今治に息づくヨイヤナと伊勢音頭の“意外なつながり”
今治築城の現場で歌われた作業歌といえば「木山音頭」がよく知られていますが、実はもうひとつ、人夫たちの間で口ずさまれていた唄があったことをご存じでしょうか。
今治城の築城工事は、全国から集められた人夫・石工・大工たちの手によって進められました。
普請奉行を務めた木山六之丞は、工事を監督するだけでなく、働く者たちの士気を高める工夫を凝らし、人夫たちの慰労にも心を配ったと伝えられています。
その一環として、自分の風体を題材に歌を作らせたのが「木山音頭」です。
この音頭は、材木を運ぶときや地突き作業の際に節を合わせる「木遣口説(きやりくどき)」の形式で歌われ、作業のリズムを整え、力を合わせるための労働歌として広まりました。
のちには作業歌だけではなく、語り物風の長い節を持つ民謡的口説として受け継がれ、現在も盆踊りとして今治の人々に親しまれています。
そして今治築城の現場では、この「木山音頭」とともに、作業の合間に人夫たちが口ずさんだもうひとつの唄があったと伝えられています。
それが「よいやな節」です。
築城の掛け声が民謡へ「よいやな節」の誕生
「よいやな節」は、築城の普請作業の中で自然に生まれた唄で、工事の合間に「ヨイヤナ、ヨイヤナ」と掛け声をかけ合いながら歌われたと伝えられています。
作業中の労をねぎらい、休憩のひとときに互いを励まし合うようにして歌われたこの節は、やがて独立した民謡として人々の生活の中に息づくようになりました。
この「よいやな節」は「七七七五よいやな」という独特の詩型を持ち、延宝のころから享保年間(17世紀後半〜18世紀前半)にかけて広く流行。
その後も地方民謡として長く歌い継がれ、現在でも四国から九州にかけて各地に伝わっています。
築城の記憶を今に伝える「今治よいやな」
とくに愛媛県今治市を中心とする越智郡から伊予郡一帯では、「今治よいやな」(一般には単に「よいやな節」とも)として親しまれています。
積んで行こうか お城の石を 船は千石 今治さして
帰れば満載 米の山 ヨイヤナー寝たら夢でも 見よかと思うて 枕取りよせ 寝てまで見たが
夢にも見やせぬ あだ枕 ヨイヤナー今宵別れて いつの夜に逢おぞ 遅し六月 宮島縁日
それには必ず 出会いましょ ヨイヤナー今宵こなたの 御取持は 金の島台 黄金の銚子
下さる御酒は 保命酒 ヨイヤナー蛙ひょこひょこ 二ひょこ三ひょこ 四ひょこ五ひょこ
六ひょこ七八ひょこ 九つころんで十んで去た
この節はさらに豊後地方・阿蘇地方・五島列島などにも伝わり、祝い唄や座敷唄として形を変えながら受け継がれてきました。
来島村上氏が瀬戸内から九州へと伝えた船歌
一説によれば、慶長年間(1596〜1615)ころに四国や九州などに遺存する「よいやな節」は、瀬戸内海一帯で活躍した村上水軍の御三家の一つ、来島村上氏(くるしまむらかみし)が伝えた「弄斎節(ろうさいぶし)」という船歌を起源とする、といわれています。
「弄斎節(ろうさいぶし)」は、来島水軍の船乗りたちが航海の際に歌っていたと伝わる船歌で、関ヶ原後に所領を失った来島康親(やすちか)が、慶長6年(1601年)に豊後国(大分県)へ移封され、豊後森藩の初代藩主として入部したことにより、伊予から豊後へもたらされました。
そして、豊後を起点として九州各地へ広まり、土地ごとの言葉や節まわしと融合しながら、それぞれの地域で独自の「よいやな節」として定着していったと考えられています。
ただし、当時「弄斎節」という楽曲が実際に存在したかどうかは明らかではなく、この説は口伝によって伝えられてきた民間伝承のひとつとされています。
それでも、伊予から豊後へ、そして九州各地へと伝わる「よいやな節」が、海を介した文化交流の中で広がったものである可能性は否定できず、来島水軍が担った“瀬戸内の文化の運び手”としての役割を物語る興味深い説といえます。
伊勢音頭と「よいやな節」の関係をたどる
伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」この一節が広く知られている伊勢音頭も、今治のよいやな節が起源とする説も存在します。
伊勢音頭とは、三重県の伊勢国を中心に歌われてきた、軽快な節回しと特徴的な囃子詞(はやしことば)を備えた民謡です。
「ヤートコセー」「ヨイヤナ」といった掛け声を伴い、祝いの場や踊り、旅の道中など、さまざまな場面で歌われてきました。
お伊勢参りと「伊勢街道の音頭」
伊勢には日本最大の聖地である伊勢神宮があり、「一生に一度はお伊勢参り」と言われるほど参拝文化が盛んでした。
江戸時代には宝永・明和・文政のお蔭参りで百万人規模の参宮が発生し、まさに日本中が伊勢へ向かう時代となりました。
こうした参宮者たちは、長い旅路の途中で伊勢音頭を歌い、宿場町や茶屋、伊勢古市の遊郭、さらに道中の村々で口ずさみました。
やがてそれが「伊勢街道の音頭」と呼ばれる道中唄へと発展していきます。
大坂離れて早玉造り、笠を買うなら深江が名所
ヤットコセー ヨーイナヤー
このように、大坂から奈良を経て伊勢へ至る街道沿いの名所名物を織り込みながら歌われ、旅人同士の連帯感と高揚感を分かち合う唄として親しまれました。
参宮者が運び広まった“旅する音頭”
また、参宮者はこの音頭を「荷物にならない伊勢土産」として各地へ持ち帰りました。
その結果、伊勢音頭は日本全国へ急速に広まり、土地ごとの風土や暮らしを反映しながら、地域独自の民謡へと姿を変えていきました。
この「伊勢街道の音頭」は、願人坊主の行う住吉踊りや大道芸にも取り入れられ、さらに歌舞伎の舞台にも登場することで、伊勢音頭が広く庶民文化の中に浸透していくきっかけとなりました。
その派生は北は東北、南は九州にまで及び、現在確認されているだけでも次のような多様な民謡が存在します。
庶民によって語り伝えられたことで、伊勢音頭は土地ごとに歌詞や節回しが変化し、地域独自の民謡へと発展していきました。
その影響は北は東北、南は九州にまで及び、現在確認されているだけでも次のような派生民謡が存在します。
- 津軽願人節(青森県)
- 南部俵積み唄(岩手県)
- 秋田大黒舞・三吉節(秋田県)
- 山形大黒舞・花笠踊り唄(山形県)
- 郡上節(岐阜県)
- 三河万歳(愛知県)
- 桑名の殿様・尾鷲節(三重県)
- 帆柱起し音頭(富山県)
- まだら節(石川県)
- 広島木遣り音頭(広島県)
- 伊勢道中唄(香川県)
- 伊予万歳(愛媛県)
- 博多祝い歌(福岡県)
今治にも、伊勢音頭の影響を色濃く残す民謡である今治大黒舞が伝えられています。
そして、今治市の隣に位置する西条市は、愛媛県内で伊勢音頭の文化をさらに大きな規模で受け継いでいる地域として知られています。
愛媛県西条市で受け継がれる「伊勢音頭」
西条市は、名峰・石鎚山の麓に広がる自然豊かな土地で、四国屈指の清冽な湧水「うちぬき」が町の至る所から湧き出ることで知られています。
澄んだ水と豊かな自然環境、そして古くからの職人文化や地域の結びつきの強さが、西条市の独自の文化を育んできました。
そんな西条市が全国に誇るのが、秋に行われる大祭「西条祭り」です。
西条祭りは、嘉母神社・石岡神社・伊曽乃神社・飯積神社を中心に、10月中旬から下旬にかけて市内各所で繰り広げられます。
市内の氏子各町が所有する百数十台ものだんじり・御輿・太鼓台が神社へ奉納され、その数は日本一ともいわれます。
豪華な彫刻や金具で飾られた屋台が連なる光景は壮観で、祭りの期間中は町全体が熱気に包まれます。
祭りを象徴する重要な存在が、だんじりの曳き手たちによって歌われる伊勢音頭です。
太鼓と鉦の囃子に合わせ、「エンヤ ヨイヤナ」「ソラ ヨイヨイ」といった伊勢音頭の節回しが力強く響き渡り、だんじりの動きを導きながら、祭りそのものを大きく揺り動かします。
さらに西条市では、伊勢音頭の伝統を後世へ継承するために「西条祭り伊勢音頭連合会」が組織され、各町内の保存活動や普及啓発が進められています。
その一環として「伊勢音頭フェスティバル」も開催されており、各町の伊勢音頭が披露されるほか、子どもたちへの継承を目的とした取り組みも行われています。
伊勢音頭は今治から生まれた?伝承と歴史が語る多様な起源説
このように、伊勢音頭は土地ごとの風土や暮らしを映しながら全国へ広まり、祭りや祝祭の場では今も変わらず人々の心を高ぶらせる力強い唄として息づいています。
そんな伊勢音頭がどのように生まれ、どこから広がっていったのかについては、古くからいくつもの説が語られてきました。
「川崎音頭」起源説
もっとも有力とされるのが、伊勢国・古市の遊郭で歌われた「川崎音頭」(伊勢河崎音頭)を源流とする説です。
享保年間(1716〜1736)ごろ、伊勢の吹上町に住んでいた知識人・奥山桃雲が、従来の盆踊りを基に新しい音頭を作ろうと考え、川崎町の伊藤又市(俳名・梅路)に作詞を依頼し、鍛冶屋長左衛門や草司らに節付けを任せたと伝えられています。こうして誕生したのが「川崎音頭(河崎音頭)」です。
河崎町は神宮北側の舟着き場に位置し、魚市場、茶屋、旅籠、娼家が立ち並ぶ伊勢随一の繁華街でした。
参宮者が最初に足を踏み入れる場所として活気に満ちており、このにぎわいの中で川崎音頭は人々に愛され、遊女たちが三味線に合わせて唄い踊る座敷芸としても人気を集めました。
やがて川崎音頭は古市の遊郭へも広まり、精進落としの地として賑わった古市の文化の中で、より舞踊性の高い芸として洗練されていきます。
転機は1732年、古市や河崎の妓楼が名古屋・西小路に新設された遊郭へ出店したことでした。
川崎音頭は名古屋でも大きな評判となり、広く流行します。
しかし1738年に名古屋新地が廃止されると遊女たちは伊勢へ戻り、名古屋で磨かれた音頭を古市へ持ち帰りました。
こうして川崎音頭は古市で“伊勢音頭”として再編され、座敷芸の中心に据えられるようになります。
寛政年間(1789〜1801)刊行の『伊勢参宮名所図会』古市の項にも、「川崎音頭流行して是を伊勢音頭と称し」と記されており、18世紀末にはすでに川崎音頭が「伊勢音頭」という名で定着していたことが確認できます。
古市の大規模な妓楼である備前屋・杉本屋・油屋・柏屋などには専用の舞台が設けられ、「伊勢音頭桜襖」のような長唄仕立ての豪華な演目として上演されました。
せり上がりの仕掛けを備えた舞台まで作られ、伊勢音頭は単なる民謡にとどまらず、高度に発展した座敷芸・都市芸能へと成長しました。
また、当初の歌詞は「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は宮でもつ」「港でもつ」といった謎かけ調の文句でしたが、のちに「尾張名古屋は城でもつ」という現在よく知られた表現へと変化していったと考えられています。
名古屋城築城の唄
伊勢音頭の代表的な一句「尾張名古屋は城でもつ」。
この有名なフレーズから、伊勢音頭は名古屋城築城の現場に由来するという説もあります。
慶長15年(1610)、徳川家康は豊臣方を牽制し、畿内支配を固めるための重要拠点として名古屋城の築城を開始しました。
天下普請と呼ばれ、諸大名に役割分担が命じられる中、特に難工事といわれた天守台の石垣普請は、加藤清正が担当したと伝えられています。
加藤清正は築城の名手として知られ、現場主義を貫いた武将としても有名です。
巨大な石材を運び、積み上げる石曳き作業は、人力だけが頼りの危険かつ苛烈な工程でした。
その際に現場で歌われたと伝わるのが、次の一節です。
石は釣って持つ、釣って持つ石は、尾張名古屋は城で持つ
大きな石は綱で釣って運び、その石によって名古屋城が支えられているのだ、という意味合いを持つこの唄(木遣り唄)は、職人たちの間で広まっていったと考えられています。
では、この唄がどのように伊勢音頭へつながっていったのでしょうか。
伊勢神宮では二十年に一度の式年遷宮の際、御用材を山から運び出す「お木曳(おきひき)行事」が行われます。
この重労働は、隊列の呼吸を合わせ、士気を高めるために唄が必要不可欠でした。
そこで、名古屋城の築城で知られるようになった節回しや言い回しがこのお木曳唄にも取り入れられ、さらに「ヤートコセー」「ヨーイヤナ」といった古くからの囃子が加わって、地域的な色彩を帯びた独自の節として再構成され、現在の伊勢音頭へとつながっていったと考えられています。
伊勢神宮の御木曳木遣り
一方、伊勢神宮の木遣り唄そのものが伊勢音頭の起源であり、のちに「尾張名古屋は城でもつ」という節が付け加えられたとする説もあります。
伊勢神宮では古来より、式年遷宮の御用材を曳き出す御木曳(おきひき)の際に木遣り唄が歌われました。
この木遣り唄には、すでに「ヤートコセー」「ヨーイヤナ」といった囃子言葉が用いられており、現在の伊勢音頭に見られる特徴的な節まわしの原型が存在していたと考えられています。
- イヤトコシエ(弥長久):御鎮座の喜びとともに、国家の隆盛も久しく続くようにという願い。
- ヨーイヤナ(世怡弥成):世の形が整い、ますます大成したという意味。
- アララ(安楽楽):これで安心し、楽になったという意味。
- コレワイセ(是者伊勢):この場所こそ伊勢国であり、大神の御鎮座に最もふさわしい地であるという意味。
- ヨイトコイセ(善所伊勢):伊勢はまことに良い場所であるという意味。
これらの類似性が、木遣り唄起源説を裏付ける根拠とされています。
その後、「尾張名古屋は城でもつ」という句が祝歌的な文句として加わり、江戸時代に名古屋城築城にまつわる作業歌や木遣りの節が広まる中で、伊勢に伝わっていた木遣り節にも取り込まれていったと考えられています。
こうした変化を経て、現在よく知られる伊勢音頭の形が整えられていったとみられます。
もっとも、伊勢音頭は川崎音頭や古市音頭など複数の系統が交わって成立した複合的な民謡であるため、起源を一つに断定することはできません。
ただし、伊勢音頭における囃子言葉の由来や精神性を考えるうえで、木遣り唄起源説は重要な視点の一つといえます。
今治から伊勢へ。藤堂高虎が運んだ築城の唄
伊勢音頭の起源については実に多くの説が語られていますが、その一つとして、今治で生まれた作業歌が源流となったとする興味深い説があります。
この説では、藤堂高虎の大規模な築城事業に従事した人夫たちが歌った作業歌が伊勢地方へ持ち込まれ、後に伊勢音頭の節まわしの基礎となったと考えられています。
1608年(慶長十三年)頃、藤堂高虎は今治城の主要部分を完成させましたが、同年、徳川家康の命により伊賀・伊勢の安濃津へと移封されました。
九月に伊賀上野城、十月には津城へ入城し、安濃津城(津城)を新たな藩庁として整備していきます。
高虎は平時の政庁を津城、有事の拠点を伊賀上野城と位置づけ、西に構える大坂城の豊臣方に備えるため、両城の大規模な改修を推し進めました。
とくに津城では、本丸・二の丸・三の丸を備えた輪郭式の堅固な城郭構造への改修、石垣や堀の整備、侍屋敷や町人地の造成など、城下町建設が活発に行われました。
この津城普請の現場で歌われたと伝えられるのが、今治築城で生まれた作業歌「よいやな節」です。
築城の重労働のリズムを合わせるために歌われたこの節は、とくに「ヨイヤナ、ヨイヤナ」という反復的な掛け声が特徴でした。
今治から高虎に従った職人・人夫が多く参加していたこともあり、この唄が自然と津の現場へ持ち込まれたとみられています。
興味深いのは、この「ヨイヤナ」という掛け声が伊勢音頭の中にもはっきりと残っている点です。
ヤートコセ
ヨイヤナ
という伊勢音頭の代表的な合の手は、語調やリズムの面で「よいやな節」と極めてよく似ており、作業歌としての名残を感じさせます。
さらに津の地で歌われるなかで、伊勢地方の言葉や旋律が加わり、地域独自の節として再構成されていきました。
こうした変化の積み重ねによって、江戸中期以降には「伊勢音頭」としての形が整っていったと考えられています。
吹揚神社の祭りに残る「よいやな節」
伊勢音頭の起源には複数の説がありますが、それはこの唄が特定の土地だけで完結して生まれたのではなく、さまざまな地域の文化や人々の暮らしの中で形を変えながら受け継がれてきた証でもあります。
民俗音楽の世界では、労働歌が座敷唄や祭礼歌へと変化し、さらには地域を越えて別の民謡へと姿を変えることは珍しくありません。
作業のリズムを合わせるための掛け声は、宴席の賑わいの唄となり、旅人が口ずさむ道中唄となり、やがて地域の祭礼で人々の心を一つに結びつける唄へと発展していきます。
今治城築城の現場で生まれた作業歌「よいやな節」も、その典型です。
人夫たちが石を動かし、杭を打ち、土を固める中で自然に口ずさんだ掛け声は、やがて祝いの席や旅の唄として親しまれ、民衆文化の中で少しずつ形を変えながら今日まで息長く受け継がれてきました。
現在も今治の町には、祭りの季節になると「よいやな」の声が力強く響きます。
その中心となるのが、今治城本丸跡に鎮座する吹揚神社です。
築城に関わった人々の記憶を今に伝えるこの神社では、古くからの「よいやな節」が地域の祭礼の中で受け継がれてきました。
毎年五月の第二土曜日に行われる吹揚神社の春季例大祭では、この“よいやな節”が今もはっきりと歌われています。
見たか聞いたか吹揚城は
ヨイヤナ ヨイヤナ大手はす池 ボラが飛ぶ
アーラヨーイ ヨーイ ヨイーヤーナ
ハリワイナ コリワイナ
アラヨーイ トーセーめでためでたの若松様よ
ヨイヤナ ヨイヤナ枝も栄えて葉も茂る
アーラヨーイ ヨーイ ヨイーヤーナ
ハリワイナ コリワイナ
アラヨーイ トーセーそろたそろたよ若い衆がそろた
ヨイヤナ ヨイヤナ秋の出穂(でほ)より よくそろた
アーラヨーイ ヨーイ ヨイーヤーナ
ハリワイナ コリワイナ
アラヨーイ トーセー花は吹揚 紅葉(もみじ)はお佐礼(され)
ヨイヤナ ヨイヤナ燧灘(ひうちなだ)には 亀が浮く
アーラヨーイ ヨーイ ヨイーヤーナ
ハリワイナ コリワイナ
アラヨーイ トーセー
威勢のよい掛け声とともに、大神輿・女神輿・若神輿、そして勇壮なやぐら太鼓が城下町を練り歩きます。
かつて築城の現場で響いた掛け声が、いまや今治の春を彩る祭礼の象徴として、町に活気と誇りをもたらしています。
吹揚神社から響く「よいやな」の声は、今治城を築いた人々の息づかいと歴史を今に伝え、この土地ならではの文化遺産として今日も受け継がれています。