今治の夏を彩る木山音頭
「サノエンエノエーヤートヤ」
今治の夏を彩る「木山音頭(きやまおんど)」は、いまも盆踊りや祭りで親しまれ、人々の輪の中に明るい調子を響かせています。
この音頭の生みの親と伝えられるのが、渡辺官兵衛の下で、今治城築城の土木工事の総指揮「普請奉行 (ふしんぶぎょう)」として作業員たちの現場監督に当たった、木山六之丞(きやま ろくのじょう)です。
今治の武士・木山六之丞
六之丞は、今治市石井村(現・石井町)に生まれた土着の武士です。
木山家は古い家柄で、清和源氏の流れをくむ新田氏の末裔と伝えられています。
もとは「木原」を姓とし、のちに「木山」と改めました。
六之丞は、地元では顔の利く人物で、誠実で温厚、人々に信頼されていたと伝えられます。
また、土木や水利の技術にも通じており、地形や潮の流れを読む目に長けていたことから、藤堂高虎が今治城を築く際に最も頼りにした人物の一人でした。
質素ながら聡明で、民に寄り添う姿勢は、のちの普請奉行としての働きにも通じます。
今治築城を支えた土木工事
藤堂高虎が今治城を築く際、海辺の砂地という厳しい条件を克服するために、地元の地形や潮の流れに詳しく、技術と人望を兼ね備えていた木山六之丞が普請奉行に任じられました。
普請とは、堀の掘削や石垣の構築、地盤の締め固めなどを担う土木工事の総指揮にあたる役職です。
六之丞は、地元の人夫や職人をまとめ、潮の干満を生かした工事手順を整えながら築城を進めました。
その結果、工事は極めて効率的に進み、わずか二年余りで今治城は完成しました。
この迅速な築城は、六之丞の技術力と統率力、そして地元の人々との信頼関係によるものと伝えられています。
地固めの工夫と築城の苦心
今治城が築かれた場所は、瀬戸内海に面した海浜の砂地であり、きわめて脆弱な地盤でした。
藤堂高虎は、海水を堀に引き入れるという独創的な海城(うみじろ)を構想しましたが、この立地は同時に、築城における最大の難関でもありました。
波の影響で地面は湿潤かつ軟弱で、石垣や櫓の重みに耐えられず沈下するおそれがあったのです。
この問題を克服するために行われたのが、地固め(じがため)です。
地固めとは、城の基礎となる土地を繰り返し突き固め、締まりをもたせて安定させる作業を指します。
現在の土木工事でいえば「地盤改良」にあたる工程であり、築城における最も重要な基礎工事の一つでした。
当時は重機などがなく、すべてが人力による作業でした。
作業員たちは槌や棒で土を突き、足で踏みしめ、さらに湿り具合を見ながら砂や小石を交互に敷き詰めるといった手法で地盤を締め固めました。
この地固めは、城の堅牢さを左右するだけでなく、城の「寿命」をも決める極めて重要な工程だったのです。
「木山音頭」唄が生んだ地固め
しかし、長期間にわたるこの作業は、肉体的にも精神的にも過酷なものでした。
炎天下の中で土を突き固める日々が続き、作業員たちの疲労と不満は次第に高まってったと考えられます。
そこで、六之丞は一つの作戦に出ました。
同じ地元民として、作業員の士気を高め、作業を少しでも楽しいものにしようと考えたのです。
それが“唄(歌)”でした。
六之丞は、作業員たちが自然と声を合わせ、足拍子でリズムを刻み、太鼓の音に乗せて土を踏み固めるように工夫しました。
唄に調子を合わせて動くことで、作業の負担は軽くなり、同時に地盤も均一に締まっていったのです
この唄の中には、六之丞と現場の雰囲気が伝わってくる、次のような節があります。
普請奉行に木山というて 色は黒いが知恵者がござる
木山六之丞はなぜ色が黒い 笠がこまいか横日がさすか
笠もこまない横日もささぬ 色の黒いはこりゃ生まれつき
この節には、築城工事の現場監督として人々をまとめた六之丞の姿が、どこか自虐的でユーモラスに、そして親しみをこめて歌われています。
「色は黒いが知恵者がござる」という一句には、厳しい作業現場の中にも笑いを忘れず、誠実に職務を果たす六之丞の人柄が表れています。
そして、現場の作業員とともに汗を流し、冗談を交えながら作業を進める姿が浮かんできます。
木山音頭(原歌)
- 木山踊りと申するものは 手拍子足拍子太鼓の拍子
- 伊予の今治昔の頃は 小田の長浜 六条が城で
- 時は慶長年間の事 藤堂高虎 世盛りの時
- 伊予の今治みすかの城を 築き上げたるその名も高い
- 普請奉行に木山というて 色は黒いが知恵者がござる
- 木山六之丞はなぜ色が黒い 笠がこまいか横日がさすか
- 笠もこまない横日もささぬ 色の黒いはこりゃ生まれつき
- 一度来なされみすかの城へ 春は桜の名所でござる
- 堀は海水で周りを囲み 四方の城壁や七十と二間
- 城の要害も堅固でござる 東側にはあの燧灘
- 北は渦巻く来島瀬戸で 西に廻れば近見の山よ
- 南側には蒼社が流れ 土手の並木は緑の松よ
- 夏の夜空に十五夜の月 盆が来りゃこそ手足が弾む
- 三つの拍子がこぢゃんと揃て 老いも若きも皆出て踊る
新木山音頭(九節)
こうした温かみのある節回しは、人々に親しまれ、時代を超えて受け継がれてきました。
この唄は、のちに「木山音頭(きやまおんど)」と呼ばれ、四百年を経た今日まで今治の夏を彩る民謡として今に伝わっています。
当初は今治城下で盆踊り唄として歌われていましたが、明治以降には近郷近在にも広まり、地域の祭りや祝いの席で親しまれるようになりました。
さらに、昭和期には歌詞の数を増やして編曲した『新木山音頭』(九節)が作られ、盆踊りや宴会、市民運動会など、今治のさまざまな場で歌い踊られています。
サノエンエノエーヤートヤ
- 木山踊りと申する者は 手拍子足拍子 太鼓の拍子
サノエンエノエーヤートヤ
- 伊予の今治美須賀の城を 築き上げたるその名も高い
サノエンエノエーヤートヤ
- 普請奉行に木山というて 色は黒いが知恵者がござる
サノエンエノエーヤートヤ
- 木山六之丞は何故色が黒い 笠がこまいか横日がさすか
サノエンエノエーヤートヤ
- 笠もこまない横日もささぬ 色の黒いはこりゃ生まれつき
サノエンエノエーヤートヤ
- 城の要害も堅固でござる 東側にはあの燧灘
サノエンエノエーヤートヤ
- 北はうずまく来島瀬戸で 西に廻れば近見の山よ
サノエンエノエーヤートヤ
- 南側には蒼社が流れ 土手の並木はみどりの松よ
サノエンエノエーヤートヤ
- 夏の夜空に十五夜の月 盆が来りゃこそ手足が弾む
サノエンエノエーヤートヤ
- 三つの拍子がこぢゃんと揃て 老いも若きも皆出て踊る
サノエンエノエーヤートヤ
消えた普請奉行・木山六之丞の謎
慶長十三年(一六〇八)、今治城を築き上げた藤堂高虎は、徳川家康の命により伊賀上野へ転封となりました。
しかし、このときの家臣名簿に、普請奉行として築城を支えた六之丞の名は見当たりませんでした。
その後、今治を治めた高虎の子・高吉や、のちに藩主となった松平久松家の家臣録にも、その名は一切記されていませんでした。名はありません。
突如として歴史の表舞台から姿を消した六之丞。
その消息をめぐっては、いくつもの説が語られています。
「名を改めて世を忍び、静かに隠棲したのではないか」
「六之丞は城の構造や抜け穴など、今治城の機密を知りすぎていたため、口封じのために処刑されたのではないか」
この憶測を裏づけるかのように、同時代には実際に「口封じのため処刑された」と伝わる悲劇の逸話が残されています。
十二名の石工の悲話
それが、今治城の石垣築造を担った石垣の棟梁・小田治衛門(おだ じえもん)ら十二名の石工にまつわる伝承です。
治衛門は伊予国西条の出身で、若いころ豊臣秀吉の大坂城築城に人夫として従事し、その際に石積みの技法を習得したと伝えられています。
のちには西条・禎瑞(ていずい)の干拓事業でも腕を振るい、その卓越した石組みの技術を認められて、今治城の築城に際して石垣工事の総棟梁として召し出されました。
当時の城づくりは、単に堅牢な建築を目指すものではなく、有事に備えた抜け穴や地下構造など、外部に漏らしてはならない軍事上の秘密を多く含んでいました。
治衛門は十二人の石工を率いて、石垣の築造や水門の整備、さらには城外へ通じる抜け道とされる構造物の工事を請け負ったと伝えられています。
しかし、城が完成すると、悲劇が起こります。
「城の秘密が漏れるのを防ぐため」という理由で、十二名の石工たちは口封じのために処刑されることになったのです。
十人はすぐに捕らえられて命を落とし、残る二人はこの命令を事前に知って夜陰に紛れ、竹のいかだを作って蒼社川の河口から海へと逃げたと伝えられています。
彼らは荒波を越えて大島の宮窪町余所国(よそくに)にたどり着き、念仏山に身を隠して仲間の冥福を祈りながら余生を送ったといわれます。
この念仏山には、当時の石工たちが築いたとされる見事な石垣が今も残っており、またその山腹には、祈りを捧げたと伝わる「鐘撞堂(かねつきどう)」という地名が残されています。
今治市蔵敷町には、処刑された十人の霊を慰めるために築かれたとされる「十人塚(じゅうにんづか)」の伝承も残ります。
その正確な場所は特定されていませんが、地元では今も「命を懸けて城を築いた職人たちの塚」として語り継がれています。
さらに、余所国では現在も「御新田踊り(ごしんでんおどり)」と呼ばれる踊りが伝わっています。
治衛門が広めたものかどうかは定かではありませんが、一説には、この踊りは十人の処刑された石工たちの霊を弔うために始まったものだといわれています。
「御新田踊り」は昭和五十三年(1978年)七月一日に、今治市の無形民俗文化財として指定され、その後も地域の人々によって大切に受け継がれています。
木山六之丞の静かな生涯
六之丞も、処刑されたのでしょうか。
それとも、名を変えて人知れずこの地に身を潜めていたのでしょうか。
しかし、地元にはもう一つの穏やかな伝承が伝わっています。
それによれば、六之丞は藤堂高虎の転封に従わず、今治の地に残り、のちに朝倉村古谷(ふるたに)へ移り住んだといいます。
そこで寺子屋を開き、子どもたちに読み書きを教えながら、静かな余生を送ったと伝えられています。
築城で培った統率力と誠実な人柄は教育にも生かされ、地域の若者や村人から「木山先生」と慕われました。
六之丞は、人々の中にあって知識と礼を広めることに力を注ぎ、村の学問と道徳の礎を築いたともいわれています。
「無足人」今治の地域を支えた半士半農の武士
当時、木山六之丞(きやま ろくのじょう)のような土着の武士は、「無足人(むそくにん)」と呼ばれていました。
「無足」とは俸禄(給料や領地)を持たないという意味で、彼らは藩主に仕える身でありながら正式な報酬を受けず、その代わりに年貢を免除される特権を持っていました。
無足人は、平時には農業に従事し、村の用水・道路・治安などを守る地域の実務担当者として働きました。
そして、いざというときには武士として召集され、戦場に立つこともありました。
このため、彼らは「戦えば武士、平時は百姓」とも称される、いわば半士半農の存在だったのです。
また、村の中では名主や庄屋に次ぐ指導的立場にあり、行政や民政の調整にも深く関わっていました。
地域の人々からは頼りにされ、実質的に村のまとめ役として機能していたのです。
木山六之丞もその一人であり、普段は農業に勤しみ、必要があれば城に出仕して普請や防備にあたったと考えられます。
木山六之丞の魂が今治の夏に響く
築城という大事業を終えた六之丞は、名誉や地位を求めることなく、むしろ地域に根ざし、人々とともに穏やかな暮らしを望んだのでしょう。
元和元年(1615年)、六之丞は静かにこの世を去りました。
その墓は、朝倉村古谷の鹿ノ子池(かのこいけ)そばにある木原家之墓と伝えられており、いまも地元の人々の手によって大切に守り伝えられています。
夏の夜、今治のまちに響く「サノエンエノエーヤートヤ」の掛け声。
その音色とともに踊る人々の輪の中には、四百年前、民とともに土を踏み固めた木山六之丞の魂が、静かに、しかし確かに息づいているのです。
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