「三島神社・四村(みしまじんじゃ)」は、今治市に鎮座する他の「三島神社(三嶋神社)」と同様に、越智氏(おちうじ)が大三島から大山積命(おおやまつみのみこと)を勧請したことから始まります。
大山積命とその信仰
越智氏は、古代日本において有力な豪族の一族で、当時の瀬戸内海の小市国(現在の今治市周辺)を治めていました。
瀬戸内海沿岸は、古代日本において交通と経済の要所であり、農業や漁業が栄えていた地域でした。この地域は、海上交通に恵まれ、豊かな自然の恵みを享受していたため、政治的・経済的にも非常に重要な場所とされていました。
この中で越智氏は、この自然環境と経済の中心地を効果的に利用し、地域を発展させていきました。
そんな越智氏が信仰の中心に据えたのが、大山積命でした。大山積命は、山岳信仰と海神信仰を象徴する神様で、農業や漁業の守護神として信仰されていました。この神様を祀ることで、越智氏は自然の恵みと災害からの保護を祈り、領土の繁栄を願ったのです。さらに、大山積命を中心とする信仰は、地域の人々との結びつきを強め、越智氏の統治を支える宗教的基盤にもなりました。
このような背景の中で、和銅5年(712年)8月23日に「三島神社・四村」が創建されました。
仏城寺の境内に鎮座
「三島神社・四村」は現在の場所ではなく、「仏城寺(ぶつじょうじ)」と同じ地区(字日ノ本)にあったとされています。
しかし、仏城寺が建てられたのは暦応2年(1339年)であることから、神社の方が先に存在していたと考えられます。つまり、「三島神社・四村」は先に大三島から勧請され、その後、仏城寺が建立されたことで、両者が同じ場所に共存するようになったのです。
当時は神仏習合が広まっていた時代で、神道と仏教が混ざり合い、神社と寺院が同じ敷地内で祀られることは珍しいことではありませんでした。この時代には、神道の神々と仏教の仏が一緒に祀られ、地域の人々の信仰の対象となっていました。「三島神社・四村」と仏城寺の共存も、この神仏習合の典型的な例といえます。
「神社合祀(じんじゃごうし)の影響
「三島神社・四村」は、当初小さな神社として存在していましたが、地域の信仰の中心として徐々に発展していきました。
その転換点の一つが、天保14年(1843年)に行われた「神社合祀(じんじゃごうし)」です。
「神社合祀」は、当時の全国的な再編成の一環であり、複数の小規模な神社を統合することで管理の効率化を図り、地域の信仰を一つの場所に集中させる目的がありました。
「三島神社・四村」もこの動きの中で、村人たちの要請を受け、八幡宮など2つの小さな社を合祀し、社殿の造営を行いました。
「神仏分離政策」の影響
次の重要な転換点は、明治元年(1868年)に行われた「神仏分離」政策です。政府が発布したこの政策により、日本全土で神道と仏教が分離され、神社と寺院がそれぞれ独立した宗教施設として機能することになりました。
この政策の影響で、「三島神社・四村」も変革を強いられ、それまで神仏習合の形で祀られていた仏教的要素が排除され、神様と仏様が分けられて祀られるようになりました。これにより、「三島神社・四村」は神道の純粋な神社としての役割を果たすようになりました。
現在の場所に移転
最後の転換点は、昭和4年(1929年)6月3日に行われた「三島神社・四村」の移転です。この移転によって現在の場所に移されて、それに伴って新しい社殿が建設されました。
このような変遷を経て、「三島神社・四村」は地域の信仰の場として新たな形を整え、それが今日まで続いています。今では単なる宗教施設としてだけでなく、地域のコミュニティ活動の拠点としても機能しています。夏休みには地域の子どもたちが集まって、ラジオ体操や奉仕活動が行われ、地域住民が交流する場にもなっています。
こうした活動を通じて、「三島神社・四村」は地域の絆を深め、住民同士がつながる大切な場所となっているのです。