「鴨部神社(かんべじんじゃ)」は、ハリソン東芝ライティングの裏側に位置し、東禅寺と向かい合うように佇んでいます。この神社は、伊予の豪族・小千益躬(越智益躬・おちのますみ)を祀っており、その功績と信仰が今に伝えられています。
「鉄人伝説」
「鴨部神社」の創建を語る際には、東禅寺の創建伝説にも登場する「鉄人伝説」を避けては通れません。
七世紀の推古天皇(在位592〜628年)の時代、「鉄人」は新羅や百済など三韓(朝鮮半島)から、8000人の軍勢を率いて九州の筑紫の国(現在の九州)から侵攻を開始しました。鉄人は圧倒的な武力だけではなく、「風雨の術」と名付けられた神秘の妖術までも使うと噂され、多くの戦死者を出し、人々は恐怖に震えていました。
この鉄人討伐を朝廷から命じられたのが小千益躬でした。
出陣前、益躬は一族の守護神である「三嶋大明神」に七日七夜(一週間)祈願したところ、「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」という神託を受けました。
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた隙といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでもじっとチャンスを待ち続けた益躬に、ついに決定的な瞬間が訪れます。
その日、鉄人は目の前に広がる壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていたのです。
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
この瞬間を最大の好機と捉えた益躬は、三嶋神社の神託に従い懐に隠していた鏃を投げつけました。鏃はまっすぐに空を切り裂き、見事に唯一の弱点であった足の裏の穴に命中、それは致命傷となって鉄人は崩れ落ちました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
この功績により、越智益躬は伊予の国の長官に任じられ、戦いで犠牲となった部下たちの慰霊のために「東禅寺」を建立しました。
益躬はその死後、文武天皇(在位697~707)からその勲功を称えられ、「鴨部大神(かんべおおかみ)」の称号を授けられました。
そして、東禅寺の対面に「鴨部神社」が創建され、益躬は御祭神として祀られることとなりました。
神戸から鴨部へ
「鴨部(かんべ)」という地名の由来については、もともと「神戸(かんべ)」と呼ばれていた地域が、大同4年(809年)に「鴨部」に変更されたとされています。『伊予郡誌』には、「神戸大神祭神小千宿称益躬、大同四年部と改む」と記録されており、この記述からも当時の地名変更が確認できます。
つまり、小千益躬は当初は「神戸大神(かんべおおかみ)」の称号を授けられ神戸神社に祀られており、文字の変更によって現在の「鴨部」という表記になったと考えられます。
越智益躬公墳墓の地
鴨部神社の境内には「越智益躬公墳墓の地」という碑が建てられています。この碑は、神社の主祭神である小千益躬(越智益躬・おちのますみ)の伝承を伝えるもので、今治市においても重要な歴史的意味を持っています。
一方で、小千益躬の本当の墓は、今治市朝倉地区にある「樹之本古墳(きのもとこふん)」だと考えられています。です。
樹之本古墳は、愛媛県今治市朝倉地域に位置する、古墳時代中期(およそ5世紀頃)に築かれたとされる円墳です。この古墳は、今治平野を代表する重要な考古学遺跡であり、朝倉地域に300基以上も現存する古墳の中で特に古く、また規模も大きいことから、当時の今治で最も勢力を持った豪族の墓であると考えられています。
明治41年から42年(1908〜1909年)に行われた発掘調査では、樹之本古墳から数多くの貴重な遺物が出土しました。
主な出土品としては、「獣帯画像漢式青銅鏡」と呼ばれる直径24センチの青銅鏡や、勾玉、管玉などの装飾品、さらには青銅製の刀身や槍身が含まれており、これらの出土品は豪族の権威と富を示すものとされています。とりわけ、獣帯画像漢式青銅鏡は、中国・漢代の工芸技術を取り入れたもので、当時の国際的な交流や文化的な影響がうかがえます。
さらに、この古墳からは銅製の薬師如来像が発見されています。薬師如来像は日本では一般的に聖徳太子(574年~622年)以降に仏教の影響が広がった時代に造られたものであり、5世紀頃に存在していたとすると、日本への仏教伝来に先駆けた信仰がこの地に根付いていた可能性が示唆されます。
これは古墳時代における信仰や、精神的文化の一端を知る上で貴重な手がかりとなるものです。
このように、墳丘の規模や数々の貴重な出土遺物から、樹之本古墳は伊予国を治めた豪族の墓、すなわち小千益躬の墓であると考えられています。
「往生伝」小千益躬の最期
小千益躬の最期については多くの伝承が残されており、その篤い信仰心と穏やかな死が語り継がれています。
伝承によると、小千益躬は晩年まで法華経を読み、念仏を欠かさない深い信仰を貫いていました。最期の時、益躬は痛みも迷いも感じることなく、静かに定印を結び、西方の仏を心に浮かべながら安らかに命を閉じたと伝えられます。
その瞬間、天上の音楽が響き、芳しい香りが辺りに漂い、村の人々は驚きとともに感嘆したといいます。益躬の往生を讃えない者はおらず、その姿は「往生伝」として後世に語り継がれることとなりました。
益躬のこの最期は、信仰とその生涯の功績がいかに深く人々の心に刻まれたかを物語っており、益躬の徳は子孫や地域に誇りと名誉をもたらしました。