日蓮正宗の寺院「実正寺(じっしょうじ)」は、昭和48年11月16日に、日蓮正宗の総本山である静岡県富士宮市の大石寺の第66世法主、日達上人によって開かれました。実正寺は、今治市での日蓮正宗の信徒にとって、信仰の中心地として重要な役割を果たしています。
実正寺が誕生した背景には、日蓮正宗と創価学会の関係が深く関わっています。
「法華経」日蓮正宗の歴史
日蓮正宗は、13世紀に日蓮大聖人が仏教の教えを説いたことに始まります。日蓮大聖人は、1253年に「南無妙法蓮華経(法華経)」という教えを宣言し、これを仏法の中心としました。この教えは、仏教経典の中でも「法華経」が最も重要であり、仏教の真理を伝えていると信じるものです。
法華経は、全28品からなる教典で、釈迦が説いたとされる教えが中心です。特にこの経典では、「一切衆生が仏になる可能性を持っている」という教えが強調されており、全ての人が仏の悟りを得られることを示しています。この教えは「一乗思想」とも呼ばれ、「万人が仏の道に進むことができる」という普遍的な救済の理念を表しています。
日蓮大聖人は、この法華経こそが仏教の核心であり、他のどの仏教経典よりも優れていると主張しました。そして、「南無妙法蓮華経」を唱えることが悟りへの唯一の道であると説きました。日蓮正宗においては、この法華経に基づく信仰が中心となり、題目である「南無妙法蓮華経」を唱えることが、最も重要な修行法とされています。この唱題の行為によって、信徒は悟りの境地へと導かれると信じられており、日々の修行の柱となっています。
日蓮大聖人の死後、この教えは弟子たちに引き継がれましたが、その中でが正統な後継者として選ばれたのが「日興上人(にっこうしょうにん)」です。日興上人は、1289年に静岡県富士宮市の富士上野に大石寺を建立し、日蓮大聖人の教えを広めるための拠点を作りました。この大石寺は、日蓮正宗の中心的な寺院となり、以降、日蓮正宗の教えはここを中心に伝えられていきました。
しかし、日蓮正宗は長い間、全国的には小規模な宗派でした。仏教界では他の宗派、さらに言えば日蓮宗の中でも多くの派閥があり、日蓮正宗はその中の一つのカテゴリーという位置付けでした。
日蓮正宗が大きく広まったのは、20世紀に入ってからのことです。昭和初期に誕生した創価学会が、日蓮正宗の信仰を全国に広める役割を果たし、これが大きな転機となりました。
創価学会と日蓮正宗の関係
創価学会は、1930年(昭和5年)に牧口常三郎氏によって「創価教育学会」として設立されました。当初、創価教育学会は宗教団体ではなく、教育を通じて社会をより良くすることを目指す教育団体として活動していました。
牧口氏は、「価値創造教育」という理念を掲げ、子供たちに価値観を教えることで、より良い社会を作ろうと試みました。この教育理念が創価教育学会の出発点となり、後の創価学会の根幹にもつながる重要な思想でした。
やがて、牧口氏は日蓮正宗の教えに深く共鳴し、創価教育学会を教育だけでなく、宗教的な要素を取り入れた組織へとシフトさせていきます。
しかし、1940年代に入ると、日本国内では軍部の思想統制が強まり、特に宗教や思想活動に対する取り締まりが厳しくなりました。この影響で創価教育学会も弾圧の対象となり、1943年(昭和18年)に牧口常三郎氏と戸田城聖氏が治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕されました。牧口氏は、天皇崇拝を強制する教育政策に反対したことが逮捕の理由とされています。
この逮捕を受け、創価教育学会の活動は一時的に停止状態に陥りました。そして、1944年(昭和19年)11月18日、牧口常三郎氏は獄中で亡くなりました。
戦後になると、戸田城聖氏が第2代会長となり、1946年(昭和21年)、創価学会は「創価教育学会」から「創価学会」へと名称を変更して再出発しました。以降、創価学会は日蓮正宗と深く結びつき、日蓮正宗の信徒団体としての役割を担うようになります。
戸田城聖氏は、創価学会を日蓮正宗の教えに基づく団体として発展させ、会員に対しても日蓮正宗の教義を忠実に守るよう指導しました。特に「南無妙法蓮華経」を唱えることを強調し、日蓮大聖人の教えに従って社会に信仰を広める活動に力を注ぎました。
創価学会が宗教法人として認められたのは、1952年(昭和27年)のことです。この際、創価学会は日蓮正宗の教えに基づく団体であることを正式に確約し、日蓮正宗の教義に従って活動することを約束しました。これは、宗教法人として認定されるための重要な条件でした。
この時、創価学会の規則には、「この法人は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき信仰する団体である」と明記されました。つまり、創価学会は日蓮正宗の教えを忠実に守り、日蓮正宗の一部として活動することを正式に定めていたのです。
この確約に基づき、創価学会は日蓮正宗の教義を広めるために積極的な布教活動を展開し、日蓮正宗の教えを多くの信徒に伝える役割を担いました。新たに創価学会が獲得した信徒は、日蓮正宗の各寺院に所属し、日蓮正宗の教えに基づいた信仰生活を送ることになりました。こうして、創価学会は日蓮正宗を支える強力な信徒団体として、宗門に多大な影響を与える存在となっていったのです。
実正寺の設立と創価学会
こうした流れの中で実正寺は、昭和48年(1973年)に創価学会の資金提供に実正寺が建てられました。
この時期、創価学会は日蓮正宗を支援するために全国各地で多くの寺院を建設しており、実正寺もその一環として建てられた寺院の一つでした。実正寺は、愛媛県今治市および越智郡に住む日蓮正宗の信徒にとって、日蓮正宗の教えを学び、信仰を深めるための重要な拠点となりました。
しかし、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、創価学会と日蓮正宗の関係は次第に悪化し、特に1979年に阿部日顕が法主になった後、両者の対立が深刻化しました。
そして1991年11月には、日蓮正宗は、創価学会が教義を守らず、さらに盗聴など反社会的な行動を取っているとし、創価学会を破門しました。
この破門によって、長年続いていた創価学会と日蓮正宗の関係は完全に断たれました。
さらに、同じく日蓮正宗の信者団体として1957年に発足した「妙信講(現:顕正会)」も、創価学会と同様に日蓮正宗との間で対立を深めました。妙信講は、当初は日蓮正宗の信徒組織として日蓮正宗の教えを広めるための活動を行っていましたが、やがて教義の解釈や運営方針を巡って、創価学会と対立し始めました。
1974年には、妙信講(現在の顕正会)の信者たちが、東京・信濃町にある創価学会本部を襲撃するという事件まで発生しました。この事件では、約70人の信者が街宣車を使って創価学会本部に突入し、大乱闘に発展しました。その結果、12人の信者が逮捕されるという事態となり、日蓮正宗内で大きな問題となりました。
この事件を受け、日蓮正宗は1974年8月に妙信講を「講中解散処分」とし、組織を解散させました。これにより、妙信講は日蓮正宗との関係を完全に断たれることとなり、以降「顕正会」として独自の活動を展開していきました。
こうして、顕正会も創価学会と同じく、日蓮正宗から分かれた団体となり、それぞれが独自の信仰路線を歩むこととなりました。日蓮正宗との決別後、顕正会は創価学会と同様に、独自の活動や教えを展開していくことになったのです。
現在の実正寺
このように、現在の日蓮正宗は、顕正会や創価学会とは完全に異なる信仰の道を歩んでいます。実正寺もこの中で創価学会と決別し、日蓮正宗の教義を忠実に守りながら、地域の信徒が集まる重要な拠点として機能しています。