戦国を生きた渡辺勘兵衛の記憶
今治城の大手門近く、長い歳月を超えて静かにその姿をとどめる一つの巨石があります。
それが「勘兵衛石(かんべえいし)」です。
城主の威厳を示すために城の正面に据えられた鏡石(かがみいし)で、堅牢な花崗岩でできたその石は、高さ約二・四メートル、幅四・六メートル、重さ十六・五トンにも及ぶといわれます。
長い年月の風雨にさらされながらも、その堂々たる姿はいまも変わらず、築城に携わった人々の息づかいと、往時の記憶を静かに伝えています。
この巨石は、江戸時代にはすでに「勘兵衛石」と呼ばれており、 その名の由来には渡辺勘兵衛(わたなべ かんべえ)の名が刻まれています。
今治城を完成へ導いた築城総奉行
今治城の築城は、藤堂高虎の構想によって始まりましたが、 その偉業は決して高虎ひとりの手によるものではありませんでした。
その陰には、多くの職人や石工、そして城造りに情熱を注いだ名もなき人々の力がありました。
そして、その中で今治城築城の実務を担い、後世に名を残した人物が、
築城総奉行(ちくじょうそうぶぎょう)を任された渡辺勘兵衛です。
勘兵衛は、慶長七年(1602年)、藤堂高虎が伊予今治に赴き築城を開始した際、 城の縄張(なわばり=設計)を担当し、石垣の積み方から堀や曲輪の配置、 工事全体の指揮・監督に至るまで、築城のすべてを統べる役割を果たしました。
「縄張」とは、城の設計図にあたる重要な工程であり、 本丸・二の丸・三の丸の配置や防御線、潮の満ち引きを利用した水堀の構造など、 すべてはこの縄張によって決定されます。
勘兵衛は、藤堂高虎が描いた理想の構想を、瀬戸内の地形や潮流に合わせて巧みに形にし、 今治城を“海に浮かぶ城”として完成させました。
なお、関ヶ原の戦いで石田三成に仕えた「渡辺勘兵衛」と混同されがちですが、ここで語る勘兵衛はまったくの別人。
藤堂高虎の右腕として今治城築城を支え、戦国にその名を刻んだもう一人の名将。
それが、今治の地にその名を今なお残す渡辺勘兵衛です。
「渡り奉公人」若き日の歩み
渡辺勘兵衛(本名:渡辺了・わたなべ さとる)は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将で 若くして武勇に秀で、「槍の勘兵衛」として知られました。
その生涯で浅井、織田、豊臣、増田、藤堂と、数多くの主君に仕えたことから「渡り奉公人(わたりほうこうにん)」とも呼ばれ、仕官先を変えながらも、戦国の乱世を武勇と知略によってその名を轟かせました。
戦国の世にあっては、主家の盛衰も一瞬のうちに変わる時代。
そんな中で、己の才覚一つを頼みに生き抜いた「渡り奉公人」の姿は、まさに乱世の象徴ともいえる存在でした。
近江に生まれた武芸の天才
永禄五年(1562年)、近江国浅井郡の土豪・渡辺右京の子として誕生した勘兵衛は、幼少のころに同族の渡辺任(わたなべ じん)の養子となり、一族の中でもとりわけ将来を嘱望される存在へと成長していきました。
幼いながらも聡明で、武芸に秀で、気骨のある少年だったと伝えられています。
その才気と胆力は早くから周囲に認められ、やがて戦国乱世を生き抜く武人としての歩みを始めることになります。
この頃の近江は、浅井長政が支配力を強め、織田信長との緊張が高まる動乱の地でした。
若き勘兵衛は、戦乱のただ中でその才能を磨き、やがて運命の主君と出会うことになります。
阿閉家への仕官。戦場へ立った若き日の勘兵衛
勘兵衛が最初に仕えたのは、浅井家の重臣にして武勇で知られた阿閉貞征(あつじ さだゆき)でした。
永禄の戦乱期、十代半ばの若者であった勘兵衛は、その聡明さと胆力を見込まれ、阿閉家に小姓として出仕します。
戦場での働きぶりは早くから際立っており、やがて主君の信任を得て、貞征の側近を守る精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」に抜擢されました。
母衣衆は、主君のすぐ傍で戦う名誉ある武士であり、背に「母衣(ほろ)」と呼ばれる布を背負い、戦場で大将の所在を示すとともに、護衛・伝令・突撃といった重要な役目を担いました。
勇気・忠義・俊敏な判断が求められるこの役職は、まさに戦国武士の中でも選ばれた者にしか許されない地位でした。
勘兵衛はその任にふさわしい働きを見せ、若くして名を上げていきます。
「槍の勘兵衛」信長を唸らせた武勇
やがて、阿閉家が属する浅井家が織田信長と対立するなかで、勘兵衛もまた大きな転機を迎えます。
阿閉家はもともと浅井長政の家臣でしたが、「姉川の戦い(1570年)」の後、主家・浅井氏が織田信長に敵対すると、阿閉貞征は情勢を見極め、長政を裏切って信長に降伏します。
この裏切りは浅井家滅亡の一因ともなりましたが、信長は貞征の勇気と政治的判断を評価し、家臣として重用しました。
勘兵衛もまた、主君とともに織田家の旗下に加わり、数々の戦場でその武勇を示します。
なかでも摂津・吹田城攻めでは、敵陣に真っ先に突入して一番首を挙げるという大功を立て、戦場で名を轟かせました。
この勇名は信長の耳にも届き、「若き勇士あり」と自ら賞賛したと伝わります。
この頃から、人々は勘兵衛を「槍の勘兵衛」と呼ぶようになりました。
その名は近江を越えて諸国に広まり、若くして戦国の英雄たちの中にその名を連ねる存在となったのです。
新たな主君・秀吉との出会い
この頃、渡辺勘兵衛の武勇の評判は諸国にまで鳴り響いていました。
その名声を耳にしたのが、織田信長の家臣にして後の天下人、羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。
阿閉家の武将として信長の戦にも参加していた勘兵衛でしたが、主君・阿閉貞征の娘を妻に迎え、阿閉家と深い縁を結んでいました。
しかし、戦国の世は常に主家の盛衰が入れ替わる時代。
信長の勢力が拡大し、阿閉家の立場が揺らぐ中で、勘兵衛の進むべき道は新たな局面を迎えます。
羽柴秀勝に仕えた忠義の武士
天正十年(1582)頃、勘兵衛は羽柴秀吉に召し出され、百人扶持(約五百俵)という破格の待遇で仕官しました。
当時の浪人としては異例の厚遇であり、秀吉がいかに勘兵衛の才覚と武勇を高く評価していたかがうかがえます。
やがて勘兵衛は、秀吉の養嗣子であり織田信長の四男でもある羽柴秀勝(ひでかつ)の家臣に任じられました。
若き秀勝はまだ十代の少年でしたが、勘兵衛はその側近として仕え、実質的には軍をまとめる中心的存在となります。
勘兵衛は主君を守り導くように忠義を尽くし、若き秀勝の右腕として戦場を駆け巡りました。
しかし、出世の道を確実に歩み始めていたまさにその時、戦国の歴史を大きく揺るがす事件が起こります。
それが本能寺の変です。
「本能寺の変」信長の最期と乱世のうねり
天正十年(1582)六月二日。
都・京都は初夏の朝霧に包まれていました。
天下統一を目前にしていた織田信長は、上洛の途上にあり、家臣の明智光秀を中国地方の羽柴秀吉援軍として派遣していました。
秀吉が毛利勢と対峙する中、信長は京都の本能寺に逗留し、わずか数十名の供回りだけを伴って休息を取っていたといいます。
そのとき。
六月二日の未明、突如として「敵襲!」の叫びが本能寺に響きました。
押し寄せたのは、まさに家臣の明智光秀率いる軍勢。
信長は一瞬、何が起こったのか理解できなかったと伝わります。
「是非に及ばず」
これが、信長が最後に残した言葉とされます。
炎に包まれる堂宇の中、信長は奮戦の末、自刃して果てました。
天下を目指した覇者の最期は、まさに一瞬の悲劇でした。
この「本能寺の変」の報は瞬く間に全国へと広がり、日本中が衝撃と混乱に包まれます。
各地の武将たちは、信長への忠義と自己保身の狭間で揺れ動き、戦国の秩序は一夜にして崩壊しました。
「山崎の戦い」炎の果てに見た運命の岐路
誰に従うのか…どこへ帰属するのか。
諸将たちは次の一歩を決めねばならず、その選択が命運を分ける時代が始まります。
誰に従うのか。
諸将たちはそれぞれの立場で進退を迫られ、その選択が命運を分けることになります。
このとき、勘兵衛のかつての主君・阿閉貞征は、 明智光秀に呼応して挙兵しました。
かつて信長の旗下に加わった阿閉家は、 再び裏切りの道を選び、光秀軍の一翼として戦場に立ちます。
一方の勘兵衛は、すでに羽柴家の旗下にあり、旧主と敵味方として相まみえることになりました。
かつて仕えた主君を討たねばならぬ。
それは、戦国時代の過酷な宿命でもありました。
この混迷の中で、羽柴秀吉は迅速に行動します。
中国地方・備中高松城の包囲戦を中断し、わずか数日のうちに全軍を率いて東へ。
これが「中国大返し」と呼ばれる伝説的な行軍です。
昼夜を分かたず進軍した秀吉軍は、六月十三日、京都・山崎の地(現在の大山崎町)で明智軍と激突しました。
のちに「山崎の戦い(やまざきのたたかい)」と呼ばれるこの合戦で、明智光秀は本能寺の後に築いた陣を整え、秀吉軍を迎え撃ちます。
戦場には、信長を弔うかのように重苦しい風が吹き、両軍およそ五万の兵が睨み合いました。
渡辺勘兵衛もこの戦に従軍し、かつての主君・阿閉貞征と、思いもよらぬ形で敵味方として相まみえることになります。
激戦の末、光秀軍は総崩れとなり、光秀は敗走の途上、近江坂本で討たれました。
同じく、阿閉貞征もこの戦で壮絶な最期を遂げ、阿閉家は滅亡しました。
戦場に輝く「三勘兵衛」の名
勘兵衛は旧主の最期を見届け、時代の非情を胸に刻みながらも、秀吉の旗下で新たな道を歩み始めます。
翌年の賤ヶ岳の戦い(1583年)では再び前線で奮戦し、その武名をさらに高めました。石田三成家臣の杉江勘兵衛、田中吉政家臣の辻勘兵衛と並んで「三勘兵衛」と称されるほどの存在となります。
さらに、天正十三年(1585年)の阿波一宮の役(四国攻め)では、一宮城攻めで見事な戦功を挙げ、秀吉の家臣団の中でも一目置かれる存在となりました。
しかし同年、主君・羽柴秀勝がわずか十八歳の若さで病没。
勘兵衛はその死を深く悼み、主君の冥福を祈るとともに、秀吉家を去ることを決意します。
こうして、若き日から戦場を駆け抜けた勘兵衛は、再び浪人の身となりながらも、新たな主君と仕官の道を求めて歩み続けることとなりました。
「中村一氏への仕官」破格の三千石を得た武勇
この時、まだ二十代半ばの渡辺勘兵衛。
若くして数々の合戦を経験し、すでにその武勇と胆力では一目置かれる存在となっていました。
主君・羽柴秀勝を失って浪人となった後も、彼の名は諸国の武将たちの間で「使えば必ず功を立てる男」として知られていたといいます。
ほどなくして、その名声に目を留めたのが、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)の家老である中村一氏(なかむら かずうじ)でした。
一氏は近江国水口の岡山城主として六万石を領する有力大名であり、政治・軍事の両面で秀吉から厚い信頼を受けた実力者でした。
そんな人物の家臣に迎えられることは、浪人上がりの武士としては異例の栄誉であり、同時に勘兵衛の実力がいかに高く評価されていたかを物語っています。
勘兵衛は中村家において三千石で仕えることとなりました。
当時、浪人が再仕官する際の禄高はせいぜい数百石、多くても千石ほどが一般的でした。
それに比べて三千石というのは、まさに破格の待遇です。
一氏がどれほど勘兵衛の武勇と才覚に期待していたかがうかがえます。
小田原征伐で山中城を突き崩した一番槍
やがて、天正十八年(1590年)、勘兵衛はその期待に応えるべく、大きな戦で名を上げます。
それが、豊臣秀吉が関東の雄・北条氏を討ち、天下統一を目前にした大戦「小田原征伐」でした。
この戦で中村一氏は秀吉軍の一翼を担い、勘兵衛は先鋒(せんぽう)として出陣し、北条方の支城である山中城(やまなかじょう)を攻めました。
箱根山中に位置するこの城は、北条氏が西方からの侵攻に備えて築いた堅固な防衛拠点で、「難攻不落の城」とまで評されていました。
天正十八年三月二十九日、秀吉軍はおよそ六万七千の大軍をもって進軍。
対する北条方はわずか四千人で必死の防戦にあたります。
急峻な地形と精緻な防御線が行く手を阻む中、最初に敵陣へ突入したのが勘兵衛でした。
勘兵衛は岱崎出丸(だいさきでまる)と呼ばれる最前線の砦に一番乗りを果たし、激戦の末に防衛線を突破。
その勢いのまま北条勢を崩壊へと導き、山中城はわずか半日で落城します。
この勝利は秀吉の戦略においても大きな意味を持ち、天下統一の流れを決定づける転換点となりました。
「一万石の器」秀吉を唸らせた勘兵衛の功績
この報を聞いた秀吉は大いに喜び、勘兵衛の戦功をたたえてこう語ったと伝わります。
「この武者、捨てても一万石の器なり(たとえ主君に捨てられても、一万石を治めるほどの器量を持つ男だ)」
これは当時の武士にとって、最高の賛辞といえる言葉でした。
戦場での勇敢さに加え、冷静な判断と統率力を兼ね備えた武将として、秀吉の心にも強い印象を残したのです。
しかし、その後に与えられた恩賞は、意外にも勘兵衛の期待に届くものではありませんでした。
中村一氏からの褒美は三千石の加増にとどまり、合わせて六千石。
確かに高禄ではありましたが、秀吉自ら「一万石の器」と称えた功績にしては、あまりにも控えめでした。
そのため、勘兵衛はこれを不服とし、中村家を去ることにしたのです。
豊臣五奉行・増田長盛に与えられた重積
ほどなくして勘兵衛を召し抱えたのが、豊臣五奉行の一人として知られる重臣、増田長盛(ました ながもり)です。
長盛は秀吉の側近として政務・軍務の双方に精通し、太閤検地や蔵入地の統括などを担った名奉行でした。
政治家としての手腕に加え、用人を見抜く眼にも優れており、勘兵衛の忠義心と実戦経験を高く評価して召し抱えたのです。
勘兵衛は、五千石という高禄で増田家に仕官します。
浪人上がりとしては異例の待遇であり、それだけ長盛の信頼が厚かったことを示しています。
郡山城の統治地域に入り、城代並みの重責を担いながら領内の政務・軍事・築城普請などを幅広く指揮しました。
実直かつ沈着な勘兵衛の性格は、慎重派の長盛にも大いに信頼されるようになります。
「関ヶ原の戦い」義を貫き天下に知れ渡った武人
時は下って慶長五(1600)年、天下を二分した関ヶ原の戦いが勃発。
増田長盛は西軍方として大坂城の守備にあたり、西の丸を固める要職に就きました。
その際、彼は居城である大和郡山城の守備を、もっとも信頼のおける家臣・渡辺勘兵衛に一任します。
勘兵衛は、長盛の留守を預かる城代として郡山城に籠もり、城下の治安維持と防備を徹底しました。
関ヶ原本戦は家康率いる東軍の勝利に終わり、西軍方の諸将は次々に没落。
長盛もまた敗将として所領を没収され、高野山で出家することになります。
当然、大和郡山城も東軍へ明け渡すよう命が下りました。
しかし勘兵衛は、頑としてこれを拒みます。
「自分はあくまで主君・長盛の命により城を預かっている。主君からの許しなくして城を渡すことはできぬ」
その毅然たる態度は、東軍諸将をも驚かせたといいます。
やがて東軍側の説得により、高野山にいる長盛自身が開城を命じる書状を勘兵衛に送りました。
それを受け取った勘兵衛は初めて門を開き、城を無血で引き渡したと伝えられています。
この一件で、勘兵衛の忠義と節義は広く知れ渡りました。
「主を失っても義を失わず」
その振る舞いは、戦乱の世においてまさに武士の鑑と称されたのです。
城を明け渡したのち、勘兵衛は浪人となりますが、その器量を惜しむ声は絶えませんでした。
家康をはじめ、堀尾吉晴などの諸大名から度重なる招きがあったと伝わっています。
しかし、勘兵衛は即座には仕官せず、慎重に新たな道を模索し続けていました。
「信と義が結ぶ縁」藤堂高虎との出会い
その中で、勘兵衛の心を惹きつけたのが、同じ近江出身の名将・藤堂高虎でした。
高虎は、もともと豊臣秀長の家老として名を馳せ、のちに織田・豊臣・徳川と、時の天下人たちに次々と仕えながらも、卓越した築城術と政治的手腕によって、いずれの主君からも厚い信頼を勝ち取ってきた武将です。
幾度も主君を替えながらも、決して義を失わず、己の才覚と誠実さで道を切り開いてきたその生き様は、まさに渡辺勘兵衛自身の歩みと重なるものでした。
幼くして戦乱の世に身を投じ、己の力だけを頼みに出世してきた二人は、まさに“戦国を生き抜いた者”という点で共鳴し合う存在だったのです。
また、高虎はかつて、浅井氏が織田信長によって滅ぼされた後、浅井旧臣で山本山城主の阿閉貞征に厚遇され、しばらくそのもとに身を寄せていました。
このとき、阿閉家に仕えていたのが、若き日の渡辺勘兵衛であったと伝えられています。
つまり二人の出会いは、今治築城よりはるか以前にすでに始まっていたのです。
そして何よりも、高虎は関ヶ原の戦いの後に大和郡山城の開城を実現させた立役者でもありました。
家康の命を受けて郡山城の説得にあたった高虎は、高野山にいた増田長盛に直接書状を書かせ、正式な開城命令を出させるという見事な手腕で、流血を避けて城を明け渡させました。
このとき、頑なに城を守っていた渡辺勘兵衛の姿勢に、高虎は深く感じ入りました。
「この男こそ、信に足る武士」
勘兵衛のまっすぐな義の心、そして敵味方を問わず人を惹きつける胆力は、戦国の世においても希少な資質でした。
そこで高虎は、自らの家臣として勘兵衛を迎え入れたのです。
そのとき与えられたのは、喜多・宇和・周布・桑村・新居の各郡にわたる二万石という破格の待遇でした。
これは、一介の奉行格の武将としては異例中の異例であり、高虎が勘兵衛を高く評価していたことを示しています。
この勘兵衛登用の知らせを聞いた伊予松山藩主・加藤嘉明(かとう よしあき)は、高虎にこう言ったと伝わります。
「自分ならば、二万石をもって勘兵衛を一人召し抱えるよりも、二百石取りの武士を百人抱えるほうを選ぶ」
すると高虎は、静かにこう答えたといいます。
「多数の兵で固めたところなど、いつかは破られる。だが『ここは渡辺勘兵衛が守る』と言えば、敵はそれだけで足をすくませるであろう」
高虎にとって、勘兵衛は単なる家臣ではなく、戦国の知恵と誠を兼ね備えた無二の存在だったのです。
今治城の築城を任された勘兵衛と石の逸話
そして、慶長七年(1602年)に伊予国今治に赴いた藤堂高虎が今治城の築城に取り掛かると、勘兵衛は築城総奉行として石垣の積み方から縄張り、工事全体の統率に至るまで、現場の采配を一手に任されました。
今治城の築城において、最も苦労を要したのが石材の調達でした。
瀬戸内の穏やかな海に囲まれた今治の地では、堅牢で巨大な石を確保することが容易ではなかったのです。
藤堂高虎は勘兵衛に命じ、城の要である石垣にふさわしい石を求めて、瀬戸内の島々にまで目を向けさせました。
今治沖に浮かぶ島々、大島、伯方島、岡村島、小島(おしま)などは、いずれも良質な花崗岩(みかげ石)を産する地として知られていました。
中でも、大島石(おおしまいし)は「青みかげ」とも呼ばれる美しい花崗岩で、きめが細かく、非常に硬質で、年月を経ても光沢が失われない優れた石材です。
そのため、今治城築城の際にも多く用いられたと伝えられています。
石は島々の海岸で切り出され、小型の船に積まれて今治へと運ばれました。
潮流の速い瀬戸内海で巨大な石を運ぶ作業は危険を伴う重労働であり、石工たちは潮の干満を読みながら夜を徹して作業にあたったといいます。
やがて港へと着いた石は、勘兵衛の指揮のもと、城郭の要所に運び込まれました。
角には加工した算木積み(さんぎづみ)、壁面には自然のままの野面積み(のづらづみ)。
この巧みな組み合わせによって、今治城の石垣は美しさと強さを兼ね備えた姿を完成させていきます。
さらに、石垣の中には、白く艶やかな大理石のような石が用いられている部分もあります。
一般的に城郭で使用されるのは花崗岩や安山岩が多いのに対し、大理石を取り入れた例は極めて珍しく、海城・今治城ならではの華やかさと格式を感じさせます。
また、伝承によれば、石集めに苦心していた勘兵衛は一計を案じ、「石を船一杯運べば、同じ重さの米を与える」という触れを出したといいます。
この知らせを聞いた人々は競って石を運び、海岸はたちまち石で埋め尽くされました。
しかし、ほどなくして米が尽きると、勘兵衛は新たにこう命じます。
「もう石はいらぬ。だが、海に捨てるな。持ち帰るがよい」
ところが、重い石を持ち帰っても何の得にもならないため、人々は仕方なく浜辺に石を置いて帰りました。
それを見た勘兵衛は、こっそりその石を回収して石垣に用いたと伝えられています。
知恵と機転、そして人の心理を読み切ったその策は、まさに勘兵衛らしい逸話といえるでしょう。
厳格かつ的確な指揮のもと、工事は着実に進み、慶長十三年(1608年)頃、今治城はついに完成を迎えました。
瀬戸内海の潮を引き込んだ水堀、堅牢な石垣、整然とした町割り。
それは、藤堂高虎の卓越した構想のもとに築かれた名城であると同時に、渡辺勘兵衛にとっては、自らの知略と誇りによって形づくられた、まさに人生の集大成ともいえる業績でした。

主君との決別…大坂の陣に散った絆
慶長十四年(1609年)、藤堂高虎は徳川家康の命により、伊予今治二十万石から伊勢・伊賀二十二万石へと転封となりました。
このとき、渡辺勘兵衛もまた高虎のもとにあって、その信頼は依然として厚いものでした。
「大坂冬の陣」戦場に走った疑念と高虎の怒り
慶長十九年(1614年)、徳川家康による豊臣家包囲の火蓋が切られ、日本全土を揺るがす「大坂冬の陣」が始まりました。
藤堂高虎は徳川方の重鎮として出陣し、渡辺勘兵衛にとっては藤堂家臣として初の戦でした。
今治での築城を終え、名声・実績ともに高まっていた勘兵衛にとって、この出陣は新たな試練の幕開けでもありました。
豊臣秀頼を擁した豊臣方は、「大坂城」を拠点に諸国の牢人を糾合して徹底抗戦の構えを見せていました。
一方の徳川方は、家康・秀忠を総帥に諸大名を動員。
徳川軍の中でも特に信頼の厚い将であった藤堂高虎(とうどう たかとら)は、 家康の重臣としてその一翼を担い、大坂夏の陣では先鋒(さきじん)を命じられて、 和泉・河内方面の前線に布陣しました。
藤堂は築城と防備の達人として知られ、堅陣を築いて包囲網を固める役目を担っていたのです。
ところが、戦線が緊迫する中、豊臣方の奇襲部隊が界(さかい)周辺を襲撃し、兵糧や武器を強奪して城へ引き上げるという事件が起こります。
この時、警戒区域の一部を預かっていたのが、藤堂軍の左先鋒を任されていた渡辺勘兵衛でした。
夜陰に紛れた敵の動きを一瞬見逃したことで、藤堂勢の一角が突破され、戦況が一時混乱します。
ちょうどその頃、豊臣方から「藤堂高虎は豊臣方に内通している」というデマが戦場に流されていました。
高虎は冷静沈着な人物でしたが、このデマによって家中は一時的に動揺。
しかも、その最中に「見逃し」の報が届いたため、高虎は烈火のごとく怒り、叱責したと伝わります。
さらに、この事件は藤堂家家中にも波紋を広げました。
藤堂家では長年仕えた老臣でさえ五千石が上限であったのに対し、勘兵衛は二万石という異例の高禄を受けていました。
そのため、「あれほどの厚遇を受けながら見逃すとは」と不満の声が高まり、勘兵衛の評判は急落。家中の信頼関係にも陰りが生じます。
しかも、この見逃し事件は、単なる戦場のミスではありませんでした。
徳川と豊臣の最終決戦という、極限の緊張下で生じた出来事だったのです。
ここから、藤堂高虎と渡辺勘兵衛の絆は大きく揺らいでいくことになります。
「大坂夏の陣」勘兵衛の命令違反
慶長十九年(1614)の大坂冬の陣で、徳川家康は豊臣方(大阪方)を包囲しながらも講和を結び、いったん戦は収まりました。
しかし、講和の条件に含まれていた「大坂城の外堀の埋め立て」が実行されると、豊臣方の防御力は著しく低下。
家康はこれを機に再び豊臣家を討つ決意を固め、翌元和元年(1615)、ついに「大坂夏の陣」が勃発します。
この戦いは、豊臣家滅亡を決定づけた天下最後の大合戦であり、大坂城を中心に、道明寺・八尾・若江・天王寺など各地で激戦が繰り広げられました。
徳川方二十万、豊臣方十万と、戦国の宿命を背負った最後の武士たちが相まみえた、まさに“戦国時代の終焉”を告げる戦いです。
藤堂高虎は軍勢を率いて徳川軍の左先鋒を命じられ、道明寺の戦線へ進軍しました。
このとき、濃い朝霧が戦場を覆っていました。
視界の効かぬ中で進撃する藤堂軍は、突如として豊臣方の木村重成隊・長宗我部盛親隊の大軍と遭遇します。
重成は家康本陣を急襲せんとする奇襲部隊であり、長宗我部は高虎の先陣を狙っての強襲でした。
このとき、高虎は即座に陣を立て直し、遊軍(予備軍)として控えてた勘兵衛に突撃を命じました。
ところが勘兵衛は、先鋒の奮戦を横目に敵の布陣を観察し、長宗我部隊の側面に大きな隙があることを見抜ぬくと、少数の兵を率いて敵の背後へと回り込み、平野(現在の大阪市平野区付近)へと進軍。
「いま攻め込めば、大坂城に一番乗りできる」
勘兵衛はそう進言し、高虎に突撃の許可を求めました。
しかし、高虎は主力との連携が崩れたままの突撃は全軍壊滅の危険を招くと判断し、勘兵衛に即座の帰還を命じます。
それでも勘兵衛は戻らず、命令は七度におよび、ようやく引き返したと伝えられています。
戦いの末、藤堂軍は勝利を収めましたが、藤堂新七郎・藤堂仁右衛門らの重臣をはじめ三百名以上の戦死者を出すという、非常に厳しい勝利になりました。
仮に、あの時に勘兵衛の援軍があれば、結果は変わっていたはずでした。
「奉公構え」武士としての“出入り禁止
「勘兵衛ほどの武将が、大局を見ず、下っ端の武者のように手柄を焦るとは」
この一連の行動に激怒した藤堂高虎は、勘兵衛に対して「奉公構え(ほうこうかまえ)」を命じました。
これは、旧主の許可なく他家への仕官を禁じる、いわば武士としての“出入り禁止”の処分です。
この命が下されると、幕府の正式な許可がない限り、いかなる大名もその者を召し抱えることはできません。
つまり勘兵衛は、幾多の戦場を駆け抜けたその生涯の末に、再び浪人の身となりながらも、どの主君のもとへも仕えることができなくなってしまったのです。
“渡り奉公人”の終焉
その後 勘兵衛は江戸幕府に訴え出て、この奉公構えの解除を求めますが、時代はすでに天下の平定が成った泰平の世へと変わっていました。
主従の絆が固定化され、「渡り奉公人」が排される時代に、かつて七度主を変えて生き抜いた渡辺勘兵衛の生き方は、もはや古き戦国の残響に過ぎなかったのです。
それでも、勘兵衛を慕う諸大名たちは、密かに手当を与えてその暮らしを支えたといわれています。
その忠義と気骨に満ちた生涯は、誰の心にも忘れがたかったのです。
晩年と“勘兵衛の記憶”
晩年、勘兵衛は穏やかに余生を送り、慶安年間、七十九歳でその生涯を閉じました。
その亡骸は、妙心寺塔頭・光国院(こうこくいん)に葬られ、のちに京都市中京区・誓願寺(せいがんじ)へと改葬されました。
静かに時を経てなお、渡辺勘兵衛の名は消えることなく、人々の記憶の中で語り継がれています。
今治に残る勘兵衛石
そして、「勘兵衛石(かんべえいし)」は、渡辺勘兵衛の名とともに今治の地に息づいています。
伝承によれば、この石の運搬と据付を指揮したのは渡辺勘兵衛自身であり、その見事な出来栄えに藤堂高虎が感嘆して、「これぞ勘兵衛の石なり」と称えたことが、その名の由来となったといいます。
あの日、潮の香りが漂う今治の海辺で、城の石垣が少しずつ形を成していった。指揮の声を飛ばす勘兵衛の姿を、高虎は静かに見つめていたことでしょう。
やがて時は流れ、今治には久松松平家が初代藩主として入封し、新たな時代の城下町が築かれていきました。
かつて藤堂高虎とともに今治城を築いた人々の志は、この町の礎(いしずえ)として脈々と受け継がれていったのです。
初代藩主・松平定房以来の藩主や藩士の逸話を記した『今治夜話(いまばりやわ)』には、 定房に仕えた家臣・渡辺四郎右衛門(わたなべ しろうえもん)が、 渡辺勘兵衛の孫にあたると記されています。
この記述は、かつて藤堂高虎とともに今治城を築いた勘兵衛の志と血脈が、のちの今治藩へと静かに受け継がれていること、現在の今治の歴史へと繋がっていることを伝えています。
