「多伎神社(たきじんじゃ)」は、まるで神様の世界への入り口のような神秘的な雰囲気が漂う神社です。その起源は弥生時代にまでさかのぼり、境内には弥生時代後期の集落跡や穀物地下貯蔵庫、50基以上の多伎宮古墳群が広がっています。初期の祭者は、この古墳群の主であったとされ、考古学的にも非常に貴重な場所です。
平安時代の貞観年間(859年~877年)に神階を授かり、古くから篤い信仰を集めてきました。この時期、多伎神社は地域にとって重要な存在であり、その信仰の深さは、神社が国府に近いという地理的な要因にも支えられていたと考えられます。また、神社の神田はわずか十年余りで倍の広さに拡大され、豊かな経済的基盤を築きました。さらに、延喜年間(901年~923年)には明神大社としての栄誉を受け、その格式はさらに高まりました。
江戸時代には、多伎神社は今治藩の祈願所としても重要な役割を果たしていました。特に、干ばつの際には雨乞いの祈願が行われ、その効果を求めて多くの人々が神社を訪れました。信仰の篤さは地域の枠を越え、港からも参詣者が訪れるほど広がり、多伎神社は地域にとって欠かせない存在でした。
奥の院には「川上岩」と呼ばれる巨岩が鎮座しており、この磐座は古代より神聖視されてきました。雨乞いや様々な祈願がこの場所で行われてきた歴史があり、現在でも、参拝者が社前に石を積む風習が続いています。
奥の院にある磐座から流れ出る多伎川の水は、古くから霊水とされ、病気を治す力があると信じられてきました。この霊水の癒しの力は今も多くの人々に信じられており、毎年5月1日には300年以上の歴史を誇る「笠鉾祭り(かさぼこまつり)」が盛大に行われています。
この祭りでは、笹竹に子どもの衣装を着せた「笠鉾」を手に持った参拝者たちが、「マーマイソ・カーカイソ牛馬が繁盛するように」などと唱えながら、殿内を3周し、その後、社殿の周りを1周回る儀式が行われます。
かつて農業が生活の基盤であった時代、牛馬は農作業において重要な存在であり、その健康を守ることは地域全体の繁栄に直結していました。牛馬の健康が収穫や経済の安定に深く関わっていたため、地域の人々は神様に感謝の意を示し、疫病から牛馬を守ってもらうために、この笠鉾祭りを大切に守り続けてきました。
時代が変わった今も、この祭りの意義は色褪せることなく継続されています。牛馬に限らず、無病息災、家内安全、そして豊作を祈願する祭りとして、地域の人々に受け継がれ、信仰と絆を深める行事となっています。笠鉾祭りは今もなお、多くの人々に愛され、地域の大切な伝統として続けられています。