「三島神社・小泉(みしまじんじゃ)」は、四国八十八か所霊場第56番札所「泰山寺」のすぐ横に位置し、巡礼者や地元住民から長年にわたり信仰を集めてきた神社です。
伊予国における三島神社の創建
和銅年間(708~714年)元明天皇の詔勅により、伊予国の国司「越智玉純(おちのたまずみ)」が、伊予国の九十四郷それぞれに、大三島の大山祇神社から勧請した神霊を祀り、九十四の「三島神社」を設立しはじめました。
神社拡大と新たな郷への分霊
延暦22年(803年)になると、九十四郷に加えて二十九郷に新たな三島神社が設置されることとなりました。新たに誕生した各郷にも大山祇神社から御分霊され、さらに各地に行き渡り、さらに多くの地域に神聖な祈りの場が設けられました。この新たに作られた三島神社の一つが、「三島神社・小泉(みしまじんじゃ)」です。
弘仁年間における発展と神領の寄進
創建後の「三島神社・小泉」は旧小泉村の村社として、地域住民にとって重要な信仰の場となりました。
弘仁5年(814年)8月23日、伊予国の国司であった河野真勝が、新しい社殿建が建て、神社の「神領(しんりょう)」として山林や水田を寄進しました。
「神領」とは神社が所有し、維持運営のための収益源となる土地です。河野真勝が寄進した山林は木材や山の資源の利用ができ、水田からは米などの収穫が得られました。こうして得られた収益は、神社の建物の維持や修繕、祭りや神事の費用にあてられ、神社の安定的な運営を支える大切な基盤となりました。
戦国時代における役割
戦国時代、この地には河野氏の家臣である「河上氏」が拠点とした「天神山城(てんじんやまじょう)」がありました。河上氏は、河野氏の有力な家臣として地域支配を支え、天神山城はその要として重要な役割を果たしていました。河上氏は河野氏との深い結びつきのもと、城を中心に地域防衛や行政に携わり、周囲の村々や神社との関係を通じて影響力を広げていました。