「持宝院(じほういん)」は、波方町樋口に鎮座する天台宗寺門派(正式名称:天台寺門宗)の寺院で、明応9年(1500年)に慈光法師(じこうほうし)によって創建されました。
開基となった慈光法師は、大阪の四天王寺から本尊である青面金剛尊(しょうめんこんごうそん)を勧請し、このお寺を開いたと伝えられています。本尊の青面金剛尊は、病気や災いを防ぐ力を持つとされ、地域の人々から深い信仰を集めてきました。
来島家の祈願所
持宝院は、創建以来、瀬戸内海を支配していた村上水軍の来島家から厚い信仰を受け、祈願所として大いに発展しました。来島家は、戦国時代に瀬戸内海の海賊大名として広く知られた「来島村上家」の一族であり、海上交通の保護や防衛を行っていました。
村上水軍は、海上での船舶の護衛や通行料の徴収などを行い、その活動は地域の安全と繁栄に大きく貢献していました。
本尊「青面金剛尊」と文化財
持宝院の本尊である青面金剛尊(しょうめんこんごうそん)は、道教の思想に基づく庚申信仰に関連した神です。庚申信仰は、中国の道教から伝わり、日本では独自に発展した民間信仰の一つです。この信仰では、三尸(さんし)という虫が人間の体内に潜み、庚申の日(60日に一度巡ってくる干支の日)に、人が寝ている間に天に昇り、その人が犯した罪を天帝に報告すると信じられていました。この報告を受けた天帝は、その人の寿命を縮めるとされており、これを避けるために、人々は庚申の日に一晩中寝ないで過ごす「庚申待ち」を行いました。
青面金剛尊は、この三尸の虫を抑え、悪い霊や病気を防ぐ力を持つ神とされています。持宝院の本尊である青面金剛尊は、特にこの庚申信仰に基づいて信仰されており、地域の人々にとって重要な存在です。さらに、この青面金剛尊像は木造であり、石像が多い中で木造のものは非常に珍しいため、町の指定文化財として保護されています。木造の青面金剛尊像は、その精巧な作りと歴史的価値からも、訪れる人々を魅了します。
また、持宝院には本尊の脇仏として、不動明王(ふどうみょうおう)と十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)が祀られています。不動明王は、仏教における守護の神であり、悪を打ち砕き、正しい道へ導く存在です。剣と縄を持ち、怒りの表情を浮かべる不動明王は、強い力を象徴し、信仰者に安心を与える役割を果たしています。
十一面観世音菩薩は、観音菩薩の中でも特別な姿をした菩薩で、頭上に十の顔を持ち、あらゆる方向から人々の悩みや苦しみを見守り、救いの手を差し伸べるとされています。十一面観音は、慈悲の象徴であり、地域の人々が日常生活で遭遇する困難や苦しみに寄り添い、救済を求める存在です。
これらの脇仏も、持宝院の信仰において重要な役割を果たしており、地域の人々から深く信仰されています。
地域の伝統と繋がり
持宝院は、樋口地域に檀家こそ持っていませんが、地域の歴史や文化に密接に結びいており、地元では「庚申堂(こうしんどう)」として親しまれています。
近くには、多くの氏子によって支えられる「潮早神社」があり、持宝院はその裏手に位置しています。境内へは、木々に囲まれた静かな階段を登って進むことができ、その途中には神仏習合の神様「金刀比羅大権現」を祀る金刀比羅神社があります。この神社は、もともと海山城団地にありましたが、土砂崩れの被害を受けて現在の場所に移されました。
毎年1月10日には、「初金毘羅(はつこんぴら)」という縁日が行われ、多くの地域住民が集まります。この日には、持宝院でも「大般若経の法会」が行われ、地域の神社総代が世話役となり、お経を納めた箱を樋口地域全体に巡回します。住民の健康や安全を祈るこの行事は、地域に根付いた伝統として毎年大切に続けられています。
整体・リザクレーション「清元堂」
持宝院の敷地内には、整体・リザクレーション「清元堂(しょうげんどう)」が併設されています。
由来は 代表であり、持宝院の副住職”伊藤祐一”法名を”清元(しょうげん)”から取りました。来られるお客様が 清い水の様に心も体もリラックスし、元気になって帰っていただきたく思い命名しました。清元堂では、地域住民の健康を支えるため、心身ともに清く元気になることを目指した活動が行われています。休業日や日常の情報も発信されており、持宝院の静かな環境の中で心身を整えることができる場所として、地域に親しまれています。
信仰による再興の物語
このように、来島村上家や地域住民との深い信仰の絆に支えられてきた一方で、その長い歴史の中で幾度となく再興を果たしてきた寺院でもあります。
実は持宝院は、来島村上家からの厚い信仰を受けて栄えましたが、ある時期に現在の場所から杣田村(そまだむら)に移転されています。この移転の詳細な理由は明らかにされていませんが、当時の寺院運営の状況や地域の変動が背景にあると考えられます。
元禄4年(1691年)には、持宝院は再び現在の場所に戻ることになりましたが、その頃には、かつてこの地域を支配していた来島村上家は衰退していました。
来島村上家は、戦国時代に瀬戸内海の海賊大名として力を誇っていましたが、豊臣秀吉との対立や、村上水軍の敵対関係が続きました。特に、秀吉の四国攻めの際に、河野氏に味方して戦った村上水軍は敗北し、その勢力を徐々に失っていきました。
さらに、1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に味方した来島村上家は敗北し、その結果として所領を失い、伊予から豊後(現在の大分県)に移り住むことを余儀なくされました。この移住により、伊予地域での政治的・経済的な影響力は大幅に弱体化しました。
来島家という大きな支えを、失いつつも、地域住民や残された信仰の力によって寺院は支えられていきました。
明治時代の半ばに、持宝院は一時無住(住職がいない状態)となり、荒廃してしまいます。この時期は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という仏教寺院の排除が進んだ時代で、多くの寺院が廃絶の危機にさらされました。持宝院もこの影響を受け、寺としての機能が一時的に停止してしまった可能性があります。
それでも、持宝院は地域の人々の強い信仰心によって再び立ち上がりました。地域住民たちの力により、寺院の再建が進められ、何度も修復が行われました。そして、昭和57年(1982年)には、現在の建物が新築され、持宝院は再び地域の信仰の中心としてその役割を果たし、地域の人々に大切に守られ続けているのです。