「潮早神社(しおはやじんじゃ)」は、かつての村上水軍の拠点であった波方城砦群の一つ、潮早砦の跡地に鎮座しています。村上水軍は、瀬戸内海を支配した強力な海上勢力であり、波方城を中心に数多くの砦を築き、その防衛網を強化していました。潮早砦はその一部として、海上交通の要所を守る役割を果たしていたと考えられています。
現在、砦の遺構はほとんど残っていませんが、その跡地に建てられた潮早神社は、地域の人々にとって重要な信仰の場となっており、村上水軍の歴史やこの地の海上交通の守護神としての役割を今に伝えています。
潮の流れを鎮めるための信仰
潮早神社の歴史は、樋口部落の独自の地形と海との深い関わりに根ざしています。かつてこの地域は海に面しており、潮の満ち引きにより九王方面(現在の大西町)や波止浜方面から勢いよく海水が流れ込んできました。この自然現象が、地域の人々にとって重要な出来事であり、生活や信仰にも影響を与えていました。
この潮の流れを鎮め、海上の安全を願うために、弘安7年(1284年)に猿田彦命(さるたひこのみこと)を奉祀し、潮早稲荷大明神としてこの地に氏神を建てたことが潮早神社の始まりです。
祭神「猿田彦命」
猿田彦命(さるたひこのみこと)は、日本神話において、天孫降臨の際に登場する「道開きの神」として広く知られています。
天孫降臨は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原(神々が住む天の世界)から地上に降りて、地上を治めるために遣わされたという日本神話です。
この時、瓊瓊杵尊が無事に地上に降りられるよう、道を案内したのが猿田彦命だったことから、旅の安全や人生の転機、さらには事業の開始といった、新しい道を切り開く場面で信仰される神様として崇められています。
また、日本は島国で、昔から船での移動や漁業がとても大切な生活の一部でした。船に乗る人々や漁師たちは、海の上では道が見えないため、道開きの神である「猿田彦命」の力を借りて、航海の安全を祈りました。
祭神「原氏霊」
潮早神社には、地域の歴史と深く結びつくもう一つの主祭神として、「原氏霊(はらうじのたま)」が祀られています。「原氏霊(はらうじのたま)」は戦国時代にこの地で戦った武将「原四郎兵衛(はらしろべえ)」のことで、日本最強の大海賊「村上水軍」と深い関わりがあります。
大海賊「村上水軍」
村上水軍(村上海賊)は、平安時代末期から活動を始めた強力な水軍(海賊)で、瀬戸内海に浮かぶ島々を拠点に交通の要所を抑えながら独自の権力を築いていきました。
海賊として無法者のように思われるかもしれませんが、主な役割は航行船舶に対して警護や案内を行い、通行の安全を保障することでした。特に、潮の流れが複雑で危険な瀬戸内海において、村上水軍は海域の詳細な知識と経験と技術を持っており、ここを航行する船舶にとっては腕の良い水先案内人でした。
村上水軍は、これらのサービスを提供する対価として「帆別銭(ほべつせん)」や「警固料」と呼ばれる通行料を徴収していました。
また、最強の海賊である「村上水軍」が支配する海域は完全な縄張りであったため、戦国時代には大名や商人にとって重要な航路の強力な守護者でもありました。
ただし、この通行料を支払わない船や敵対する勢力の船に対しては、容赦のない海賊行為が行われることもありました。村上水軍は、帆別銭を拒んだ船舶を襲撃し、場合によっては積荷を奪うなどの強制的な手段を取ることがありました。
こうした行為は、最強の海賊として恐れられる一因となり、村上水軍は力を誇示するために戦略的な活動を展開していました。
しかし、現実的には村上水軍が縄張りとする海域で、戦って勝つことはほぼ不可能と言われるほどの強さを誇っていたため、多くの船は無事に通行するために必要経費として、当たり前に帆別銭を支払っていました。
最強水軍の敗北
海上で無敵の強さを誇っていた村上水軍は、戦国時代に入ってからは、海運や海上輸送の安全確保が大名にとって不可欠な存在となっていました。この頃の村上水軍は、瀬戸内海の水軍として数多くの大名と協力し、時には戦闘に参加し、時には航海の護衛を請け負うなど、さまざまな活動を展開しました。
村上水軍の最も輝かしい瞬間の一つが、天正四年(1576年)に起きた第一次木津川合戦です。
この戦いでは、村上水軍が毛利氏と同盟を結び、織田信長配下の淡輪(たんのわ)水軍を撃破しました。村上水軍は、その機動力と海戦技術を駆使し、毛利氏の援護を成功させました。この戦いは、村上三島水軍にとって名声と実力が頂点に達した瞬間でもあり、瀬戸内海一帯での無敵の強さを証明するものでした。
しかし、この第一次木津川合戦での勝利は、村上水軍にとって転機でもありました。勝利に慢心した結果、さらなる技術革新や戦力の強化を怠ってしまったのです。
その一方で、織田信長は強力な海軍を築くため、九鬼嘉隆(くき きよたか)**を水軍大将に任命しました。九鬼嘉隆は織田信長の命を受けて、最新技術を駆使した「鉄張りの戦艦(鉄甲船)」を導入しました。鉄甲船は、従来の木造船に対して圧倒的な耐久力を持ち、火矢や砲弾に対する防御力が飛躍的に高まっていたため、織田軍の海上戦力を大幅に強化することに成功しました。
そして前回の合戦から3年後、1579年の第二次木津川合戦で村上水軍、この鉄甲船を率いた九鬼嘉隆の九鬼水軍に惨敗してしまいました。軍事的優位性を失った村上水軍は、これまで瀬戸内海で築いてきた強力な海上での影響力が大きく揺らぎ、次第に制海権を次第に失っていきました。
織田信長の四国攻めの影響
実は村上水軍は、一能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏という三つの主要な一族に分かれていました。
これらの一族は互いに協力しながら瀬戸内海の制海権を握っていましたが、時代の流れとともに、それぞれが異なる選択をするようになります。特に戦国時代の終わりにかけて、織田信長や羽柴秀吉といった天下に名を馳せる強大な武将たちが台頭してきた事よって、村上水軍内でも大きな分裂、そして裏切りが生じることになりました。
天正5年(1577年)織田信長は中国地方の平定を目指して、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を中国遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者である毛利元就(もうり もとなり)に圧力をかけ始めました。
当時の毛利氏は広範な勢力を誇っており、伊予(現在の愛媛県)では河野氏と同盟を結んで四国でも戦っていました。
一方、伊予を治めていた河野氏は、四国統一を目指す土佐の長宗我部元親(ながそかべ もとちか)と戦いを繰り広げていました。毛利氏は河野氏の援軍として支援を続けており、この同盟によって河野氏は長宗我部氏に対抗する力を保っていました。
しかし、織田信長が羽柴秀吉を総大将として中国地方への本格的な侵攻を始めると、毛利氏は河野氏を援助する余力がなくなり、伊予に対する援軍を送ることが困難になりました。
毛利氏との連携が途絶えた河野氏の力は大きく削がれ、勢いを取り戻した長宗我部軍を相手に劣勢を強いられるようになっていきました。
村上水軍の分裂と裏切り
このような状況下で、来島村上氏を率いていた「村上通総(むらかみ みちふさ)」は深刻な判断に迫られました。
村上水軍は、 長きに渡り河野氏に従い、河野氏の海軍力を支える重要な役割を果たしていました。特に、瀬戸内海での海上戦力として、村上水軍は河野氏と連携しながら、土佐の長宗我部氏や他の敵対勢力に対抗し続けていました。
しかし、信長軍(秀吉)が四国にまで侵攻してくることが現実味を帯びる中、通総はこのまま河野氏に従い続けることが一族の存続を危うくするのではないかという危機感を持つようになりました。
さらに、村上家にとって、河野氏に対する不満も積もっていました。自身の父である「村上通康(むらかみ みちやす)」は、河野氏の娘と婚姻関係を結び、かつて河野本家を継ぐ約束を得ていたにもかかわらず、河野家内部の対立によってその約束が破られ、村上家は家臣扱いにされてしまいました。
この屈辱的な出来事も、一族の未来に影響を与える重要な要因となり、通総が河野氏との関係を再考するきっかけとなったのかもしれません。
また、通総の母は河野家の出身でしたが、実家が分家に乗っ取られたことで、河野家への執着を失っており、むしろ時代の勢いに乗り天下統一を果たさんとする織田信長につくことを支持していました。
このような家族背景も、通総にとって河野氏との決別を後押しする材料となった可能性があります。
様々な要因がある中で、村上通総は最終的に一族の存続を優先し、長年にわたって忠誠を誓ってきた河野氏との関係を断ち切る決断を下しました。そして通総は、羽柴秀吉の同盟を選び、村上水軍の一角を担う来島村上氏は織田軍の勢力に加わることになりました。
秀吉の人心掌握術と兵法
実は、大阪の木津川合戦をきっかけに、織田信長は村上三島水軍の力を恐れるようになり、自分の勢力に引き込もうと強く考えるようになりました。
信長は、村上水軍を味方につけるために何度も使者を送り、説得を続けました。村上水軍の存在は、瀬戸内海を制する上で不可欠であり、信長にとっても非常に重要な戦力だったのです。
その中で、織田側は特に来島村上氏の村上通総(むらかみ みちふさ)を自軍に取り込もうとしました。通総は来島城を拠点とする村上水軍の一族であり、瀬戸内海の航路を掌握するための重要人物だったのです。
信長は説得を続ける中で、卓越した「人心掌握術」をもつ羽柴秀吉に一任しました。
秀吉は、人々を説得して魅了する力を持っていて、敵対する者でも味方に引き込むためのスキルを持っていました。そしてこの才能を最大限に評価し、戦略に活用したのが織田信長でした。
秀吉自身も資質を理解しており、最も優れた兵法と考えていました。
その考えを象徴する言葉として、秀吉は「戦わずして勝ちを得るのは良将の成すところである」という言葉を残しています。この言葉は、優れた将軍は戦いを避け、敵を無理なく自分の側に引き込むことこそが最も理想的な勝利の形であるという秀吉の信念を表しています。
この言葉は、中国の兵法書に記述されている「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」という理論とも一致しています。秀吉にとっても最も効率的で無血の勝利を得る手段だったのです。
この理論は、最高の戦略は戦うことなく敵を降伏させることであり、無駄な戦いを避けることこそが最善の方法であると説いています。秀吉にとっても、この考えは非常に重要であり、最も効率的で無血の勝利を得る手段として積極的に活用されていました。
この結果、来島村上氏は羽柴秀吉の説得に応じ、織田信長の側につくことになりました。これにより、信長は瀬戸内海の制海権を確保し、強力な海上戦力を手に入れることができました。村上水軍の協力は、織田軍にとって極めて重要であり、瀬戸内海の覇権を握るための鍵となったのです。
一方で、村上水軍の他の家系である能島村上氏や因島村上氏は、毛利氏側つまり河野氏と共に歩み続ける道を選択しました。こうして村上水軍は分裂することになり、来島村上氏が織田側に、能島・因島の村上氏が毛利側に分かれるという複雑な状況が生まれました。
家臣「原四郎兵衛」の忠義と結末
村上通総が秀吉につく決断を知った時、通総の家臣であり、湊山城(港山城)の主であった原四郎兵衛(はら しろべえ)は強く反対しました。四郎兵衛は、通総の長年の同盟者であり親類でもある河野氏を裏切ることに納得できなかったのです。
四郎兵衛は、村上家と河野家が長い間協力し合ってきた歴史を重んじていました。四郎兵衛にとって、河野氏は単なる同盟相手ではなく、家族のような存在だったのです。そのため、通総が河野家を見限り、秀吉に従うことを決断したことは到底受け入れられませんでした。
四郎兵衛は、主人である通総に向かって次のように強く訴えたと伝わっています。
「私たちの村上家は、古くから湯築城の河野家を主君として仕えてきました。さらに親類関係でもあり、これまで長い間一緒に協力し合ってきました。その河野家がまだ秀吉の味方すると決めてもいないのに、私たち村上家だけが秀吉の側につくのは、武士道に劣る行為です。どうか、秀吉の分断工作に乗ることををやめてください」
さらに、四郎兵衛はこの動きを秀吉の分断工作だと見抜いており、これに乗るべきではないと訴えました。
村上通総は、原四郎兵衛の訴えに対して一応耳を傾け、「よく検討してみよう」とその場を取り繕って一旦下がらせました。しかし、すでに豊臣秀吉と約束を交わしていたため、もう後戻りできない状況に追い込まれていました。
残念ながら、四郎兵衛の懸命な訴えを受け入れる余地はなかったのです。
通総は、四郎兵衛の律儀な性格や忠義心を熟知していました。四郎兵衛が最後まで河野氏への忠誠を貫こうとする姿勢を崩さないことは明らかであり、これが来島村上家にとっての障害になると感じました。そこで、通総は、忠義に殉じようとする四郎兵衛を危険分子と見なし、行動を起こさなければならないと決断しました。
通総は、ついに家臣に命じて「四郎兵衛を討て」と命令しました。家臣たちは、命令に従い、四郎兵衛を追い詰め、忠誠心に殉じた四郎兵衛は殺害されてしまったのです。この結果、四郎兵衛の命をかけた忠誠の訴えは叶うことなく、村上家は秀吉側に従う道を進むことになりました。
しかし、四郎兵衛の最期は、忠義心とその信念を象徴する出来事として、後世に語り継がれることになります。
潮早神社に流れ着いた忠義心
村上通総の命令により討たれた後、四郎兵衛の遺骸は土地に埋められました。しかし、不思議なことが起こりました。埋められたはずの遺体は、海水に流され、潮の流れに乗って、波方村の樋口にある潮早神社の近くまで運ばれてきたのです。
当時、潮早神社の周辺は浅瀬であり、海に面していました。四郎兵衛の遺骸がこの場所に流れ着いたことは、村人たちにとって非常に特別な出来事でした。
樋口村の人々は四郎兵衛が命を懸けて守ろうとした忠誠心を知っており、その最期に村の人々は心を打たれたのです。そして、その忠義を称えるために、潮早神社の近くに遺骸を丁重に埋葬し、塚を作ってお墓としました。さらに、村人たちはお堂を建て、四郎兵衛の忠義心が後世にも伝わるように祀りました。
「村上通総」の最期
歴史は本当に複雑で、時に運命が大きく揺れ動く瞬間が存在します。村上通総の運命も、その一例です。
村上通総が豊臣秀吉に寝返った事実が明らかになると、同じ村上水軍の一派である能島村上氏や因島村上氏はこれに激怒し、通総の拠点である来島を攻めました。これにより、通総は来島から脱出せざるを得なくなり、播磨にいる秀吉のもとへ逃げ込みました。
その同時期に、本能寺の変で織田信長が命を落とし、豊臣秀吉がその後を継いで天下を掌握する時代が訪れました。天下人となった秀吉は、早くから自分に味方した村上通総の存在を気に入っており、通総を特別に「来島、来島」と呼びました。このことから、通総は「村上」から「来島」に姓を改め、来島通総と名乗るようになりました。
天正13年(1585年)、秀吉が天下統一を盤石のものとするため四国攻めを開始しました。この戦いで通総は、小早川隆景の指揮のもと、先陣をきりました。そして、この戦いでかつての主君であった河野氏は滅亡し、瀬戸内海の村上水軍も散り散りに分裂しました。
能島村上氏や因島村上氏は、秀吉に抵抗せず、最終的に毛利水軍として取り込まれることになりました。一方、通総は秀吉の信頼を得た見返りとして、一万四千石の領地を与えられ、伊予北条の鹿島城を拠点にすることになりました。
しかし、村上通総の運命はさらに過酷なものへと進んでいきます。秀吉は後に朝鮮出兵を行い、多くの武将がこの遠征に参加しました。通総もその一人であり、海戦での活躍を期待されていました。
ところが、通総は朝鮮水軍との戦いの中で36歳とい若さで命を落としてしまいました。
戦国という波乱の時代を生きた村上通総の幕はこうして閉じたのです。
「長宗我部元親」の最期
村上水軍の分裂の要因となった長宗我部元親も、壮絶な戦国時代に翻弄されました。
1585年(天正13年)、元親は四国全土を制圧し、自らの野望を実現しましたが、同年、豊臣秀吉が四国攻めを開始し、元親は秀吉軍と対立しました。元親は戦いで敗北し、ついに四国の覇権を失うこととなり、豊臣秀吉の配下として従わざるを得なくなりました。その後、元親は秀吉の九州征伐に参加し、九州での戦闘にも従軍します。
しかし、元親の運命はさらなる激動に巻き込まれます。1600年に起こった関ヶ原の戦いで、長宗我部元親は西軍に与して徳川家康と敵対する立場を取りました。関ヶ原の戦いで西軍が敗北し、戦局が徳川氏に有利に傾くと、元親は早々に敗北を察し、戦わずして帰国し、徳川氏に謝罪の意を表します。しかし、帰国後の土佐では、事態が悪化していきました。
元親の帰国直後、重臣たちが浦戸一揆を起こします。この一揆が元親の運命をさらに悪化させました。徳川氏は一揆を問題視し、長宗我部氏の領地を没収する決定を下し、元親は領国を失い浪人の身となってしまいました。
長年にわたり支配してきた土佐を失った元親は、苦しい状況に追い込まれていきましたが、豊臣氏側から再び力を取り戻す機会を与えられました。
それが大坂の陣です。
豊富側は、元親に対し、故郷である土佐一国の返還を条件に、旧臣たちと共に大坂城に入城するよう提案。この提案を受けた元親は、再び豊臣方の武将として、1614年に始まった大坂の陣で徳川軍と戦いました。
しかし、この戦いで豊富家が敗北し滅亡してしまいます。それでも再起を図って逃亡を試み元親でしたが、最後に捕らえられて処刑されてしまいました。
長宗我部元親の人生もまた、激動の戦国時代に生きた武人の壮絶な運命を象徴しています。
原四郎兵衛と潮早神社の始まり
原四郎兵衛は、お堂に祀られた後、村人たちによって小さな神社(現在の古社)が建てられ、さらに霊が丁重に祀られるようになりました。忠義心とその最期が村人たちの心に深く刻まれ、その存在は地域にとって重要な信仰の対象となりました。
その後、天正16年(1588年)に湊山城の城主であった「原四郎兵衛尉通孝」の命により、来島城の城主であった村上通総の父「来島出雲守」がこの神社に合祀されました。
この出来事を機に、神社は潮早大明神と称され、後に潮早神社へと改名されたとされています。
さらに、その後、原氏霊(原四郎兵衛)も潮早神社に合祀され、潮早神社は原四郎兵衛や来島出雲守といった歴史的な人物を祀る重要な場所となり、今もなお地域の人々に深い信仰を集めています。
調査中
ただし、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が公布した海賊禁止令によって、村上水軍をはじめとする瀬戸内海の水軍は活動の舞台から姿を消しており、湊山城も廃城となったため、城主がどのタイミングで命を下したのかについては、現在の当サイトの調べた範囲では疑問が残ります。
また、湊山城の城主「原四郎兵衛」は天正16年より前に亡くなっていることがわかっています。一方で「原四郎兵衛尉通孝」が何者なのかは不明です。
同一人物であるとは限らず、同じ家系内で「四郎兵衛」という称号が継承されていた可能性が高いと考えられます。
そのため、後に「原四郎兵衛」を名乗った人物が、通孝の後継者や親族である可能性も十分にあります。このように、家系内で同じ名が使われ続けた結果、歴史的な混同や謎が生まれた可能性があると推測されます。
いずれにせよ、原四郎兵衛を祀った潮早神社は、地域の人々の心の拠り所であり、その忠義と信念は今もなお語り継がれています。