社の格式と仏教との融合
多伎神社は非常に格式の高い神社で、式内社の名神大に指定されて、伊予国(現在の愛媛県)では大山祇神社(大三島)や伊曽乃神社(西条市)が特に高い格式を持つ神社として扱われていました。
式内社とは、927年にまとめられた全国の神社の一覧である「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」に記載された神社のことです。この神名帳に載っている神社は、当時の朝廷から非常に重要視されており、国が管理する「官社」として認識されていました。つまり、式内社に指定されることは、国家的に見ても重要な神社であることを意味していたのです。
さらに、その中でも特に高い霊力を持つとされた神社は「名神大社」という称号を与えられています。名神大社は、災厄を防ぎ、国家や地域を守る重要な神社として、特別な敬意が払われていました。多伎神社もその名神大社に指定されており、地域だけでなく全国的にも高い格式を持っていました。
さらに、かつては「県社(けんしゃ)」という称号も持っていました。県社とは、明治時代に神社の格式を基に制定された制度で、都道府県内で特に重要な神社に与えられる称号です。多伎神社が県社に指定されていたことからも、愛媛県内において非常に重要な神社であり、地域の人々に深く信仰されていたことがわかります。
多伎神社は「伊予国内神名帳」にも記載されており、そこには「正一位 多伎不断大願大菩薩」と記されています。「正一位」は神社の位の中で最も高い位であり、これにより多伎神社が非常に重要視されていたことが明確に示されています。
「多伎不断大願大菩薩」という称号には、仏教的な要素が色濃く含まれています。「大菩薩」という言葉は、仏教における高位の修行者や、悟りを目指しながらも他者の救済を願う存在、つまり「菩薩」を指します。この称号が付けられていることからも、多伎神社が神道の神社でありながら、仏教と深い関わりを持っていたことがわかります。
かつての日本では、神道と仏教が共存していた神仏習合の時代が長く続き、多くの神社は仏教の要素を取り入れ、仏教の僧侶が神社を管理する「別当寺(べっとうじ)」が存在していました。別当寺とは、神社と仏教の融合を体現し、神社の運営や祭祀を行う寺院のことです。
多伎神社も最盛期には多くの別当寺があり、光林寺(玉川地区)、竹林寺(朝倉地区)、歓喜寺(富田地区)をはじめとする11坊の寺院が多伎神社を支えていました。
多伎神社の三柱の祭神
多伎神社の祭神には多伎都比売命(たきつひめのみこと)、多伎都比古命(たきつひこのみこと)、そして須佐之男命(すさのおのみこと)が祀られています。
多伎都比売命は、古くから水の女神として崇敬されており、清らかな水を司る神です。多伎都比売命がもたらす水は、農業や日常生活に欠かせないものであり、特に河川や湧き水、井戸といった水源の近くには多伎都比売命が祀られる神社が多くみられます。この信仰は、自然の恵みである水がいかに重要であるかを象徴し、地域社会の生活を支えてきました。
一方、多伎都比古命は雨を司る神として知られています。雨は古代日本の農作物にとって非常に重要な要素であり、多伎都比古命は雨乞いの儀式において中心的な役割を果たしてきました。雨乞いの際、多伎都比古命に対する祈りが捧げられ、雨が降ることを願う儀式が行われます。この信仰は、地域の農業や生活において欠かせない存在として多伎都比古命が崇拝されてきた背景を反映しています。
須佐之男命は、日本神話に登場する強力な神であり、風や嵐といった自然現象を司ると同時に、災害や災厄を鎮める役割も果たしています。須佐之男命はしばしば荒々しい自然の力を象徴する存在とされますが、同時に、悪霊を退け、人々の生活を守る神として信仰されています。須佐之男命はまた、八岐大蛇を退治した神話でも有名で、その勇敢な姿から、人々の間では正義の象徴としても広く崇敬されています。
これら三柱の神々が同時に祀られる神社は、自然の恵みと災害の両方に対して祈りを捧げる場所として、地域の人々に深く根付いています。水、雨、風といった自然の力をコントロールし、豊作や生活の安定をもたらすために、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命への信仰は、今もなお強く続いています。
多伎神社の起源に古の豪族と天皇
創建年代は不明ですが、社伝によると、古代日本の神武天皇に次ぐ初期の天皇の一人で、実在した可能性が高いとされて古代の天皇の一人「崇神天皇(すじんてんのう)」の時代に創建されたと伝えられています。
伝説によれば、崇神天皇が統治していた紀元前97年から紀元前29年の間に、日本神話に登場する女神「鐃速日命(にぎはやひのみこと)」の六代目の孫であり、古代豪族「物部氏(もののべうじ)」の祖とされている古墳時代の豪族「伊香武雄命(いかたけおのみこと)」がこの地に「瀧の宮」という社号を奉じ、初代斎宮(神社に仕える者)となったと伝えられています。
この伝説は嘘か誠かわかりませんが、現在でも多伎神社は「多伎宮(瀧の宮)」という名前でも呼ばれ、地域の人々に親しまれています。
多伎神社を巡る越智氏の謎
また、別の説では、創建に伊予の古代豪族「越智氏」が関わった可能性が指摘されています。それによれば、越智氏ゆかりの大山祇神社が、海上の大三島に鎮座していたことから、陸地での祭祀の拠点として多伎神社が祀られたとされています。
かつて多伎神社が鎮座する朝倉地区は、越智郡に属していました。古代の伊予国は、「小市国造」が治めており、この地方は「小市国(おちのくに)」と呼ばれていました。「小市」とは、後に「越智」と漢字が充てられるようになったもので、これが越智氏の由来です。
これを裏付けるかのように、多伎神社の境内には越智氏を祀る「越智社」も存在しています。
はたして、本当に越智氏に手によって多伎神社が創建されたのでしょうか?もしかしたら古代豪族の物部氏と協力して創建したのかもしれません、これらの説に関しては、明確な記録がないため推測の域を出ません。
越智氏のルーツは物部氏なのではないか?という説もあります。当時、物部氏は古代日本で武器や軍事を担当した有力な豪族であり、その勢力は伊予国を含む全国に広がっていました。
この説によると、物部氏の一族である子到命(おちのみこと)が、小市国造(おちのくにのみやつこ)に任命され、その子孫が小市国(古代の伊予国)を領有していたとされています。そして小市国は、後に「越智郡」と呼ばれるようになっていきました。
一方で、『予章記(よしょうき)』や、越智氏、末裔にあたる河野氏の系図によると、越智氏は孝霊天皇の皇子である伊予皇子(彦狭島尊)の子、小千御子(おちのみこ)を祖としています。
そして、この小千御子が越智氏を称し、伊予地方における越智氏の支配が始まったとされています。
果たして、越智氏が物部氏の後裔であったのか、それとも独自に発展した一族であったのか、またどのような形で地域の信仰や政治に関与していたのか。
これらの疑問に対する答えは現在の所不明ですが、こうした未解決の謎に歴史的なロマンを感じます。
「フスベ岩」多伎川と磐座信仰
多伎神社の歴史は、古代から続く自然信仰、「磐座(いわくら)信仰」から始まったとされています。磐座信仰とは、古代日本において、神々が巨岩や山などに宿ると信じられていた自然崇拝の一形態です。
多伎神社における磐座信仰の中心が、多伎川を1kmほど上った山の頂にある「フスベ岩」という巨岩です。この岩は、「川上巌(かわかみのいわお)」「川上岩」とも呼ばれ、古代より神聖視されてきました。
現在、この巨大な岩は、「境外摂社(けいがいせっしゃ)」「磐座神社(いわくらじんじゃ)」として祀られています。この神社の外に位置する磐座は、「奥の院」とも呼ばれ、神社の中心的な信仰の一部を担っています。
磐座神社は、自然そのものが神であるという古代日本の信仰を色濃く反映しており、川上巌は地域の人々にとって神聖な場所として崇敬され続けてきました。
どっちの氏神?「フスベ岩」岩を巡る伝承
多伎神社は、かつて朝倉郷と高市郷の両方の氏神として崇拝されていました。氏神とは、地域の人々や一族が守護神として崇める神社のことで、多伎神社はその両郷にとって非常に重要な存在だったのです。しかし、ある時、どちらか一方の郷の氏神としてのみ祀ることに決めようという話が持ち上がりました。
この問題を解決するため、人々は奥の院の巨岩、つまり「フスベ岩」の向きを基準にして決めることにしました。翌朝、人々がふすべ岩を確認しに行くと、岩が高市郷の方を向いていたため、多伎神社はその後、高市郷の氏神となったという伝承が残されています。
多伎神社に秘められた語源の謎
多伎神社は「多伎宮(瀧の宮)」という別名で呼ばれることもありますが、他にも「滝の神」と呼ばれることがあります。
「滝の神」や「瀧(滝)の宮」の語源については、多伎川に数多くの滝があったからではなく、磐座として崇められている「フスベ岩」が位置する「嶽・岳(たけ)」が訛って「タキ」になったのではないかという説があります。
これは磐座信仰に深く結びついた説で、祭神の 「多伎都比売命(たきつひめのみこと)」や「多伎都比古命(たきつひこのみこと)」もこれに由来すると考えられます。
磐座信仰は、山や岩そのものを神聖な存在として崇め、神が宿る場所として崇拝する古代の自然崇拝の一形態で、の山岳地帯や河川の周辺で盛んに行われてきました。
多伎神社に祀られている「多伎都比売命」や「多伎都比古命」は、水や雨を司る神とされており、これらの神々の信仰もまた、磐座信仰と密接に結びついています。
つまり、多伎神社はもともと多伎都比売命や多伎都比古命が祀られていた神社として始まり、その後に「須佐之男命」が後から勧請されたと推測されます。
雨を呼ぶ神聖なフスベ岩
「フスベ岩」は、古くから日照りや干ばつが続く時に雨を呼ぶ神聖な場所として信仰されていました。この巨石の下にある洞窟からは、大蛇が現れ、雨を降らせると言われています。
日照りが長く続くと、人々はこの岩の前で木の葉を燃やして「ふすべる」、つまり「いぶす」(煙をかける)という儀式を行いました。この儀式を行うと必ず雨が降ると信じられ、地域の人々にとって大切な祈りの場として守られてきたのです。
江戸時代には、多伎神社は今治藩の祈願所としても重要な役割を果たしていました。祈願は一週間(7日間)にわたって行われ、前半は本殿で、週の後半は「フスベ岩」で特別な儀式が非常に厳粛に執り行われました。
この雨乞いの儀式が終わると、必ず雨が降ったといわれています。
多伎神社はの不思議な力は地域を越えて広く知られ、港町からも参拝者が訪れるほどで、多伎神社は地域社会にとって欠かせない存在となりました。
病を癒す神秘の霊水
奥の院にある磐座から湧き出る多伎川の水は、古代から霊水として信仰されており、特に病気を治す力があるとされています。伝承によれば、この霊水を飲んだり、体に塗ることで、病気が治ったり、怪我が癒えるという奇跡的な効果があったとされます。これにより、多伎神社の霊水は地域を超えて広く知られるようになり、多くの参拝者がこの水を求めて神社を訪れるようになりました。
多伎川は、この霊水を源とし、神社の前を流れています。その水は、農業用水としても地域の生活を支える重要な役割を果たしていました。上流から取水される多伎川の水は、作物の成長を助け、地域の豊かな農業を支えてきたのです。
また、社殿の前を流れる御手洗川も、神聖視されています。参拝者は、この御手洗川の水で手や口を清めることで、心身を清め、神のご加護を得ようとしています。この水もまた、霊水の一部として神聖な力が宿っていると信じられており、参拝者にとっては重要な儀式の一環です。
一方で、霊水の神聖さから、それを軽んじたり、汚すような行為は神罰を招くとする戒めの教えも残されています。
霊水を不注意に扱ったり、敬意を欠いた行為を行った者が、神の怒りを受けて病気や不幸に見舞われたという話が伝えられており、こうした神罰の伝説は、神聖な水に対する畏怖の念を地域の人々に強く植え付けています。
「笠鉾祭り」
霊水の癒しの力は今も多くの人々に信じられており、毎年5月1日には300年以上の歴史を誇る「笠鉾祭り(かさぼこまつり)」が盛大に行われています。
この祭りでは、笹竹に子どもの衣装を着せた「笠鉾」を手に持った参拝者たちが、「マーマイソ・カーカイソ牛馬が繁盛するように」などと唱えながら、殿内を3周し、その後、社殿の周りを1周回る儀式が行われます。
かつて農業が生活の基盤であった時代、牛馬は農作業において重要な存在であり、その健康を守ることは地域全体の繁栄に直結していました。牛馬の健康が収穫や経済の安定に深く関わっていたため、地域の人々は神様に感謝の意を示し、疫病から牛馬を守ってもらうために、この笠鉾祭りを大切に守り続けてきました。
時代が変わった今も、この祭りの意義は色褪せることなく継続されています。牛馬に限らず、無病息災、家内安全、そして豊作を祈願する祭りとして、地域の人々に受け継がれ、信仰と絆を深める行事となっています。笠鉾祭りは今もなお、多くの人々に愛され、地域の大切な伝統として続けられています。
陰陽石に秘められた信仰
多伎神社には、古代から信仰されている陰陽石として「松茸石(まつたけいし)」と「杯状穴(はいじょうけつ)」の2つ陰陽石(いんようせき)があります。
陰陽石とは、古代からの性信仰に基づき、男女の性器を象徴する石です。
これらの石は、自然の岩の形が偶然に男性器や女性器に似ている場合もあれば、意図的に人の手を加えてその形に整えられたものもあります。
陰陽石は、陰(女性性)と陽(男性性)を表現し、生命や繁栄を象徴するものとして古代から日本各地で信仰や俗信の対象とされてきました。多くの陰陽石は、男女の性器を併置して、両方のエネルギーを合わせたものもあれば、陽石(男性性のみ)だけの石も多く存在します。
これらの石は、豊穣や子宝、家族の繁栄を祈願するために祀られ、特に道祖神(どうそじん)の神体として崇められることがよくあります。道祖神は、村や集落の境界や道端に置かれ、外からの邪気や災いを防ぐ神として信仰されてきた神で、道祖神と陰陽石が共に信仰されている場合も多いです。
また、陰陽石には「金勢(こんせ)大明神」や「子種石」「子孕(こはらみ)石」などの名称がつけられることがあります。これらの名称は、それぞれ男性性の強さや子宝に関連する願いが込められています。
特に、子宝を祈願するための石として、農村や畑に祀られ、豊作祈願の対象とされるものもあります。陰陽石は、畑や田んぼの中に設置されることもありますが、多くは村境や峠など、外部からの悪霊や疫病が入りやすい場所に祀られることが多いです。これにより、村や集落全体の安全や繁栄を祈る重要な存在とされました。
こうした石は、日本全国に広く分布しており、地域ごとに異なる信仰や習慣が発展しています。陰陽石は、生命の根源や自然の力を象徴するものとして、今でも信仰が続けられており、現代でも多くの人々が子孫繁栄や健康を祈って参拝しています。
陰陽石「松茸石」
境内に入る前、多伎川の清らかな流れの上に架かる石橋「八雲橋」を渡ると、神社の入り口付近に松茸石という陰陽石が存在します。
松茸石は、見た目からも男性性を象徴する石であり、陰陽石の一つです。この石には、今治藩主にまつわる興味深い伝説が残されています。
江戸時代のある日、今治藩主は松茸石を江戸の藩邸へと運ぶことを命じましたが、その後、藩主の夫人が急に重い病に倒れてしまいました。治療を施しても回復せず、途方に暮れていたところ、夢占いによって「松茸石が元の場所である多伎神社に帰りたい」という願いがあることが明らかになりました。
このお告げに従い、藩主は急いで松茸石を江戸から多伎神社に戻すことにしました。すると驚くべきことに、夫人の病はすぐに治り、健康を取り戻したと伝えられています。この出来事は松茸石の神秘的な力を示すものであり、それ以来、松茸石は強い霊力を持つ神聖な石として、今治の人々の間で広く信仰されるようになりました。
多伎神社を訪れる参拝者は、まず八雲橋を渡り、松茸石を目にします。ここで多くの人々が石に触れたり、祈りを捧げ、健康や家庭の幸福を願っています。松茸石の存在は、ただの信仰の対象に留まらず、地域の歴史や伝説を通じて、現代に至るまで多くの人々に深く信じられ続けています。
陰陽石「杯状穴(性穴)」
「杯状穴(はいじょうけつ)」は、多伎神社の参道にある石鳥居の近くに位置する、古くから信仰の対象となっている石です。別名「性穴」とも呼ばれ、弥生時代から現代に至るまで、長い歴史を持つ文化遺産として大切にされています。この杯状穴は、主に女性の祈願を受ける場であり、子宝や安産、家庭の繁栄を願うための象徴的な場所として崇拝されています。
一説によると、この杯状穴は、戦場や遠方に赴いた男性たちの無事な帰還を祈るため、女性たちが精神的な祈願行為として石の表面を小石で叩いてできた「たたき穴」だとされています。石に触れながら願いを込め、刻まれた穴は、祈りが続けられることでさらに深くなり、世代を超えて祈願の場として受け継がれてきました
この形の陰陽石は、盃状穴や盃状石とも呼ばれ、女性のシンボルを象徴するものです。これらの石は、特に子宝や安産、子供の健やかな成長を祈願するために、古代から重要な信仰の対象とされてきました。盃状石の表面にある小さな窪みは、女性たちが長い年月をかけて小石で彫り込み、願いを込めた結果として作られたものです。
この石に彫られた窪みは、当初は再生や復活を祈るため、主に墓の上に彫られていました。しかし、時代が進むにつれて、石に対する信仰が広がり、家庭の繁栄や豊作、さらには生命の誕生を願う目的で用いられるようになったのです。このように、盃状穴は自然崇拝の一部であり、石そのものに神聖な力が宿ると信じられてきました。
盃状穴は日本各地で見られ、特に戦場に赴いた男性の無事な帰還を祈るためにも使用されていた例があります。戦時中、家族や地域の女性たちは、石に祈りを捧げ、男性たちの無事を願っていました。こうした石に刻まれた窪みは、単なる物理的な形状ではなく、古代の人々の強い願いが込められた象徴的なものとなっています。
「禰宜屋敷古墳群」
杯状穴の近くには、現在6基が確認されている「禰宜屋敷古墳群(ねぎやしきこふんぐん)」という古代遺跡の1つがあります。
1号墳は道路の建設によってその一部が失われてしまいましたが、その結果、横穴式石室の石積みが露わになり、古代の埋葬方法を直接見ることができる貴重な遺跡です。1号墳は無袖型の横穴式石室であり、石室の全長は約7メートル、幅は約2メートル、天井の高さは2メートルと推定されています。また、墳丘の直径は約13メートル、高さは3~4メートルが想定され、主軸は北東30度の方角を向いています。
この古墳からは、須恵器や土師器、直刀、轡(くつわ)、鉄鍛、そして装身具などの副葬品が出土しています。これらの遺物は、古代の葬送儀礼やその時代の社会的地位を理解する上で非常に重要です。出土品は、現在、朝倉ふるさと美術古墳館に展示されており、訪問者はこれらを通じて古代の文化や歴史に触れることができます。
「多伎神社古墳群」
もう一つ忘れてはいけないのが、「多伎神社古墳群(たきじんじゃこふんぐん)」という、神社の背後に広がる山麓に点在する約30基の古墳群です。
この古代遺跡は、6世紀から7世紀にかけて築かれたもので、東西約300メートル、南北約100メートルという非常に広範囲に分布しています。
これらの古墳群の多くは円墳で、内部には横穴式石室を備えているのが特徴です。横穴式石室は、玄室(遺体を安置する場所)とそれに通じる通路(羨道)から成る構造で、古墳時代の代表的な埋葬形式の一つです。
多伎神社の背後に位置する「高麗式墳」は、古墳群の中でも特に大規模で注目される古墳です。この古墳は、比較的小さな石を積み上げて作られており、横穴式石室を備えています。
その規模の大きさと複雑な構造から、地域の有力者やその一族の埋葬地として築かれたと考えられています。高麗式墳は、古代の高度な技術を駆使した建造物であり、当時の社会的地位や信仰が反映されたものであるため、考古学的にも重要な遺跡です。
副葬品としては、須恵器や土師器、直刀、轡(くつわ)、装身具などが出土しており、昭和34年には愛媛県指定の文化財として認定されました。
これらの出土品は、禰宜屋敷古墳群と同じく朝倉ふるさと美術古墳館に収蔵され、展示されています。
古代から現代へ「多伎神社の歴史」
最後に、多伎神社の歴史を紹介します。
多伎神社の起源は、古代弥生時代にまでさかのぼります。境内には、弥生時代後期の集落跡や、穀物を保存するための地下貯蔵庫の跡が残されており、さらに50基以上の多伎宮古墳群が広がっています。この古墳群は、弥生時代から古墳時代にかけての有力者たちが埋葬されたもので、初期の祭司(神社で神に仕える者)は、この古墳群の主であったとされています。考古学的にも非常に価値の高い場所であり、多伎神社の歴史の深さを物語っています。
平安時代の貞観年間(859年~877年)には、多伎神社は神階(神社に与えられる格付け)を授かり、古くから地域での篤い信仰を集めるようになりました。この時期、多伎神社は、地域社会にとって重要な役割を果たしていました。その理由の一つとして、多伎神社が国府(地方の行政の中心)に近い位置にあったことが挙げられます。国府に近い神社は、地域の信仰と政治的な結びつきが強く、多伎神社もその例外ではなく、広く信仰を集めていました。
さらに、神社が所有する神田(神社が持つ田地)は、この時期に大きく拡大されました。わずか十年余りの間に神田の広さは倍増し、神社は豊かな経済的基盤を築くことができました。これにより、多伎神社は地域の信仰だけでなく、経済的な力も持つようになり、その影響力を高めました。
醍醐天皇の延喜年間(905年)には、多伎神社はさらに格式を高め、明神大社の称号を与えられました。これにより、皇室からも特別な待遇を受けるようになり、長い間、皇室や地方の権力者たちからも篤い信仰を集めました。時代が進むにつれ、多伎神社は、国司(地方の役人)や守護職(軍事や治安の責任者)、そして藩主たちの信仰の中心としても重要な役割を果たしていきます。
江戸時代の多伎神社は、今治藩主や地域の政治的指導者から篤い信仰を集めており、特に干ばつが発生した際には藩主の依頼を受けて雨乞いの祈願が行われました。この頃の多伎神社は、11の別当寺を有し、非常に広い神領を管理していました。これにより、多伎神社は単なる宗教施設を超えて、地域の信仰と経済を支える中心的存在として重要な位置を占めていました。
明治時代になると、神社の制度が再編され、多伎神社は明治4年(1871年)に郷社に列せられました。さらに、明治13年(1880年)には、さらに格式を上げて県社に格上げされました。
このように、多伎神社は弥生時代から続く長い歴史と、その間に培われた信仰と経済的な影響力を持つ重要な神社です。現在でも、多伎神社はその古代からの歴史と伝統を受け継ぎ、地域の人々から篤く信仰されています。