波方町宮崎の御崎(烏鼻・からすばな)に鎮座する「御崎神社(みさきじんじゃ)」は、神亀5年(728年)に創設されたと伝えられており、古くから海の守護神として広く信仰を集めてきました。
「ヤマモモのこみち」
御崎神社へと続く参道は、「ヤマモモのこみち」として地域に親しまれています。長さ約300メートルにわたるこの道には、数百年もの時を経たヤマモモの巨木が立ち並び、参拝者を迎えます。幹の周囲が5メートルに及ぶものや、株元から複数に分かれる巨木もあり、その雄大な姿は訪れる人々に自然の力強さを感じさせます。この並木道は、波方町に残された唯一の自然林として非常に貴重で、波方町の天然記念物にも指定されています。
ヤマモモのこみちは、特に初夏になると木々に実がつき、甘酸っぱい果実がたわわに実る風景が広がります。木陰が参道を包み、自然の息吹を感じながら歩くこの道は、参拝者にとって心地よいひとときです。また、周囲にはウバメガシの木々も生い茂り、豊かな自然が広がるこの場所は、四季折々の変化が楽しめる魅力的なスポットです。
かつて、この地域ではヤマモモの皮が漁師たちによって魚網の染料として使われていました。ヤマモモの皮を煮て染料を作り、それで網を染め、砂浜で乾燥させるという昔ながらの手法が用いられていました。こうして「ヤマモモのこみち」は、自然の美しさとともに、地域の生活や文化に深く結びついた場所として、今も大切に守られています。
「香取神社」
御崎神社には、梶取鼻(かじとりのはな・古御崎)に祀られていた香取神社と、元々場所「御崎(烏鼻・からすばな)」に祀られていた鳥明神が合祀し境内に祀られています。
香取神社は、古代から武の神として、また航海の守護神として崇められてきた経津主尊(ふつぬしのみこと)を主祭神とする神社です。この神社は、特に船乗りや海辺の人々にとって重要な守護神として信仰を集めてきました。経津主尊は、古代に利根川河口近くの水郷地帯を治めた神としての伝説を持ち、古くから武勇と航海安全を司る神として人々に親しまれてきました。
香取神社の名は、「梶取(かじとり)」という航海の際に船を操る役目を指す言葉に由来しています。こうした背景から、香取神社は航海の神としての色彩が非常に濃く、海上交通が盛んだった時代には、船乗りたちの守護神として深い信仰を集めました。海上の安全を祈願するために、地元だけでなく全国各地からの参拝者が訪れました。
後に、経津主尊は藤原氏によって春日三神の一柱とされ、その別名として天日鷲尊(あめのひわしのみこと)とも呼ばれるようになりました。天日鷲尊は、かつて「鷲(おおとり)」と読まれていたため、香取神社を「おおとり様」や「おとり様」と呼ぶ習慣が生まれました。東京・浅草の「おとりさま」も、この神を祀る神社の一つであり、商売繁盛のご利益があるとして多くの人々に信仰されています。
「鳥明神」
一方、鳥明神は農耕の神として知られ、昭和30年代頃までは、この神を信仰する農家が田植えの後に参拝して、牛や馬の健康と作物の豊作を祈る習慣がありました。
水田耕作では、牛や馬に鋤を引かせて田の鋤返しや代掻き(しろかき)といった作業を行い、その力を頼りにしていたのです。この農耕技術は鎌倉時代に西日本を中心に広まり、牛馬の力は単なる動力源としてだけでなく、地域の農業を支える重要な要素となっていました。
さらに、牛馬の糞尿は、農業における重要な肥料としても利用されていました。特に、他の肥料源である刈敷が入手困難な地域では、牛馬の糞尿を使った厩肥(きゅうひ)が自給農業の維持に不可欠な役割を果たしていました。こうして牛や馬は、田畑を耕す力を提供するだけでなく、肥料の供給源としても農家にとって極めて重要な存在だったのです。
このように牛馬が農耕において大切にされていたため、農家の人々はその安全を祈願し、牛のわらじを編んで御崎神社に奉納する習慣がありました。この牛のわらじは、家畜を守る象徴としての役割を果たし、参拝者はその代わりに「牛馬の護符」を受け取って、家に持ち帰りました。この護符は牛馬が怪我をしたり病気になったりせず、農作業が順調に進むようにと願いを込めて畜舎に飾られました。家族や家畜の健康を守るための大切な守りとして、農家にとって欠かせないものだったのです。
一緒に参拝に訪れた農家の子どもたちは、親が神社で祈りを捧げている間、境内で遊ぶのが楽しみでした。特にヤマモモの木に登ることは、子どもたちにとっての冒険であり、その木々に実るヤマモモは格別でした。実が熟す季節には、甘酸っぱい果実がたくさん実り、子どもたちはその場で腹いっぱいに食べることができました。新鮮で甘いヤマモモは、農村の日常の中で味わえる自然の恵みの一つだったのです。
さらに、子どもたちは食べきれなかった実を袋に詰めて家に持ち帰ることもよくありました。こうして持ち帰られたヤマモモの実は、家庭でもおやつや保存食として楽しまれ、家族全員が自然の恵みを感じられる大切な時間となっていました。この光景は、単なる参拝の一環ではなく、家族が神社を訪れる中で自然と共に過ごすひとときを象徴するものでした。
鳥鼻じゃなく?唐津崎?
御崎神社が鎮座する場所「鳥鼻(からすばな)」は、正しくは「唐津崎(かつらざき)」といいます。そして、この名前にについては、興味深い伝承が残されています。
慶長年間(16世紀末期)、織田有楽斎の家臣「上田藤右衛門」は、関白豊臣秀吉の命を受け、九州で名物陶器を収集する任務を帯びていました。藤右衛門は、唐津や伊万里の名工たちに陶器を焼かせ、中国や朝鮮からも貴重な品々を買い入れ、船に積んで帰路に就きます。しかし、斎灘で嵐に遭遇し、宮崎の浜に避難します。
この時、秀吉が亡くなったとの知らせが藤右衛門のもとに届きます。その隙を狙った船頭が、船に積まれていた陶器を盗み出し、船を沈めて逃亡しました。藤右衛門は、任務の失敗の責任を痛感し、海上の岩場で切腹して果てたと言われています。この出来事を哀れんだ村人たちは、藤右衛門を祀り「唐津明神」と呼びました。
後にこの小祠は「唐津崎神社」として正式に合祀されることになります。
つまり、御崎神社がある烏鼻は唐津崎で、烏明神は唐津明神。したがって、御崎神社に合祀られている神社は「唐津崎神社」ということになります。
そして、この伝承にはまだ続きがあります。
「蛸釣陶器」の伝説
この海域はいつしか「唐津磯(からついそ)」と呼ばれるようになっていました。
江戸時代の文政10(1827年)の夏、来島村の漁師が唐津磯でタコを釣り上げたところ、驚いたことにタコが立派な陶器を抱えていました。この出来事をきっかけに、漁師はお年寄りから聞いた唐津崎の事件を思い出し、海底に宝の山が眠っていると考えました。
そこで、タコの足に細縄と小さな錘をつけ、吸盤を利用して陶器を引き上げるという工夫を施しました。この方法は「タコ釣り陶器(蛸釣陶器)」として広まり、多くの人々が集まり、海底から陶器を釣り上げる風景が名物となりました。
この「タコ釣り陶器」は、当時の波止浜村の珍品として広く注目を集めました。後の時代には、学術的にも注目を集め、愛媛考古学の創始者「犬塚又兵衛」もこの陶器に強い興味をしめしました。
現在「唐津崎」という地名は、波方国家石油ガス備蓄基地の内に残されており、その名残を感じさせます。
戦国時代の御崎砦「村上水軍」
御崎神社の地には、かつて戦国時代に村上水軍が築いた「御崎砦」が存在していました。村上水軍は、瀬戸内海の海域を中心に活動した海賊大名であり、特に来島村上氏が有名です。村上水軍は来島海峡を拠点に、瀬戸内の航路を制し、戦国大名や商人の船の護衛、さらには通行料を徴収するなど、その海上支配を確立していました。御崎砦は、この来島水軍が敵の侵入を防ぐため、海上を見張る戦略拠点として築かれたものです。
平安時代から宮崎部落には海賊が住んでいたといわれ、また、室町時代には、来島城主の村上家がこの地方で勢力を持っており、その上、村上家の常日頃住んでいた居館(波方館)が波方部落にあったために、村上三島水軍(来島水軍)を守るための見張台や城砦の跡が波方町の各所に残っています。これが来島水軍の城砦群「波方海賊城砦群」です。
御崎砦の立地は、波方町の海岸線に位置し、遠くから接近する敵船や異変をいち早く発見できる絶好の見張り台として機能していました。この砦の周囲には、現在でも当時の桟橋跡である「ピット」と呼ばれる柱穴が多数残っており、かつての水軍の活動をうかがわせます。また、砦周辺には「磯の七不思議」と呼ばれる奇岩群が点在しており、自然の景観とともに戦国時代の歴史的背景を感じさせる場所です。
御崎砦は、海上の安全を守るだけでなく、村上水軍の要塞としての役割も果たしており、この地から出撃し、来島海峡を支配する拠点として機能していました。来島村上氏は、この御崎砦を活用し、敵対勢力からの攻撃を防ぎつつ、自らの領域を守り抜いていたと考えられています。
「七五三ヶ浦キャンプ場」
御崎神社のすぐ近くには、「七五三ヶ浦(しめがうら)キャンプ場」があり、その周辺では縄文時代の「七五三ヶ浦遺跡」が発見されています。この遺跡では、約6000年から3000年前の縄文土器や石器、竪穴住居跡が見つかっており、古代からこの地が人々の生活の場であったことが証明されています。自然豊かな環境に囲まれたこのキャンプ場を訪れると、遺跡の歴史の深さを身近に感じることができます。
村上水軍の歴史を伝える
さらに、七五三ヶ浦の東側には、かつて香取神社が祀られていた「梶取鼻」があります。この場所は、戦国時代には村上水軍の見張り台が設置され、戦略的な監視拠点として重要な役割を果たしていました。村上水軍は、瀬戸内海を通る船舶の動きをこの見張り台から監視し、来島海峡の防衛や領土の支配を確立していました。
このように波方全域は、村上水軍の海上支配を支える重要な地域であり、御崎神社や梶取鼻周辺の自然とともに、戦国時代の海上勢力の中心地としての歴史的な一面を今に伝えています。
訪れる人々は、この地に残された歴史の痕跡を感じ取りながら、自然と歴史が織りなす風景を楽しむことができます。