「龍泉寺(りゅうせんじ)は、大熊寺、泰山寺の間に位置し、300mほど登った寺静かな場所にある寺院です。眞言宗醍醐派の末寺で、泰山寺の奥の院として泰山寺が管理しています。
泰山寺よりも古い!?寺龍泉寺の歴史
龍泉寺の創建は、元正天皇の時代の養老年間(717〜723年)にまでさかのぼります。伝承によれば、この時期に有名な高僧である行基菩薩が全国を巡錫(仏教の布教や修行のために各地を巡ること)していた際にこの地に立ち寄り、そこで不動明王の像を彫り上げたことが、始まりとされています。行基菩薩は仏教伝道者として知られ、各地に寺院を建立し、また社会的な事業にも関わっていました。
一方で、同じ地域にある四国霊場第五十六番札所「泰山寺」は、弘仁6年(815年)に創建されたと伝えられています。これに基づくと、龍泉寺の起源は泰山寺よりも100年近く古い歴史を持つ可能性があり、地域の仏教信仰において重要な役割を果たしてきたことが示唆されます。
「天照院」天長年間の再建と本地仏
天長年間(824〜833年)には「天照院」と名乗り、本堂や講堂、塔、門などの主要な建物が建て直されました。この時に、現在も続く本尊として祀られたのが、阿那波大明神の本地仏である「十一面観世音菩薩」でした。
本地仏とは、神道の神が仏教の仏として姿を現したものを指し、神仏習合思想の一環として信仰されています。「十一面観世音菩薩」は、頭に11の顔を持つ姿が特徴で、さまざまな表情を使い分けて衆生の苦しみに応じます。この仏は深い慈悲を象徴し、すべての生き物の苦しみを取り除く力を持つと信じられています。
十一面観世音菩薩と四つの脇仏
十一面観世音菩薩の周囲には、「石鎚大権現」「不動明王」「弘法大師」」そして「聖宝理源大師」が脇仏(わきぶつ)として祀られていました。
「石鎚大権現 (いしづちだいごんげん)」は、四国の石鎚山に宿るとされる神様で、山岳信仰に基づく修験道の守護神です。石鎚山は四国の霊場としても知られ、修験道の行者たちに崇拝されています。石鎚大権現が祀られたことから、山岳信仰との深い関係があったことがわかります。
「不動明王(ふどうみょうおう)」は、仏教の護法神であり、悪を打ち払い、修行者を守護する存在です。激しい表情と炎を背負った姿で描かれることが多く、悪を断ち切る力強い象徴とされています。不動明王を祀ることで、寺を訪れる人々の安全や修行の成功を祈願していたと考えられます。
「弘法大師(空海)」は、日本における真言宗の開祖として、仏教の発展に重要な役割を果たした高僧です。日本各地に寺院を建立し、真言密教を広め、高野山を中心とした信仰の拠点を築きました。また、四国八十八箇所巡礼は、空海の足跡を辿る巡礼路として今も多くの信者に信仰されています。空海は、仏教界の偉大な宗教指導者であるだけでなく、文化や教育、政治にも深く関与し、多方面で活躍した人物として今日まで尊崇されています。
「聖宝理源大師(しょうほうりげんたいし)」は、弘法大師(空海)で孫弟子で、真言宗醍醐派の総本山「醍醐寺(だいごじ)」の開祖です。また、修験道と関わりの深い人物であり、山岳修行を重んじたことで知られています。聖宝理源大師が祀られたことから、修験道の教えや修行とも強く結びついていたことを物語ります。
戦乱の中で消えた歴史
以降、しばらくは戦乱の中で古い記録が失われました。
当時の日本では、南北朝時代や戦国時代を通じて、各地で戦争や権力争いが頻繁に発生し、多くの寺院や神社が兵火に巻き込まれたり、支配者の交代によって破壊されることがよくありました。龍泉寺もその影響を受け、古い記録が消失したと考えられます。
松山藩士「友沢家」から伝わる記録
その後の寺の記録は、伊予国の松山藩士「友沢家(友澤家)」との関係とともに伝わっています。
友沢家はもともと大洲地域で武士として活動していた家系で、「友沢武蔵守」として知られていました。しかし、戦国時代の戦乱でお家が滅び、生き残った一族は福岡県の英彦山にて山伏(修験道の修行者)として修行を始めました。
この山伏の修行は、精神力を高め、宗教的な修行を通じて自らを鍛えるという当時の仏教と修験道の教えに基づいて行われていました。
村上海賊の祖を支えた祈願師
その後、再び伊予国に戻った友沢家の一族は、この地で信濃村上氏(しなのうからみし)の祈願師としての役割を担うようになりました。
信濃村上氏は、村上海賊の祖とも考えられている、瀬戸内海を中心に勢力を広げた一族です。祈願師は、家族や一族の繁栄、健康、そして戦の勝利を祈る役割を担う宗教的な存在であり、当時のような戦乱の世の中で非常に重要な役職でした。
今治城を支えた友沢家の祈願
慶長15年(1610年)、藤堂高虎公が今治城を築城する際、友沢家を招いて地鎮祭が行われました。地鎮祭は、土地の守護神に祈りを捧げ、工事の安全と成功を祈願する重要な儀式です。
今治城という藩の一大プロジェクトの地鎮祭を任されたことから、当時の友沢家が地域の権力者や社会全体において非常に高い宗教的影響力を持っていたことが明確に示されています。
友沢家が小泉に移住
その後、藤堂高虎公に招かれた友沢家は、小泉村に移住して「天照院」の住職を務めるようになりました。この際、友沢家は田地三町六反(約35,000平方メートル)もの広大な土地を賜り、寺院は将軍や大名、さらには天皇や公家からも祈禱を命じられる「御祈願所」として指定されました。
「仙寿院」修験道の開祖を記念して改称
元禄十二年(1699年)、天照院は「役行者(えんのぎょうじゃ)」の一千年忌を記念して「仙寿院」と改称されました。役行者は、修験道の開祖として広く知られ、修験道は山岳信仰を基盤に仏教、神道、道教などの要素を取り入れた、日本独自の修行体系です。
修験道では、山を神聖視し、そこでの修行を通じて霊力や悟りを得ることが重要視されました。このような多様な信仰の融合の中で、日本では 神仏習合 という思想が発展しました。神仏習合とは、神道の神と仏教の仏を一体として捉え、共に崇拝する考え方です。この思想に基づき、修験道は神仏両方の信仰を尊重しながら広がっていきました。
天照院が仙寿院に改称された背景には、こうした修験道の精神を引き継ぎ、役行者の教えを象徴する目的があった考えられます。
火災が奪った修験道の寺院
しかし、元禄13年(1700年)に仙寿院は火災により全焼し、寺院は壊滅的な被害を受けました。この災害によって、寺の再建はほとんど進まず、その後長い間衰退が続きました。
明治12年(1879年)には住職不在の「無住」状態となり、寺院としての機能も停止しました。そして、「仙寿院」という院号も取り消される運命となり、かつて栄えた修験道の寺院はその姿を消してしまいました。
「真言宗醍醐派」寺院の再興へ
明治時代に入ると、仙寿院の再興を目指した動きが本格化しました。その一環として、明治36年(1903年)に「真言宗醍醐分教会」が設立されました。
真言宗醍醐派とは、真言宗の中でも特に京都の「醍醐寺」を中心とする宗派です。醍醐寺は、日本仏教の密教の中心的な寺院の一つであり、山岳修行と密教の実践を重視しています。この宗派は、弘法大師(空海)が中国から持ち帰った密教を基礎とし、仏教の教義を深く実践することを目的としています。
真言宗の教義は「三密の行」(身・口・意の調和)を中心に展開されており、祈りや儀式を通じて仏と一体になることを目指します。具体的には、仏像や曼荼羅の前で、手の印を結び(身)、真言を唱え(口)、心を集中させて悟りに近づく(意)という修行方法を実践します。醍醐派は、これらの教義を基盤に、山岳での厳しい修行や儀式を通じて精神的な悟りを追求します。
歴史的には、醍醐派は平安時代に弘法大師の弟子たちによって発展し、特に修験道の要素を取り入れた山岳信仰とも結びつきました。中世以降、醍醐寺は重要な文化・宗教の中心地となり、数々の高僧を輩出しながら真言密教を発展させてきました。
「石鈇山龍泉寺」大洲市の“龍泉寺”を移転
真言宗醍醐分教会の設立に続き、大正元年(1912年)には愛媛県喜多郡滝川村(現・大洲市)にあった龍泉寺が仙寿院の境内に移転されました。
その後、大正4年(1915年)には新たな本堂が建設され、この時に山号を「石鈇山」、つまり石鎚山(いしづちさん)としました、
石鎚山は、四国地方に位置する西日本最高峰(1,982m)の霊峰で、古来より山岳信仰や修験道の重要な修行場として知られています。奈良時代には修行道場として栄え、役行者(えんのぎょうじゃ)や弘法大師空海もこの山で修行を行ったと伝えられています。
日本七霊山の一つとしても崇められ、山そのものが神聖な存在とされ、神仏習合の時代には「石鎚大権現(いしづちだいんごげん)」が祀られました。石鎚山山頂に至るまでの道のりには「鎖場(修行の一環として設けられた鎖を使った登攀道)」があり、修験者たちはこれを乗り越えながら霊力を高めていくとされ、、毎年7月の「お山開き」という神事には、数多くの参拝者や修行者が訪れます。
石鈇山を山号をもつ龍泉寺は、修験道や山岳仏教と強く結びつきながら、真言宗の教えを継承し、地域の信仰の中心としての役割を担う存在になりました。
「泰山寺の奥の院」としての龍泉寺
こうして、復興を果たした龍泉寺でしたが、別角度の問題に直面します。
長年、伝統的に寺を管理していた友沢家では、古いしきたりや寺院の細かい知識を知っているのはお婆さんだけになっていました。そしてそのお婆さんが亡くなると、寺を受け継ぐ後継者がいなくなってしまったのです。
このため、寺を維持することが困難になり、最終的には近隣にある泰山寺が龍泉寺を「奥の院」として管理することになりました。
龍泉寺の見所
龍泉寺の本堂には、等身大の「十一面観世音菩薩」が安置され、さらに石の大厨子には「弘法大師像」が祀られています。十一面観世音菩薩は、人々の苦しみや願いを救う仏として信仰されており、等身大の像が本堂の中心に据えられていることは、その信仰の重要性を象徴しています。
また、弘法大師(空海)像が祀られていることで、真言宗の密教思想と修行の伝統が龍泉寺に深く根付いていることがわかります。
「弁財天」
本堂の前には、福神仰の弁財天を祀った小さな祠があり、庶民から「銭洗い弁天」として親しまれてきました。この弁財天は、特に江戸時代から信仰を集め、財運や商売繁盛を祈願する人々が多く訪れる場所として知られています。弁財天は、日本では財運や音楽、知恵の神として崇拝されており、この小祠も人々の信仰の場として長年にわたり地域に根付いています。
「銭洗い弁天」という名前からもわかるように、ここではお金を洗い清めることができるとされ、これによって財運が向上すると言われています。
「十一面観世音菩薩の鏝絵」
本堂正面の壁には、「鏝絵(こてえ)」と呼ばれる珍しい円形漆喰塗りの「十一面観世音菩薩」の額が掛けられています。この鏝絵は、1917年(大正6年)に左官職人の井出重太郎によって作られた作品です。
鏝絵とは、漆喰を素材にして、左官職人が「こて」と呼ばれる道具を使い形を作り出すレリーフ(浮き彫り細工)のことです。この技法は一般的には建物の装飾に多く用いられますが、仏像を描いた鏝絵は非常に珍しく、現存する例はほとんどありません。
この十一面観世音菩薩の鏝絵は、その希少性と美術的価値が高く、テレビや新聞などのメディアでも取り上げられています。寺院や地域の文化財として、現代まで大切に保存されており、訪れる人々にその美しさと歴史を伝え続けています。
友沢家の名残
さらに、かつて友沢家が住んでいた地域には「友沢谷」や「友沢池」の名残が残っており、今治南校の農園のあたりも「友沢谷」と呼ばれることがありました。
御朱印はコーヒの店「阿奈波」
龍泉寺の御朱印は、隣にあるコーヒー店「阿奈波」で受け取ることができます。この店は「今治で一番小さいコーヒーの店」として知られており、訪れる際には独特な風情を楽しむことができます。不定休で営業しているため、訪問の際は事前に確認することをお勧めします。