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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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多伎神社(今治市・朝倉地区)

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旧越智郡朝倉村、頓田川の支流・多伎川のほとりに静かに鎮座する「多伎神社(たきじんじゃ)」は、その佇まいからまるで神様の世界への入り口を思わせるような神秘的な雰囲気が漂っています。

境内に一歩足を踏み入れると、周囲の自然と溶け込むような静けさと荘厳さが感じられ、訪れる者の心を清め、静寂と神聖さを体験させてくれる場所です。

伊予国屈指の名社

多伎神社は非常に格式の高い神社で、式内社(しきないしゃ)の名神大に指定されて、伊予国(現在の愛媛県)では大山祇神社(大三島)や伊曽乃神社(西条市)が特に高い格式を持つ神社として扱われていました。

式内社とその重み

式内社とは、927年にまとめられた全国の神社の一覧である「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」に記載された神社のことです。

この神名帳に載っている神社は、当時の朝廷から非常に重要視されており、国が管理する「官社」として認識されていました。

つまり、式内社に指定されることは、国家的に見ても重要な神社であることを意味していたのです。

名神大社に列せられた多伎神社

さらに、その中でも特に高い霊力を持つとされた神社は「名神大社(みょうじんたいしゃ)」という称号を与えられています。

名神大社は、災厄を防ぎ、国家や地域を守る重要な神社として、特別な敬意が払われていました。

多伎神社もその名神大社に指定されており、地域だけでなく全国的にも高い格式を持っていました。

県社に列せられた多伎神社

さらに、かつては「県社(けんしゃ)」という称号も持っていました。

県社とは、明治時代に神社の格式を基に制定された制度で、都道府県内で特に重要な神社に与えられる称号です。多伎神社が県社に指定されていたことからも、

愛媛県内において非常に重要な神社であり、地域の人々に深く信仰されていたことがわかります。

伊予国内神名帳に記された格式

多伎神社は「伊予国内神名帳(いよこくないじんみょうちょう)」にも記載されており、そこには「正一位 多伎不断大願大菩薩」と記されています。

「正一位(しょういちい)」は神社の位の中で最も高い位であり、これにより多伎神社が非常に重要視されていたことが明確に示されています。

「多伎不断大願大菩薩」という称号には、仏教的な要素が色濃く含まれています。

「大菩薩」という言葉は、仏教における高位の修行者や、悟りを目指しながらも他者の救済を願う存在、つまり「菩薩」を指します。

この称号が付けられていることからも、多伎神社が神道の神社でありながら、仏教と深い関わりを持っていたことがわかります。

11坊の「別当寺」が支えた信仰

かつての日本では、神道と仏教が共存していた神仏習合の時代が長く続き、多くの神社は仏教の要素を取り入れ、仏教の僧侶が神社を管理する「別当寺(べっとうじ)」が存在していました。

別当寺とは、神社と仏教の融合を体現し、神社の運営や祭祀を行う寺院のことです。

多伎神社も最盛期には多くの別当寺があり、光林寺(玉川地区)、竹林寺(朝倉地区)、歓喜寺(富田地区)をはじめとする11坊の寺院が多伎神社を支えていました。

「水・雨・風」多伎神社に祀られる三柱

多伎神社には、多伎都比売命(たきつひめのみこと)、多伎都比古命(たきつひこのみこと)、そして須佐之男命(すさのおのみこと)が、御祭神として祀られています。

「水」多伎都比売命

多伎都比売命は、古くから水の女神として崇敬されており、清らかな水を司る神です。

多伎都比売命がもたらす水は、農業や日常生活に欠かせないものであり、特に河川や湧き水、井戸といった水源の近くには多伎都比売命が祀られる神社が多くみられます。

この信仰は、自然の恵みである水がいかに重要であるかを象徴し、地域社会の生活を支えてきました。

「雨」多伎都比古命

一方、多伎都比古命は雨を司る神として知られています。

雨は古代日本の農作物にとって非常に重要な要素であり、多伎都比古命は雨乞いの儀式において中心的な役割を果たしてきました。

雨乞いの際、多伎都比古命に対する祈りが捧げられ、雨が降ることを願う儀式が行われます。

この信仰は、地域の農業や生活において欠かせない存在として多伎都比古命が崇拝されてきた背景を反映しています。

「風」須佐之男命

須佐之男命は、日本神話に登場する強力な神であり、風や嵐といった自然現象を司ると同時に、災害や災厄を鎮める役割も果たしています。

須佐之男命はしばしば荒々しい自然の力を象徴する存在とされますが、同時に、悪霊を退け、人々の生活を守る神として信仰されています。

須佐之男命はまた、八岐大蛇を退治した神話でも有名で、その勇敢な姿から、人々の間では正義の象徴としても広く崇敬されています。

地域に根づく自然信仰

これら三柱の神々が同時に祀られる神社は、自然の恵みと災害の両方に対して祈りを捧げる場所として、地域の人々に深く根付いています。

水、雨、風といった自然の力をコントロールし、豊作や生活の安定をもたらすために、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命への信仰は、今もなお強く続いています。

【創建説①】伊香武雄命と多伎宮のはじまり

創建年代は明らかではありませんが、社伝によれば、古代日本の初期天皇の一人であり、実在した可能性が高いとされる「崇神天皇(すじんてんのう)」の時代に創建されたと伝えられています。

瀧の宮のはじまりと伊香武雄命

伝説によれば、崇神天皇が統治していた紀元前97年から紀元前29年の間に、日本神話に登場する女神「鐃速日命(にぎはやひのみこと)」の六代目の孫であり、古代豪族「物部氏(もののべうじ)」の祖とされている古墳時代の豪族「伊香武雄命(いかたけおのみこと)」が、この地に「瀧の宮」という社号を奉じ、初代斎宮(神社に仕える者)となったと伝えられています。

この伝説が真実かどうかは定かではありませんが、現在でも多伎神社は「多伎宮(瀧の宮)」の名でも呼ばれ、地域の人々に親しまれています。

【創建説②】海陸を守った古代豪族・越智氏

また、別の説では、創建に伊予の古代豪族「越智氏」が関わった可能性も考えられています。

越智氏は、海上の大三島に鎮座する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を氏神として崇敬し、古代から伊予国における海陸交通と国土守護を担ってきた一族です。

多伎神社は、こうした越智氏の信仰圏に位置しており、大山祇神社の海上祭祀を補完する陸上の拠点として、また地域の鎮守として祀られたのではないかと考えられています。

実際に、古代伊予国のこの地域は小市国造(おちのくにのみやつこ)によって治められ、「小市国(おちのくに)」と呼ばれていました。

さらに、多伎神社の境内には越智氏を祀る越智社も存在しており、地域と氏族との深い結びつきを今に伝えています。

【創建説の謎】越智氏と物部氏、二つの起源

はたして、多伎神社の創建には本当に越智氏が関わっていたのでしょうか。

詳細な記録は残されていないものの、いくつかの説からその可能性が浮かび上がってきます。その中の一つが、越智氏のルーツは物部氏にあるとされるものです

物部氏は、古代日本において武器の製造・管理、そして軍事を司った有力な豪族であり、その勢力は大和朝廷を支える中核として、伊予国をはじめ全国各地に広がっていました。

その中で、物部氏の一族である小致命(子到命・おちのみこと)が、伊予国の一部である小市国(おちのくに)に派遣され、小市国造(おちのくにのみやつこ)に任じられたと伝えられています。

小致命とその子孫たちはこの地に根を下ろし、やがて小市国は時代の流れとともに「越智郡(おちぐん)」と呼ばれるようになりました。

そこから発展したのが、のちに伊予国一帯で勢力を誇った越智氏であると考えられています。

多伎神社が鎮座する朝倉地区も、かつてはこの越智郡に属する朝倉村の一部でした。

朝倉村は、平成17年(2005年)に今治市と合併するまで、長らく越智郡に属しており、この地において越智氏、ひいては物部氏の影響が色濃く残っていたことを物語っています。

こうした歴史的背景をふまえると、多伎神社の創建や信仰の広がりに、越智氏、さらにはそのルーツである物部氏が何らかの形で関わっていた可能性は十分に考えられます。

越智氏は物部氏ではない?『予章記』にみる起源伝承

一方で、中世に伊予の国を拠点に栄えた越智氏一族、河野氏が記した『予章記(よしょうき)』や、越智氏・河野氏の系図には、越智氏が物部氏系ではないとする記述も見られます。

これらによれば、越智氏は孝霊天皇の皇子である伊予皇子(いよのみこ/彦狭島尊〈ひこさしまのみこと〉)の子、小千御子(おちのみこ)を祖としており、この小千御子が「越智」の氏を称して、伊予地方での越智氏の統治が始まったと伝えられています。

越智氏の起源と歴史のロマン

はたして、越智氏は物部氏の血脈を受け継いでいたのでしょうか。
それとも、皇統に連なる独自の一族として成り立ったのでしょうか。

また、彼らは、どのように伊予国の信仰や政治に関わり、この地の歴史を形づくっていったのでしょうか。

その答えはいまだ明らかではありませんが、越智氏、そして伊予国を巡る物語には、今もなお、尽きることのない歴史的ロマンが秘められています。

「フスベ岩」多伎川と磐座信仰

多伎神社の歴史は古代日本における自然崇拝、神々が巨岩や山などに宿ると信じられた「磐座(いわくら)信仰」から始まったとされています。

この地における磐座信仰の中心は、多伎川を約1kmほどさかのぼった山の頂に鎮座する「フスベ岩」という巨岩でした。

この岩は「川上巌(かわかみのいわお)」「川上岩」とも呼ばれ、太古の昔から神聖視されてきたと伝えられています。

現在、この巨大な岩は、「境外摂社(けいがいせっしゃ)」「磐座神社(いわくらじんじゃ)」として祀られ、この神社の外に位置する磐座は、「奥の院」とも呼ばれ、神社の中心的な信仰の一部を担っています。

どっちの氏神? 岩に託された祈り

フスベ岩にはある伝承が伝わっています。

かつて多伎神社は、朝倉郷と高市郷、両方の氏神として人々の信仰を集めていました。

しかし、時代が進む中で「この神社は、どちらの郷の氏神と定めるべきか」という問題が持ち上がります。

人々は頭を悩ませ、長い議論を重ねた末、ひとつの答えにたどり着きました。

「神聖な奥の院にあるフスベ岩が向いている方角によって、氏神を決めよう」

そして翌朝。
人々がフスベ岩を見に行くとその巨岩は、高市郷の方角を向いていたのです。

こうして、多伎神社は正式に高市郷の氏神として祀られることになりました。

すると、その巨岩は、高市郷の方角を向いていたのです。

こうして、多伎神社は正式に高市郷の氏神と定められ、以来、今日に至るまで高市郷の人々に深く信仰され続けています。

雨を呼ぶ神聖なフスベ岩

「フスベ岩」は、古くから日照りや干ばつが続く時に雨を呼ぶ神聖な場所として信仰されていました。この中で、巨石の下にある洞窟から大蛇が現れ、雨を降らせるという伝承が伝わっています。

日照りが長く続くと、人々はこの岩の前で木の葉を燃やして「ふすべる」、つまり「いぶす」(煙をかける)という儀式を行いました。

この儀式を行うと必ず雨が降ると信じられ、地域の人々にとって大切な祈りの場として守られてきたのです。

江戸時代には、多伎神社は今治藩の祈願所としても重要な役割を果たしていました。祈願は一週間(7日間)にわたって行われ、前半は本殿で、週の後半は「フスベ岩」で特別な儀式が非常に厳粛に執り行われました。

この雨乞いの儀式が終わると、必ず雨が降ったといわれています。

多伎神社はの不思議な力は地域を越えて広く知られ、港町からも参拝者が訪れるほどで、多伎神社は地域社会にとって欠かせない存在となりました。

病を癒す神秘の霊水

奥の院に鎮座する磐座から湧き出し、神社の前を流れる多伎川の水は、古代より霊水として篤く信仰されてきました。この霊水を飲んだり、体に塗ったりすることで、病が癒え、怪我が治ると伝えられています。

この神秘の水の力は広く知られるようになり、地元のみならず、遠方からも多くの参拝者がこの神聖な水を求めて訪れるようになりました。

その水は、農業用水としても地域の生活を支える重要な役割を果たし、上流から取水される多伎川の水は、作物の成長を助け、地域の豊かな農業を支えてきました。

御手洗川の霊水

また、社殿の前を流れる御手洗川も、古くから霊水として神聖な力が宿っていると信じられています。

参拝者は、この御手洗川の清らかな水で手や口を清め、心身を清めたうえで神前に進み、神のご加護を得ようとしてきました。

戒めとして伝わる教え

一方で、これらの霊水を不注意に扱ったり、敬意を欠いた行為を行った者が、神罰を受けて病気や不幸に見舞われたという戒めも残されています。

「多伎神社の起源」水と雨の神

このように、多伎神社における信仰の中心には、古代から「フスベ岩」をはじめとする磐座(いわくら)信仰が深く根づいていました。

実際、多伎神社は「多伎宮(瀧の宮)」という別名で呼ばれることもありますが、他にも「滝の神」と称されることがあります。

「滝の神」や「瀧(滝)の宮」という呼び名の由来については、多伎川に滝が多かったからではなく、フスベ岩が位置する「嶽・岳(たけ)」という山の呼び名が、時を経て「タキ」と訛ったのではないかという説が伝わっています。

これは磐座信仰に深く結びついたものであり、多伎神社に祀られている、多伎都比売命や多伎都比古命といった神々もこれに由来すると考えられます。

磐座信仰から始まる多伎神社の信仰

磐座信仰とは、山や岩そのものを神聖な存在とし、神が宿る場所として崇拝する古代の自然崇拝の一形態であり、
多伎神社に祀られている神々は、水や雨を司る存在とされ、土地の自然と密接に結びついた信仰を今に伝えています。

つまり、多伎神社の起源は、もともと多伎都比売命や多伎都比古命といった神々を磐座に祀ったことに始まり、その後になって「須佐之男命(すさのおのみこと)」が勧請されたと考えられるのです。

陰陽石に秘められた信仰

こうした古代の自然崇拝の面影は、現在の多伎神社の境内にも色濃く残されています。

その象徴ともいえるのが、古代から信仰されてきた二つの陰陽石「松茸石(まつたけいし)」と「杯状穴(はいじょうけつ)」です。

陰陽石とは?性信仰と自然崇拝の象徴

陰陽石(いんようせき)とは、古代から続く性信仰に基づき、男女の性器を象徴する石で、陰(女性性)と陽(男性性)の力を表し、生命の誕生や繁栄を願う象徴として、古代より日本各地で広く信仰や俗信の対象とされてきました。

これらの石は、自然の岩が偶然にも男性器や女性器に似た形をしている場合もあれば、人の手によって意図的にその形に整えられたものも存在します。

自然そのものを神聖視していた古代の人々にとって、こうした特徴を持つ石は特別な霊力が宿るものと考えられたのです。

多くの場合、陰(女性)と陽(男性)の石が対になって祀られ、両方のエネルギーを調和させることで、豊かな子孫繁栄や五穀豊穣、地域全体の繁栄を祈願する場とされました。

中には、男性性のみを表す陽石(ようせき)単独で祀られる例もあり、特に子宝祈願や力強い生命力を求める願いが込められていました。

道祖神信仰と陰陽石の関係

陰陽石は、村の境界や峠、田畑の中など、外界との結界や地域の守りとしても設置されることがあり、道祖神(どうそじん)信仰と結びつくことも少なくありませんでした。

道祖神は、旅の安全や外敵・災厄から村を守る神であり、その神体として陰陽石が選ばれている例も数多く見られます。

陰陽石に込められた祈り

陰陽石には「金勢(こんせ)大明神」や「子種石」「子孕(こはらみ)石」などの名称がつけられることがあります。

これらの名称は、それぞれ男性性の強さや子宝に関連する願いが込められており、古代から人々の切実な祈りの対象となってきました。

また、子宝を祈願するための石として農村や畑に祀られ、豊作祈願の対象とされるものもあります。こうした石は、日本全国に広く分布しており、地域によって信仰のあり方や呼び名に違いが見られます

特に農村部では、陰陽石は単なる子宝祈願にとどまらず、作物の実りを願う豊作祈願の対象としても大切にされてきました。

田畑の片隅や集落の境界に祀られ、自然の恵みをもたらす存在として崇められていたのです。

こうした陰陽石は、日本全国に広く分布しており、地域によって信仰のあり方や呼び名にも違いが見られます。

多伎神社でも、陰陽石に対する信仰が息づいており、生命力の象徴として、また子孫繁栄や五穀豊穣を祈る対象として、古くから人々の祈りが捧げられてきました。

陽の石「松茸石」に宿る霊力

陽(男性)を象徴する石「松茸石(まつたけいし)」は、見た目からも男性性を表す形をしており、多伎川の清らかな流れに架かる石橋「八雲橋」を渡った先、神社の入り口付近に鎮座しています。

この松茸石には、今治藩主にまつわる興味深い伝説が語り継がれています。

江戸時代のある日、今治藩主は松茸石を江戸の藩邸へと運ばせるよう命じました。
しかしその後、藩主の夫人が急に重い病に倒れてしまいます。

治療を施しても一向に回復せず、困り果てていたところ、夢占いによって「松茸石が元の場所、多伎神社に帰りたがっている」という啓示を受けたといいます。

そこで藩主は急ぎ松茸石を江戸から多伎神社へと戻しました。
すると不思議なことに、夫人の病はたちまち快復し、健康を取り戻したと伝えられています。

この出来事は、松茸石が持つ神秘的な力を証明するものとされ、以降、松茸石は強い霊力を宿す神聖な石として、今治の人々の間で広く信仰されるようになりました。

多伎神社を訪れる参拝者は、まず八雲橋を渡り、この松茸石に手を触れたり祈りを捧げ、
健康や家庭の幸福、子孫繁栄を願います。

松茸石は、単なる信仰の対象を越えて、地域の歴史と伝説を今に伝える特別な存在となっているのです。

そして境内をさらに進むと、もう一つの陰陽石「杯状穴(はいじょうけつ)」が静かに佇んでいます。

隠の石「杯状穴(性穴)」

隠(女性)を象徴する石「杯状穴(はいじょうけつ)」は、多伎神社の参道沿い、石鳥居の近くにひっそりと鎮座しています。

別名「性穴」とも呼ばれ、弥生時代から現代に至るまで、長い歴史を持つ文化遺産として大切にされています。

杯状穴は主に女性たちの祈願を受ける場所とされ、子宝や安産、家庭の繁栄、子供の健やかな成長を願う象徴的な場となっています。

この杯状穴は、主に女性の祈願を受ける場であり、子宝や安産、家庭の繁栄を願うための象徴的な場所として崇拝されています。

一説によると、戦場や遠方に赴いた男性たちの無事な帰還を祈るため、女性たちが小石で石の表面を叩きながら願掛けを続けた結果、自然に彫り込まれていった「たたき穴」だともいわれています。

石に触れながら願いを込めて刻まれた穴は、祈りが続けられることでさらに深くなり、世代を超えて祈願の場として受け継がれてきました。

このような形態の石は、日本各地で「盃状穴」「盃状石」と呼ばれ、特に子宝祈願や生命の誕生、家庭円満を願う信仰の対象とされてきました。

杯状穴に込められた願いは、単なる物理的な窪みではなく、古代から続く人々の祈りそのものであり、今なお静かに息づいています。

「禰宜屋敷古墳群」

杯状穴の近くには、現在6基が確認されている「禰宜屋敷古墳群(ねぎやしきこふんぐん)」という古代遺跡があります。

なかでも1号墳は、近代に道路工事が行われた際、墳丘の一部が失われたことで、横穴式石室の石積みが露出し、古代の埋葬構造を直接見ることができる貴重な遺跡となりました。

この1号墳は、無袖型の横穴式石室であり、石室の全長は約7メートル、幅は約2メートル、天井の高さは約2メートルと推定されています。墳丘の直径は約13メートル、高さは3~4メートルに及び、主軸は北東30度の方角を向いています。

また、墳丘からは、須恵器や土師器、直刀、轡(くつわ)、鉄鍛、装身具といった、当時の葬送儀礼や社会的地位を示す重要な副葬品が数多く出土しました。

これらの出土品は、現在、朝倉ふるさと美術古墳館に展示されており、訪れた人々は、古代の文化や人々の営みを間近に感じることができます。

「多伎神社古墳群」

もう一つ忘れてはならないのが、多伎神社の背後に広がる山麓一帯に点在する約30基に及ぶ「多伎神社古墳群(たきじんじゃこふんぐん)」です。

この古墳群は、6世紀から7世紀にかけて築かれたと推定され、
東西約300メートル、南北約100メートルという広大な範囲にわたって分布しています。

多くは円墳であり、内部には玄室と羨道からなる横穴式石室を備えています。これは、古墳時代後期を代表する埋葬形式で、当時の人々の葬送文化や社会構造を今に伝えています。

「高麗式墳」

そのなかでも特に貴重なのが、「高麗式墳(こうらいしきふん)」と呼ばれる大型の古墳です。

高麗式墳は、比較的小型の自然石を隙間なく積み上げて築かれた横穴式石室を内部に持つ古墳で、当時の高度な石積み技術と、丁寧な造営作業の跡が今もはっきりとうかがえます。

墳丘の規模は周囲の古墳群と比べても際立って大きく、この地域を支配していた有力豪族や、その一族の墓であったと考えられています。

高麗式墳からは、須恵器や土師器、直刀、轡(くつわ)、装身具など、古代の生活や葬送文化を今に伝える貴重な副葬品が出土しており、昭和34年(1959年)には愛媛県指定の文化財として認定されました。

これらの出土品も禰宜屋敷古墳群と同じく、朝倉ふるさと美術古墳館に収蔵され、展示されています。

「笠鉾祭り」

このように多伎神社は、古代から現代に至るまで、自然への畏敬と、地域の暮らしに根ざした信仰を大切に守り続けてきました。

その象徴のひとつが、毎年5月1日に行われる「笠鉾祭り(かさぼこまつり)」です。

この祭りは、300年以上の歴史を誇る由緒ある行事で、 笹竹に子どもの衣装をまとわせた「笠鉾」を手に持った参拝者たちが、 「マーマイソ・カーカイソ 牛馬が繁盛するように」などと唱えながら、 殿内を3周し、さらに社殿の周りを1周巡る独特の儀式が行われます。

祭りの起源と願い

かつて農業が生活の中心だった時代、牛馬は農作業に欠かせない存在で、牛馬の健康は、豊かな収穫、ひいては地域の安定した暮らしに直結していました。

笠鉾祭りは、そんな牛馬の無病息災と疫病除けを祈るために始まったと伝えられています。

時代の流れとともに、この祭りに込められる願いは、牛馬だけでなく、家族の健康、家内安全、五穀豊穣などへと広がっていき、地域の人々の絆を深める大切な行事となりました。

古代から現代へ「多伎神社の歴史」

最後に、これらを踏まえた上での多伎神社の歴史を紹介します。

古代

弥生時代、この地にはすでに人々の集落が営まれていました。
多伎川の清らかな水の恵みを受け、稲作や農耕が盛んに行われていたことがうかがえます。

当時の人々は、山や川、岩といった自然物そのものに神が宿ると信じ、自然への畏敬と感謝の念を込めて、祈りを捧げていました。

多伎神社の境内には、弥生時代後期の集落跡や、穀物を保存するための地下貯蔵庫跡が残されており、この地に根づいた豊かな農耕文化と定住生活の痕跡を今に伝えています。

また、境内周辺には50基以上の多伎宮古墳群が広がっており、これらは弥生時代末期から古墳時代にかけて、この地を治めた有力者たちの墓とされています。

初期の祭司(神に仕える者)も、こうした有力者層から輩出され、集落と神聖な場を守る存在として、地域に深く根づいていたと考えられます。

平安時代

平安時代の貞観年間(859年~877年)には、多伎神社は神階(神社に与えられる格付け)を授かり、古くから地域での篤い信仰を集めるようになりました。

この時期、多伎神社は、地域社会にとって重要な役割を果たしていました。

その理由の一つとして、多伎神社が国府(地方の行政の中心)に近い位置にあったことが挙げられます。

国府に近い神社は、地域の信仰と政治的な結びつきが強く、多伎神社もその例外ではなく、広く信仰を集めていました。

さらに、神社が所有する神田(神社が持つ田地)は、この時期に大きく拡大されました。わずか十年余りの間に神田の広さは倍増し、神社は豊かな経済的基盤を築くことができました。

これにより、多伎神社は地域の信仰だけでなく、経済的な力も持つようになり、その影響力を高めました。

延喜年間(905年〜923年)には、多伎神社はさらに格式を高め、明神大社の称号を与えられました。

これにより、皇室からも特別な待遇を受けるようになり、長い間、皇室や地方の権力者たちからも篤い信仰を集めました。

そして時代が進むにつれ、多伎神社は、国司(地方の役人)や守護職(軍事や治安の責任者)、そして藩主たちの信仰の中心としても重要な役割を果たしていきます。

江戸時代

江戸時代の多伎神社は、今治藩主や地域の政治的指導者から篤い信仰を集めており、特に干ばつが発生した際には藩主の依頼を受けて雨乞いの祈願が行われました。

この頃の多伎神社は、11の別当寺を有し、非常に広い神領を管理していました。

これにより、多伎神社は単なる宗教施設を超えて、地域の信仰と経済を支える中心的存在として重要な位置を占めていました。

明治時代

明治時代になると、神社の制度が再編され、多伎神社は明治4年(1871年)に郷社に列せられました。さらに、明治13年(1880年)には、さらに格式を上げて県社に格上げされました。

古代より続く祈りの地

のように、多伎神社は、弥生時代から連綿と続く長い歴史と、その間に培われた深い信仰、そして地域社会における経済的な影響力を併せ持つ、極めて重要な神社です。

時代が移り変わっても、豊かな自然とともに生き、神々に祈りを捧げる人々の心は、絶えることなく受け継がれてきました。

現在でも、多伎神社は、古代からの歴史と伝統を静かに守り続け、地域の人々にとって、かけがえのない「祈りの場」として篤く信仰されています。

神社名

多伎神社(たきじんじゃ)

所在地

今治市古谷乙47番地

電話

0898-22-3393

主な祭礼

祈年祭(4月10日前後)・ 例大祭(5月5・6日)・ 輪越祭(7月28日) ・秋祭り(10月第4土・日曜日) ・新嘗祭(12月第3日曜日)

主祭神

主祭神 須佐之男命(すさのをのみこと)・ 多伎都比売命(たきつひめのみこと) ・多伎都比古命(たきつひこのみこと)

境内社

天満神社: 高市郷の総鎮守。相殿に大巳貴命、山之神、御鉾神、鷹取神(城主正岡紀伊守)。 一宮神社: かつては古谷村の氏神社(明治末年に現在地へ移築)。 清水社 越智社 大仲社

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