「三島神社・旦(みしまじんじゃ)」は、特別養護老人ホーム「唐子荘」の裏手に位置する小さな丘に鎮座している神社です。この丘全体が神域とされ、古くから地域の信仰の場として人々に崇められてきました。
三島神社の創建
創建は神亀5年(728年)、聖武天皇の命によって、伊予の国の九四郷(現在の愛媛県各地)にそれぞれ神社が設けられることとなり、これらの神社に大三島大山祇神社から大山積神の御霊が勧請(かんじょう)されました。
こうして、それぞれの地域(合計:九四社)に三島神社が建立され、地域の守護神として人々の生活を見守る存在となりました。
「三島神社・旦」もそのうちの一つとして、大山祇神社の支社として創建されたと伝えられています。
この神社では、大山積神が祀られており、古代から海の恵みを受ける人々や、海を生活の一部とする多くの人々にとって、欠かせない守護神として崇められてきました。
明治時代の再編と国民国家
明治9年(1876年)、神社の再編によって旧旦村の神社が「村社」に指定され、地域の信仰の中心としての地位を確立しました。その背景には、当時の世界情勢や日本が直面していた深刻な課題が関係しています。
明治時代、欧米の強国はアジアやアフリカを植民地にして、資源を奪い取ることで自国の経済を強くし、軍事力を増強していました。この政策は覇権主義と呼ばれ、強い国が弱い国を支配して、自分たちの勢力を広げるためのものでした。
その中で日本も、欧米の国々に植民地にされる危険を感じていました。日本は独立を守り、国際的に強い立場を持つために、急いで近代化を進め、経済力と軍事力を高める必要がありました。これが「富国強兵」というスローガンで表され、明治政府はこの目標に向けてさまざまな改革を実施しました。
富国強兵とは、国を豊かにし、強い軍隊を持つことを意味します。明治政府はこのスローガンのもとで、工業の発展や農業の改革、軍隊の強化などを進め、国全体を近代的な国へと変えていきました。同時に、国民が一つにまとまって、強い日本を支えるために必要な政策も打ち出しました。
その中で特に重要な柱となったのが国家神道の確立です。国家神道とは、神道を国家の宗教として位置づけ、天皇を中心に神々を祀ることで、国民に対する忠誠心や愛国心を育てる仕組みです。神社を国家の管理下に置き、国民全員が天皇を中心に同じ信仰や価値観を持つことで、国を一つにまとめることを目指しました。
この政策の一環として、神社の再編が行われ、全国の神社が国家の管理下に置かれました。各地域の神社には「村社」や「郷社」といった社格が定められ、地域社会において重要な信仰の拠点とされました。旧旦村の神社も、この再編により「村社」に指定され、地域住民の信仰を支え、国家とのつながりを強める役割を果たすようになりました。
つまり、神社の再編は、当時の国際的な危機感の中で、日本が強い国民国家として自立し、欧米列強に対抗するための一環だったのです。
そして国民が一丸となって国を支える体制が整えられたことで、欧米列強から植民地として狙われることなく、強い独立国としての地位を確立していきました。
合祀による信仰の広がり
その後、明治41年(1908年)には周辺地域、長谷と福田にあった2つの荒神社、字高麗(じこうらい)にあった保色神社(うちもちじんじゃ)を合祀(ごうし)しました。
荒神社は火事除けや台所の神として信仰され、家庭の安全や繁栄を祈る場所でした。
保色神社は、稲作や農業を守護する神である保食神(うけもちのかみ)を祀っており、地域の農業文化と深い関わりを持っていました。
この合祀によって、「三島神社・旦」は海の守護神としての役割だけでなく、家庭や農業、地域全体の安全と繁栄を守る重要な存在へと発展しました。単なる地域の神社ではなく、幅広い生活領域をカバーする総合的な信仰の場となったのです。
また、この合祀は、当時の政府が推し進めた国家神道の政策とも一致していました。
現在の「三島神社・旦」
そして現在、「三島神社・旦」は地域の信仰の中心として、その伝統を受け継ぎながら地域社会に根付いています。
境内には、天保時代(1830〜1844年)や文政時代(1818〜1830年)に建てられた燈ろうが並び、訪れた人々に歴史の深さと美しさを伝えています。
昭和61年(1986年)には新しい社殿が建てられ、1250年式年祭が盛大に執り行われました。この式年祭は、神社の長い歴史と地域の結びつきを改めて祝う大切な機会となり、「三島神社・旦」はさらに多くの人々の祈りの場として親しまれるようになりました。
これらの文化財は、地域の人々の信仰と結びついた重要な遺産として、今もなお息づいています。