「東円坊(とうえんぼう)」は、神仏習合時代の名残を色濃く残す寺院で、徒歩数分の距離にある大山祇神社と深い繋がりがあります。
本尊は「薬師三尊(やくしさんぞん)」で、本堂には薬師如来坐像と、薬師如来の働きを支える日光菩薩立像・月光菩薩立像が安置されていますが、中央に安置されているのは、大山祇神社の御祭神である「大山積神(おおやまつみ)」の本地仏(ほんじぶつ)、「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」です。
このような神仏習合の信仰形態は東円坊の創建時から始まり、神道と仏教の教えが融合する形で祀られ続けてきました。
祖霊社との繋がり
東円坊の起源は、平安時代の保延元年(1135年)にまでさかのぼり、「祖霊社(それいしゃ)」の創建と密接に関係しています。当時の日本では、神道と仏教が融合した「神仏習合」が進んでおり、大山祇神社でも神道の御祭神「大山積神」を仏教の「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」という仏の姿で祀るようになりました。
これに伴い、神宮寺を支えるための寺院や僧侶の住まいとして、「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる24の坊(僧坊)が設置されました。
これら24坊は神宮寺の周囲に配置され、それぞれの坊に僧侶が居住していました。
各坊はそれぞれ独自の役割を持ちつつも、神宮寺を中心とした一体の信仰組織として機能していました。東円坊もそのなかの一つとして創建されました。
河野氏によって創建
東円坊(とうえんぼう)は、河野氏の一族である河野為澄(こうのためすみ)の次男、河野妙尊(こうのみょうそん)によって創設されたと伝えられています。
妙尊は、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)の教えを受けて修行を重ね、その教えを広めるために大三島で寺院を設立しました。この寺院は後に、妙尊の子によって「東円坊」と名付けられ、修験道の流れを引き継ぎながら発展しました。
24坊の一つ
河野氏の庇護を受けて発展してい東円坊は、当初、24坊の一つとして神宮寺を、大山祇神社の信仰を支える重要な存在として機能していましたが、時代とともに変化を余儀なくされました。
平安時代末期の正治年間(1199〜1201年)、24坊のうち8坊(南光坊、中之坊、大善坊、乗蔵坊、通蔵坊、宝蔵坊、西光坊)が今治市市内にある別宮(別宮大山祇神社)に移されたため、大三島の坊は16に減少しました。
戦乱や時代の変遷によって坊の数は次第に減少し、天正五年(1577年)には東円坊、法積坊、上大坊、地福坊のわずか4坊のみが残る形となりました。
さらに、明治元年(1868年)に出された神仏分離令により、神宮寺は廃寺となり、祖霊社として姿を変えることになりました。
この影響で残っていた4坊も次々に廃止され、唯一、東円坊だけが存続することを許されました。
このようにして、東円坊は神仏習合の歴史を物語る貴重な寺院として現在に至り、長い歴史と大山祇神社との深いつながりを今に伝え続けています。
四国八十八箇所「第55番札所」
現在、四国八十八箇所の第55番札所は今治市にある「南光坊」が担っていますが、かつては「東円坊」がその役割を果たしていたとされています。
しかし、この地域は潮流が激しく、海を渡るのが非常に困難な場所でもあり、巡礼者が大山祇神社に辿り着くのは容易ではありませんでした。そのため、巡礼者の便宜を図るために今治市に「別宮大山祇神社(別宮)」が設けられ、四国八十八箇所が定められた際には、別宮が「前札所」としての役割を果たしました。
この時、別宮の仏教的業務を取り仕切ってい別当寺の中で、隣接する南光坊が前札所としての業務をおこなうようになりました。
一方、大三島の大山祇神社においては、別当寺である神宮寺が仏事を行っていたため、神宮寺が55番札所としての役割を果たしていたとされています。
神宮寺には「供僧(ぐそう)」と呼ばれる僧侶たちが所属し、神宮寺の仏事を支えるために24の坊に分かれて、それぞれが独自の役割を持って奉仕していました。その中で、東円坊は供僧を監督する「検校(けんぎょう)」という重要な役職に任命され、代々その地位を受け継いでいたと伝わっています。
このことから、55番札所の業務も実質的には東円坊が行っていたと考えられ、実際に巡礼者を迎える役割を果たしていたのは東円坊であったという説が有力とされています。
この説を裏付けるように、江戸時代の巡礼記録には大山祇神社への参拝が重視されていたことが記されています。例えば、澄禅が承応2年(1653年)に記した『四國辺路日記』では、澄禅が今治の別宮を参拝した際に「本来の巡礼は島に渡り、ここ(別宮)での参拝は簡略なもの」と述べています。
また、貞淳2年(1685年)に真念が刊行した『四国遍路道指南』にも、「別宮は三島ノ宮(大山祇神社)の前札所であり、海上7里を越えて三島に渡ることが本来の参拝」と記されています。
さらに、寛政12年(1800年)に編纂された『四国遍礼名所図会』では、53番札所の円明寺の次に「五十五番三島社祭神大山積大明神」の項があり、図面付きで大山祇神社と神宮寺が解説されています。
この図会では大山祇神社が55番札所の中心に位置づけられており、その次に54番延命寺、55番別宮と続いています。別宮についても「大三島に渡らない時はここで遙拝する」と記されており、当時の巡礼者にとって大三島への参拝が正式とされていたことが伺えます。
また、大三島南対岸の波止浜港には文政13年(1830年)に建立された「遍路石」があり、そこから北に進んで大三島に渡り、大山祇神社や本地仏である大通智勝如来に参拝していたことが示されています。
これらの記録から、大三島の大山祇神社へ直接参拝することが正式な四国遍路の巡礼行程であり、多くの巡礼者がこの地を訪れていたことがわかります。
東円坊に移された貴重な文化財
神宮寺が明治初年の神仏分離令で廃寺になった際、所蔵されていた多くの貴重な仏教文化財が失われたり行方不明になったりしないよう、東円坊に移されました。
その中でも特に大切にされたのが「大通智勝如来坐像(木造大通智勝如来坐像)」です。神仏習合の象徴として神宮寺に長く祀られていたこの仏像は、現在も東円坊の本堂に安置されています。
この像は鎌倉時代末期に作られ、全国的にも珍しい左右逆の智拳印を結んでいるのが特徴です。頭部には「元徳二年(1330年)院吉」と墨書されており、制作年と仏師の名前が確認できる貴重な仏像です。
また、同じく移された「木造如来形坐像」は地元で「弥勒(みろく)」と呼ばれており、かつて火災で失われた仏像に代わり制作されたとされ、「伝弥勒菩薩(でんみろくぼさつ)」として愛媛県の有形文化財に指定されています。こうした文化財は、神仏習合の歴史を今に伝える貴重な存在です。
さらに、正慶元年(1332年)に奉納された「鈸子(ばっし)」と「銅鑼(どら)」も東円坊で大切に保管されています。鈸子には寄進者の名が刻まれており、儀式に欠かせない道具として長く使われてきました。これらの道具も2019年に国の重要文化財に指定され、仏教儀礼の歴史的価値が認められています。
2019年に東円坊の本堂は再建され、2020年に完成しました。その際、脇堂にあった聖天様などの仏像も本堂に移され、新しい本堂でさらに多くの人が拝むことができるようになっています。
本堂の再建から2年後の2022年には、新たに大師堂が建立されました。この堂は、弘法大師(空海)を中心に、如意輸観音、地蔵菩薩、不動明王、弁才天が安置されています。
そして、2023年2月14日には「木造大通智勝如来坐像」と「木造如来形坐像」が愛媛県の有形文化財として正式に指定されました。
五輪塔に残る24坊の歴史
東円坊には、多くの五輪塔が集められています。記録が残っていないため詳細は不明ですが、これらはかつてこの地に存在していた「24坊」に関わる僧侶やその支援者たちのお墓として作られていたものではないかと考えられています。
五輪塔は、仏教の五大要素である「地・水・火・風・空」を象徴するもので、人が亡くなった後、その魂がこれらの要素に還ることを表現しています。これらの五輪塔が数百年を経てなおも残っていることで、かつての人々の信仰や祈りが感じられ、訪れる人々に祖先や過去の人々への敬意を改めて抱かせる存在となっています。
また、東円坊周辺のみならず、大山祇神社の御神体山である「安神山(あんじんさん)」のふもとにも五輪塔が点在しています。
安神山は、古くから大山祇神社との深い結びつきを持ち、地元の人々にとっても神聖な山として信仰されてきました。
特に、毎年1月7日に行われる大山祇神社の祭礼「生土祭(しょうどさい)」では、安神山の山麓で大地の力を象徴する赤土を採取し、神前に供える儀式が執り行われます。この神事は、自然の恵みに対する感謝と、新しい一年の安全と豊穣を祈るためのものです。
東円坊周辺に点在する五輪塔や、長い伝統に根差した祭礼は、この地に生きた人々の信仰と祈りの象徴であり、日本の大切な文化遺産として現在も受け継がれています。