「三島神社・馬越(みしまじんじゃ)」は、鯨山古墳(愛媛県指定史跡:日高鯨山の古墳)の上に鎮座する神社です。
三島神社・馬越の創建
和銅年間(708~714年)元明天皇の詔勅により、伊予国の国司「越智玉純(おちのたまずみ)」が、伊予国の九十四郷それぞれに、大三島の大山祇神社から勧請した神霊を祀り、九十四の三島神社を設立しはじめました。
「三島神社・馬越」はその中の一つとして、和銅5年(713年)8月23日に別当寺(現:安養寺)とともに設立されました。
三神の守護
「三島神社・馬越」には大山津見命(おおやまつみのみこと)、上津比売命(うわつひめのみこと)、下津比売命(したつひめのみこと)の三神が祀られています。
大山津見命は、大山祇神社の主祭神であり、「大山積神(おおやまつみのかみ)」や「三島大明神」とも呼ばれています。この神は、古来より山の神として崇拝され、日本の自然信仰の中でも特に重要な役割を果たしてきました。山の神として、山岳や森林を守護し、自然の恵みをもたらす存在とされていますが、同時に海の神としての側面も持ち、瀬戸内海沿岸地域では特にその両面が重要視されています
上津比売命と下津比売命は、大山津見命の娘にあたる神々で、上津比売命は磐長姫命(いわながひめのみこと)、下津比売命は木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)とされます。
古代日本神話では、大山津見命が両姉妹を天照大御神の孫である邇邇芸命に嫁がせようとしましたが、邇邇芸命が磐長姫命を追い返し、木花開耶姫命を娶ったため、長寿ではなく短命となる運命が定められたとされています。
馬越と鯨山の名に秘められた由来
「三島神社・馬越」を作る際、建築場所として選ばれた鯨山は、かつてこの地域は浅瀬の海で、地形が満潮時にクジラのように見えることからその名がつけられたとされています。
さらに、この浅瀬を馬で往来していたことから、地域名「馬越(うまごえ)」の由来となりました。
乎致命の伝承と鯨山の神聖性
鯨山(鯨山古墳)は、越智玉純の祖先である「乎致命(おちのみこと)」のお墓であるという伝承もあります。
乎致命は、大山津見命の子孫であり、自らの祖神を祀って大山祇神社を創建したとされています。
大山祇神社と深い繋がりを持つ三島神社が、乎致命のお墓の上に建てられたとするならば、単に場所の選定にとどまらず、特別な意味を持っていたと考えられます。
時代を超えての守護神
かつて「三島神社・馬越」は、越智郡日吉郷において一郷一社として地域全体の信仰の中心となっていました。
一郷一社とは、古代日本の郷や村ごとに最も重要な神社を選び、その地域の守護神として祀った制度です。この制度は、地域の宗教的中心地としての役割を担い、信仰の核として機能していました。
平安時代中期には、日本全国で約4,000の郷が存在し、それぞれの郷が村落を含む広範な地域を管理しており、「三島神社・馬越」も祭祀や宗教的儀式を通じて、郷の平和や繁栄を祈願する場として、日吉郷民にとって欠かせない存在でありました。
そして、現代においても「三島神社・馬越」は、地域の人々にとって欠かせない場所であり続けています。歴史的・文化的な価値が大切に守られ、伝統が今もなお息づいているこの神社は、地域の精神的な支柱としての役割を継承しています。