「美保神社・町谷(みほじんじゃ)」は、大正15年(1926年)に再築された歴史を持つ神社で、もともとは集落の中央道路沿いに建立された一小祠(しょうし)から始まりました。この小祠は地域の守護神として、集落の発展に伴い、その重要性を増していき、やがて現在の美保神社へと成長しました。地域の人々は、この神社を崇敬し、日々の生活や地域の繁栄を願いながら祈りを捧げてきました。その歴史と信仰は、今も変わらず受け継がれています。
事代主神と神話的背景
美保神社は主祭神として事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀っています。
事代主神は、日本神話に登場する大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子神であり、海や漁業、農業、商業を守護する神として広く信仰されています。「事代主」という名には、「言葉によって事を治める主」という意味が込められ、調停や導きを行う神格が表されています。
事代主神は「国譲り神話」において、非常に重要な役割を果たしています。
日本神話において、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原(たかまのはら)という天上の国を統治していました。しかし、天照大御神は、地上の豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)を自らの子孫に治めさせたいと考えました。この地上を治めていたのは、大国主神(おおくにぬしのかみ)でした。
天照大御神は、大国主神に地上の国を譲るよう要請するため、使者を次々と派遣しました。しかし、最初の天菩比神(あめのほひのかみ)や次の天若日子命(あめのわかひこのみこと)は任務を果たさず、長い時間が過ぎました。
そこで、天照大御神は最後の使者として建御雷神(たけみかづちのかみ)を派遣します。建御雷神は出雲の稲佐の浜に降り立ち、大国主神に国を譲るよう求めます。大国主神は自分一人で決断できないとして、息子の事代主神に相談するよう言いました。
事代主神はこのとき、島根県美保崎(現在の島根県松江市美保関町)で釣りをしていました。天照大御神の使者が来ると、事代主神は即座に「この国は天照大御神の御子に捧げるべきです」と答え、国譲りを承諾しました。そして、自分は天逆手(あめのむかえで、拍手)を打ち、船を青柴垣(あおしばがき)に変えてその中に隠れました。この事代主神の決断によって、平和的な国譲りが成し遂げられたのです。
事代主神の弟である建御名方神(たけみなかたのかみ)は、この国譲りに反対し建御雷神と力比べをしますが、最終的に敗北し、国を譲ることに同意しました。
国を譲ることに決まったものの、大国主神は一つの条件を提示しました。それは、自分のために立派な御殿を建ててもらうことでした。建御雷神はその条件を受け入れ、出雲国に大きな御殿が建てられました。この御殿が現在の出雲大社であるとされています。
事代主神の役割と意義
この国譲りの神話は、日本の国の成立を象徴するものであり、天照大御神の子孫による統治が始まる重要な節目となります。事代主神の役割は、争いを避けて知恵と判断によって問題を解決することを象徴しています。この判断は、日本の神話における「平和的な力の移行」という理想を体現しており、後の天孫降臨や神武東征へとつながっていきます。
「美保神社」事代主神の信仰と広がり
事代主神は、国譲りの神話の中で釣りをしていたことから、釣りの神として知られるようになり、その後、に海や漁業に深く関わる豊漁の神としても崇められるようになりました。さらに、この漁業に関連する神格が転じて、商売繁盛の神としても広く信仰されるようになり、七福神の恵比寿(えびす)様とも同一視されるようになりました。
さらに、恵比寿様としての信仰が広まる過程で、農業の収穫祈願や五穀豊穣も信仰の対象に加えられ、海や漁業だけでなく、土地や農作物の神としても篤く祀られるようになりました。
事代主神が釣りをしていたとされる島根県松江市保関町には、全国に約3,000社ある恵比寿神社(事代主神を祀る神社)の総本社「美保神社」があります。
毎年行われる「青柴垣神事」は、海に関連する伝統的な祭事の一つであり、豊漁や航海安全を祈願する大切な行事です。このような祭事を通じて、事代主神への信仰は現在も地域社会に深く根付いており、海上活動を支える象徴的な存在となっています。