2025年4月14日。
今治市と西条市を襲った大規模な山林火災は、「鎮火」発表をもって、一つの節目を迎えました。
現場に置かれていた消火用ホースも片付けられ、ようやく地域には日常が戻ってきました。
住宅や山林には大きな被害が出ましたが、幸いにも人命が失われることはありませんでした。
これは間違いなく、昼夜を問わず活動してくださった多くの消防隊員の方々、関係者の皆さんの尽力のおかげです。
現場に向かい、山に入り、風向きを見ながら放水し、危険な中でずっと動き続けてくださったその姿に、心からの感謝を伝えたいと思います。
今回は、この火災を通して私が感じたこと、そして何よりも、次に備えるために伝えておきたい教訓をまとめています。
音のない火…静かに広がる「地表火」
今回の山林火災では音もなく延焼を続け、竹藪が燃え上がった際に爆竹のような音がしましたが、それまでは非常に静かで、ヘリやサイレンの音だけがけたたましく響いていました。
初日、少し離れた場所から山林の様子を見ていましたが、時折炎が上がるだけで、基本的には数カ所から煙が立ち上っているだけでした。
これは山の中の地表部分で枯葉が燃え広がっていっていたためで、離れた場所では確認することことができなかったためです。
このような、山の地面の落ち葉や小枝が静かに燃える状態を、「地表火(ちひょうか)」といいます。
「樹冠火」あの炎の正体
では、山林火災の最中に時折見えていたあの炎の正体は一体なんだったのでしょうか?
それは、地面を這うように静かに広がっていた「地表火(ちひょうか)」が、木の根元から幹を伝い、枝葉(樹冠)まで到達したときに、一気に燃え上がったものです。
この現象は「樹冠火(じゅかんか)」と呼ばれています。
そして、炎が突然見えなくなった理由も単純で、樹冠が燃え尽きてしまい、燃えるものがなくなったために、炎が姿を消したにすぎません。
樹冠火のもうひとつの特徴は、燃え上がった枝葉から隣の木へ火が飛び移っていくという性質を持っていることです。
燃えた木から次の木へ、また次の木へと、火はどんどん移っていき、その様子はまるで火のドミノ倒しのようでした。
「火が描いた道」と“陰謀論
始め、炎は山の上へと駆け上がり、まるで道をつくるように進んでいきました。
その進行の速さと勢いは想像をはるかに超えており、火が進む道を自然に切り開いていく様子は、まるで誰かが意図的に火を放ち、道を描いているかのように見えました。
「まるで人為的に火が放たれたようだ」
この光景は、SNSなどで「レーザー兵器によって引き起こされた」とする陰謀論やフェイク情報を呼ぶ原因にもなったようです。
しかし、幸か不幸か、私たちの地域は高齢者の多い田舎であったため、そのような情報が“届く”こと自体、ほとんどありませんでした。
というよりも、そんな情報を見ている余裕なんて、私たちにはまったくありませんでした。
目の前で起きている火災の現象に目を光らせ、「何が起きているのか」「何が次に起こりそうか」を判断することが、何よりも最優先だったのです。
スマートフォンのバッテリーも、家族や近隣との連絡に使うために温存しておく必要があり、無駄な情報を追いかけている暇は、どこにもありませんでした。
ネットの中で語られる“真実”や“陰謀”が、もし本気で世の中を良くするつもりで発信されているのだとしても、実際の災害現場いた私たちから見ると、それはあまりにも現実からかけ離れていて、安全な場所から被災地を眺めながら、ネタにして“遊んでる”かのようにすら感じました。
でも実際には、それは「山の斜面」がつくり出した、ごく自然な火の動きでした。私たちは、その瞬間を確かに見ていたのです。
山林火災では、火は基本的に下から上へ進行します。これは、「火災の上昇流(上昇気流)」と「風の影響」が組み合わさることによって、火が斜面を駆け上がっていくためです。熱は上へと移動する性質があるため、傾斜のある場所では、火は水平よりも速く、鋭く上方向に広がるのです。
また、燃焼によって発生した上昇気流そのものが新たな酸素を呼び込み、火勢をさらに強めます。これにより、斜面では火が加速度的に拡大する傾向があります。
さらに、今回の火災が起きた時期は非常に乾燥しており、落ち葉や枝、倒木などの可燃物も多く蓄積していました。こうした燃えやすい地表の素材(地表燃料)が多い状態では、枝葉から枝葉へと火が飛び移り、“まっすぐな線”のように火が道を描くように進むという現象が起こりやすくなります。
このため、「誰かが意図的に火を放っているのでは」と感じるほど、一直線に火が進む様子に驚き、疑問に感じたのだと思いおます。
しかしそれは、山林火災においては決して不思議なことではなく、地形と気象条件がもたらした自然現象なのです。
谷を包囲した“火の鶴翼の陣”
このように、山肌を縫うようにして進んできた炎の線は、やがて麓へ…谷に住む私たちの暮らす場所へと、一斉に降りてきました。
『鶴翼の陣(かくよくのじん)》をご存知でしょうか?
戦国時代、敵を中央に誘い込み、両翼を大きく広げて包囲・殲滅を狙う戦法で、あの「関ヶ原の合戦」で西軍・石田三成が実際に布陣したことで知られています。
この陣形は戦術として非常に優れており、布陣さえ成功すれば敵に反撃の隙を与えず、時に逃げ道さえ奪うとされています。
実際、兵力配置や戦術的な完成度だけを見れば、鶴翼の陣を布いた西軍は“圧倒的有利”だったとも言われています。しかし、味方の裏切りが起こったことで、その包囲網は崩れ、戦局は大きく逆転しました。
もちろん山林火災に“裏切り”などはありません。
谷に住んでいた私たちにとって、今回の火の広がりは、まさに“完全な鶴翼の陣”そのものでした。
一見、遠くの山を這うように進んでいた炎の線が、私たちのいる谷を中心に、前方、左右、そして背後…三方向から火が迫ってきて、180度包囲されることとなったのです。
ゾンビのように蘇る炎「地中火の脅威」
実際には、山肌にできた炎の線は、ヘリコプターによる散水が行われたことで一時的に途切れていました。
しかし、ヘリの散水が行われなくなった日没後、一度は消えていた様に見えた場所から再び煙が立ち上がり、やがて火柱となって燃え上がりました。
周囲には水が撒かれ、一見すると燃えるものがない灰の中…それでも、火は静かに息を吹き返し、再び立ち上がったのです。
このように、地表では火が見えなくなっていても、地中では火が生き続けている現象を「地中火(ちちゅうか)」と呼びます。
では、なぜ火は地中で燃え続けることができるのでしょうか?
そのメカニズムの鍵となるのが、「腐葉土(ふようど)」と呼ばれる地表下の層です。
山の地面には、落ち葉や枯れ枝、草などが長年にわたって堆積し、やがて腐葉土という層を形成しています。
この腐葉土は、見た目には湿っているように見えても、葉と葉の間には細かい空間があり、内部には酸素が多く含まれています。
火は、このわずかな酸素と有機物を燃料にして、地中でゆっくりと燃え続けます。
この見えない火が、やがて熱源となり、なんらかの影響を受けて大きな炎となり、再び火柱となることがあります。
何度も蘇るこの現象から、「ゾンビ火災(Zombie Fire)」という名前で呼ばれることもあります。
この現象は非常にしぶとく、表面からは完全に消えたように見えても、地下ではまだ火が生きており、数時間後、あるいは数日後に再び地表に現れることがあるのです。
今回の火災でも、鎮圧宣言が出されたあと、ドローンによる空撮や、直接的な熱源確認による慎重な監視が続けられていました。
実際に消防隊の方々は、何度も山に入り、サーマル(赤外線)カメラなどを使って、熱源が完全に消滅しているかどうかを確認し続けていました。
完全に火の根を断ち切らない限り、山火事は終わらない。
それが、私たちが今回の火災で身をもって学んだことのひとつです。
ゴミの不法投棄と山林火災
今回の火災では、山林の一角にごみが不法投棄され、長年にわたって堆積し、まるで地層のようになっている場所がありました。
そして、その場所からは、火が消えたはずの後も、ずっと煙が上がり続けていたのです。
腐葉土や枯れ枝とは異なり、そこに積まれていたのは、ビニールや布、プラスチック、家電の破片といった人工物でした。
こうした素材は一度燃えると高温のまま、外側から水をかけても内部まで届かず、くすぶり続ける原因となります。
「火が終わらない理由のひとつに、人間が勝手に捨てたごみがある」
とてもやりきれない気持ちになりました。
多くの山林火災では、野焼きの拡大、タバコのポイ捨てといった、人間の不注意が火の原因になっています。
また、ガラス瓶やアルミパックのようなごみも、強い日差しを受ければレンズのように光を集め、火種となる可能性があります。
「ゴミ箱に捨てるのが面倒臭い」
「皆が捨ててるから」
「誰も見てないから捨ててしまえ」
山にごみを捨てた人たちは、もしかしたらそんな軽い気持ちだったのかもしれません。しかし、実際に火種としてくすぶり続け、私たちの生活や命を脅かすことになりました。
火災に繋がらないとしても、ごみのポイ捨ては、絶対に許されることではありません。
自然を守るということは、火を防ぐということでもあるのだと、私は今回の火災で強く感じました。
「飛び火の恐怖 」風に乗って現れる、目に見えない炎
山林火災といえば、山の中で地面を這う炎、木々を燃やす火柱を想像していました。
しかし今回、私たちが最も強く脅威に感じたのは、空を飛ぶ火「飛び火」でした。
火災の初日から3日目にかけて、現地では強い風が吹き続けていました。
その風にあおられて、火の粉や灰が空中を舞い、数百メートル、あるいはそれ以上先まで飛んでいきました。
それらは見た目には小さな破片にすぎませんでしたが、内部には十分な熱を含んでおり、
落下した先に乾いた葉や木の枝、建物の軒下などがあれば、そこが火元となって、たちまち炎へと変わっていきました。
炎が見えているうちは、どこが危険で、どこが逃げ道なのか、ある程度の判断ができます。
しかし、飛び火は、風に乗って予測もできない方向から突然やってくる火だったのです。
実際、火元から遠く離れた場所で突然、炎が立ち上がる場面に、私たちは何度も出くわしました。
「なぜこんなところが燃えているのか」
「どうして後ろから火が来るのか」
そう思ったときにはもう遅く、そこは“次の火元”に変わり、再び火の粉を別の場所へと飛ばし始めていたのです。
私たちは、火の近くにいるから危ないのではなく、火の行方がわからないことこそが、最大の恐怖なのだと気づきました。
すでに鎮まったと思われた場所で再び燃え上がる「ゾンビ火災」。
そして、遠く離れた地点にまで火を広げる「飛び火」。
今回の山林火災はただの延焼ではく、目に見えない火の連鎖と、絶えず向き合い続ける戦いだったのです。
見える火でさえ、判断を誤ることがある
目に見える火についても、実は大きな問題が発生していました。
目の前で炎が見えていたとしても、それが「どれだけ近くにあるのか」を判断するのが、非常に難しかったのです。
山が連なる地形では、遠くにある大きな山が、近くに見えるという錯覚が生じやすくなります。
そのため、火がまだ遠くにあるのか、すでにすぐ近くまで迫っているのか…目視では判断しづらい状況が、常に続いていました。
さらに、私たちの地元は、火災によって発生した煙に常に包まれているような状態が続いていました。
それによって視界は著しく悪化し、空気中には刺激物が漂い、目や喉が痛むため、屋外に出るにはマスクの着用が必須という状況が長く続きました。
この煙が、さらに私たちの感覚を狂わせていきました。
山林火災は、山の向こう側や谷を挟んだ場所で発生すると、炎そのものが地上からは見えにくくなります。そのため、私たちはやがて、煙の上がっている場所を「火の位置の目印」として参考にしていました。
しかし、それもまた錯覚の要因となりました。
山が連なっているため、遠くの山から立ち上る煙が、まるですぐ裏の山から上がっているように見えたのです。
そんな視覚の混乱が、私たちの判断を鈍らせ、常に不安を煽っていました。
このため、私たちにとって、1日数回の上空からの報道ヘリによる映像が、火災の全体像を知るための、ほぼ唯一の手段となっていました。
しかしその映像でさえ、煙と黄砂によってはっきりとしないことが多く、「どの山が燃えているのか」「どこが安全で、どこが危険なのか」の判断を下すことは、極めて困難な状態だったのです。
火の届かない場所でも起きていた、交通と情報の混乱
山林火災が発生した直後から、火そのものとは無関係な場所でも、情報の混乱が発生していました。
目まぐるしく変わる状況の中で、主要道路では封鎖と解除が何度も繰り返されましたが、その情報はすぐには行き届かず、封鎖が行われたあとも、その場所に向かっていく車両の姿が多く見られました。
また、今治から西条方面へ抜ける道が一本しか残っていなかっため、多くの車両や人が一点に集中し、渋滞が発生しました。
やがて火災の拡大とともに封鎖される道路は増えていき、それに比例して交通の混乱も悪化していきました。
しかし、封鎖現場に常に人員が配置されていたわけではなかったため、状況を知らずにそのまま立ち入ってしまう人が後を絶ちませんでした。
中には、封鎖を知っていながら無視して侵入する車両もあり、それが消防活動の妨げになる場面も発生しました。
こうした事態への対策として、途中からは物理的に通行を防ぐためのバリケードが設置されました。
しかしそのバリケードが今度は、消防車や緊急車両の移動を妨げる要因となってしまいました。
消防隊員はそのたびに車を降りて、バリケードを手動で動かさなければならず、この対応が貴重な時間を奪い、消火活動に支障をきたす事態も発生したのです。
避難指示の“遅れ”と、その影響
飛び火によって住宅が燃え始めた頃、桜井地域の住宅街にも避難指示が出されました。しかし、正直に言えば、それは遅かったと感じています。
避難指示の遅れによって、逃げようとする車が一斉に動き出し、地域内の道路は渋滞しました。その結果、消防車や緊急車両の動きが妨げられ、消火活動にも支障が出ていました。
また、どれだけ危険な状況であっても避難しない人もいました。
最終的に火が迫り、命の危険が現実となったとき、警察官が一軒一軒を訪ねて避難勧告を行っていたのですが、
それでも「逃げない」と言う人が実際にいたのです。
現場の妨げになった車両
火災の初日には、野次馬が車で現場に乗り込んできて、避難や消防活動の妨げになる場面もありました。
そのため、私たち被災地域の住民が入り口に立って、外部の車両が入ってこないようにしたこともありました。
報道関係者についても、早いところでは初日〜2日目には現地入りしていました。その中には、車で火災現場の近くまで乗り入れてきた報道局の方もおられました。
もちろん、記録と報道のために来てくださっているのは理解しています。
しかし、道路が限られていた当時の状況では、その車両が道を塞ぐ要因になってしまったことも否めません。
正直なところ、できれば遠くに車を停めて、徒歩で現場に入ってきてほしかったと思います。
“火災”が“自分ごと”に変わった日
正直に言えば、山林火災がどれほど危険なものかを、私は実際に経験するまで知りませんでした。
それは、おそらく他の多くの人も同じだったと思います。
ここまで広範囲に、猛烈な勢いで燃え広がるとは、ほとんどの人が想像していなかったのではないでしょうか。
初日は、「火は西条方面へ向かっている」と思っていたため、こちらに来るという実感はまだ薄く、
避難の“現実味”を感じ始めたのは、火がこちらの方角へ向かってきた2日目になってからのことでした。
そのとき頭によぎったのは「夜、寝ている間に火が迫ってきたら…」という、“見えないこと”による恐怖でした。
昼間のうちに高齢の母を先に避難させ、
すぐに出発できるよう避難準備を整え、最終的にはその日の夜、私自身も避難しました。
そして、3日目。
「どこかの建物が燃えた」という知らせが入りました。
このとき、自分の中で精神的な危険度がひとつ、はっきりと上がったのを感じました。
それは、山や草が燃えるだけではすまされない…
“暮らしそのものが燃える”という現実に直面した瞬間だったからだと思います。
今回の火災が、完全に*自分ごと”に変わった瞬間。
そして、地域全体の緊張感も、このとき一気に高まったように思います。
「水まき」私たちにできた、唯一の防衛策
火が見えていなくても、煙が立っていなくても、火の粉は風に乗ってどこまでも飛んできます。
家の周り、畑の脇、草地の斜面。乾いた地面に、わずかな火種が落ちただけで、そこが燃え上がった瞬間を実際に目の当たりにしました。
そんな状況の中で、私たちにとって唯一の防衛手段は、事前に「水をまくこと」でした。
あまりにもシンプルで、どこにでもある方法かもしれません。けれど、その効果は確かにありました。
水を撒くことで地面や植物の表面が湿り、火の粉が落ちても燃え移りにくくなる。たったそれだけのことが、飛び火の拡大を防ぐための“壁”になってくれたのです。
「水をまく」という行為が、これほどまでに意味を持つとは思ってもませんでした。
これも、今回の火災が私たちに教えてくれた、大きな教訓のひとつです。
最後に
火が消えても、すべてが終わったわけではありません。
焼けた山々には、これから土砂の流出や山肌の崩壊といった、新たな自然災害のリスクが待っています。
また、失われた木々や生き物たちがどのように再生していくのかという問題も残ります。
山林の再生には時間がかかり、自然が元の状態に戻るためには、植生の回復や生態系の再生を支援するための長期的な取り組みが求められます。
そして、私が最も強く感じたのは、この火災をどのように受け止め、地域の防災力をどう高め直していくかという課題です。
今後の火災に備えるためには、地域住民一人一人が防災意識を高め、災害時にどのように行動すべきかを学び、協力して準備を整えることが大切です。
また、火災発生時にどのように対応するか、迅速な情報収集や避難の仕方なども再確認し、地域全体で防災力を強化していかなければなりません。
多くの課題が今も残されていますが、この火災が教えてくれたことを活かし、地域全体で未来に向けた備えを強化していくことが、私たちにできる最も大切なことだと感じています。