「八幡神社・新谷(みしまじんじゃ)」は、保延元年(1137年)8月15日に、当時伊予国(現在の愛媛県)の国司であり、豪族として名を馳せていた河野親清(かわの ちかきよ)が、京都の石清水八幡宮から八幡大神を勧請して創設された、歴史深い神社です。
この神社の創設にあたって、元々この地に祀られていた海の神様「宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐津姫命)」を祀る「姫宮神社」が合祀されました。これにより、地元の信仰を引き継ぎつつ、新たに八幡大神が加わり、地域に根付く神社として機能するようになりました。
八幡神社の主祭神は天皇?
八幡神社の主祭神である八幡大神は、別名「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」と呼ばれています。この品陀和気命とは、古代の歴史書である『日本書紀』や『古事記』などに記されている天皇、すなわち応神天皇の神名です。
応神天皇は、実在したとされる最初の天皇であり、その治世は日本の歴史において非常に重要な時期と考えられています。
応神天皇の時代は、朝鮮半島との交流が特に活発で、百済などの国々から仏教や先進的な技術が日本に伝えられた時期と重なります。この時代の文化的交流は、日本国内での政治や経済、さらには宗教の発展に大きな影響を与えました。特に仏教の導入は、後の日本文化に深く根付くこととなり、応神天皇はその受け入れに積極的だったと伝えられています。
また、応神天皇は国家の繁栄と文化の発展を推し進めたことでも知られています。その治世において、農業技術や建築技術が向上し、国内の経済基盤が強化されました。
このような素晴らしい業績が後の時代に高く評価され、死後に「八幡大神」として神格化されました。
戦国時代において「武神」と源氏
戦国時代において、八幡大神は「武神」として武士階級にとって非常に重要な存在で、多くの武士が戦の勝利や武運を祈願するために八幡大神を崇敬し、全国に多くの八幡神社が建立されていきました。
このような爆発的な信仰の背景には、源氏の存在が大きく影響しています。八幡大神は古くから源氏の氏神、つまり氏族にゆかりのある神様として、源氏一族にとって特別な意味を持つようになっていたのです。
石清水八幡宮の創建
貞観元年(859年)には、源氏の祖にあたる清和天皇が宇佐神宮から八幡大神を分霊し、現在の京都府八幡市に「石清水八幡宮」を創建しました。この創建は、奈良の大安寺の僧である行教が、八幡社の総本宮である宇佐神宮で受けた神託を朝廷に報告したことが、石清水八幡宮の創建の実現につながったとされています。
その神託とは、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん(私は都が近い、石清水寺の峯に移って、乱を鎮めて外的、災難から国家を守りたい)」という内容でした。
神仏習合と宮寺形式
石清水八幡宮は、石清水寺の境内に作られたため、この場所は寺と神社が一体となった神仏習合の宮寺形式を持つようになりました。
この形態は、日本の宗教文化において重要な特徴を示しており、八幡大神が武士たちにとって信仰の対象であると同時に、地域の人々にとっても重要な守護神としての役割を果たす場となりました。
石清水八幡宮は、清和天皇の子孫であり、臣籍降下して武士となった清和源氏にとって、重要な氏神として崇められるようになりました。
応神天皇と「八幡大菩薩」
このように、「武神」として武士たちに信仰されていた一方で、地域住民にとっても守護神として崇拝されていました。
さらに、神仏習合が進む中で、八幡神を本地とした菩薩「八幡大菩薩」としても崇められるようになりました。このようにして、八幡大神は武士階級と地域の人々の両方にとって重要な信仰対象となり、時代を超えて信仰が続いていきました。
源氏 武神としての信仰
1046年(永承元年)には、「源義家(みなもと の よしいえ)」が石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と名乗りました。源義家は、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の祖先であり、「天下一の武勇の士」と称されました。義家は「前九年の役」や「後三年の役」で武功を挙げ、その名は広く知られるようになりました。このため、八幡こと石清水八幡宮も武神として信仰されるようになったのです。
さらに、源頼朝も八幡信仰を重視し、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に八幡大神を迎えて「鶴岡八幡宮」を建立しました。この神社は源氏の守護神としての役割を持ち、頼朝の家臣である御家人たちも鶴岡八幡宮を訪れるようになりました。
これにより、八幡大神は武家の守護神「武神」としてますます崇拝される存在となり、その信仰が広がりました。
河野氏と越智氏、そして源氏の繋がり
ちなみに、「八幡神社・新谷」の創設に関わった河野親清も、源氏の流れを汲む重要な人物であり、源頼義の四男にあたります。
親清は、伊予国の有力豪族「越智氏」によって養子として迎え入れられ、その後の越智氏は伊予国の風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)にある高縄山城を拠点とし、この時期に「河野」を姓として名乗り始めました。
こうして越智氏から河野氏へと転じた一族は、源氏の血統を引き継ぎ、中央政権との強力なパイプを持つことで、伊予国での影響力を強めていきました。
河野親清も、河野氏の一族として活躍し、地域の発展に貢献しました。その中で、源氏との繋がりを活かし、石清水八幡宮から八幡大神を勧請して「八幡神社・新谷」を創建しました。
この創設は、親清の信仰心と地域社会への貢献の象徴であり、八幡神社は地域の守護神としての役割を果たすこととなりました。
八幡神社の変遷と現代の役割
このように、八幡神社は刀や弓を持つ武士の時代から「武神」として信仰されてきましたが、その信仰は時代を経てさらなる広がりを見せました。第二次世界大戦中には、兵器を持つ兵士たちもまた、戦場へ赴く前に八幡神社を訪れ、安全と勝利を祈ったのです。
兵士たちにとって、八幡大神、特に応神天皇は心の支えとなり、神社での祈りは精神的な安定を与えるものとなっていました。
しかし、終戦後の日本は平和を重んじる社会へと大きく変化しました。この社会的変容は、八幡信仰にも大きな影響を与え、応神天皇のイメージは「武神」から日常生活に寄り添う神様へと変化していきました。
そして今日の八幡神社は、教育や縁結び、家庭の安全を願うための場として広く利用されています。学生たちは学業成就を求めて参拝し、恋愛や結婚を考えるカップルは良縁を願って訪れます。また、地域住民は家庭の安全や健康を祈るために足を運び、八幡神社は日常生活の中で多くの人々に親しまれる存在となっています。
現代では「八幡さま」として祀られる神社は全国に約4万社もあり、日本のどこにでも見られる身近な神様として信仰されています。これは、八幡大神が古代から現代まで続く日本の宗教文化において、特別な役割を果たしていることを示しています。
八幡神社・新谷もその中の一つで、単に河野氏との歴史的な結びつきだけでなく、伊予国の歴史や文化を象徴する重要な神社としての役割を果たし続けています。