ふんわりとした肌触り、優れた吸水性、そして確かな品質。「今治タオル」は、日本国内のみならず、世界でも高く評価されているブランドです。
しかし、その誕生までの道のりは決して平坦なものではありませんでした。今治の地でタオル産業が根付くまでには、多くの挑戦と試行錯誤が繰り返され、幾度となく逆境を乗り越えてきた歴史があります。
では今治タオルがどのように発展し、日本を代表するタオルブランドへと成長したのでしょうか?
その歴史を紐解いてみましょう。
今治における繊維産業の最初の記録
日本の繊維産業の歴史は、弥生時代中期(紀元前後)にさかのぼります。
この時期、中国大陸や朝鮮半島から養蚕(ようさん)技術が伝わり、繭(まゆ)から糸を繰り出し、絹織物を作る技術が広まりました。
この技術は、気候や地理的条件に恵まれた地域で発展を遂げ、日本各地で特色ある織物が生産されるようになりました。
今治の繊維産業の歴史をたどると、その最古の記録は746年(天平18年)に見つかります。
この年、伊予国越智郡(現;今治市)から、白絁(あしぎぬ)と呼ばれる絹織物が朝廷への貢納品として正倉院に奉納されました。
この記録は、日本の繊維史において極めて重要なものであり、8世紀の時点ですでに今治が織物の生産地として確立されていたことを示しています。
白絁は太糸で織られた粗製の絹布であり、当時の地方産業を代表する織物の一つでした。
初代今治藩主「松平定房」が築いた今治繊維産業
今治の織物文化の礎は、江戸時代初期の今治藩の初代藩主・松平定房(まつだいら さだふさ)によって築かれました。
寛永12年(1635年)、伊勢長島藩から今治藩3万石へ加増された定房は、領民の暮らしを豊かにするために産業の振興に力を注ぎます。
なかでも、蒼社川が運ぶ肥沃な土壌と、温暖な気候を活かした綿花の栽培を奨励し、さらに塩田開発を推進しました。
この取り組みが、綿織物の生産を盛んにし、やがて今治が繊維産業の町として発展する礎となります。そして、この伝統の延長線上にあるのが、日本屈指の品質を誇る「今治タオル」です。
織物が救った藩財政
江戸時代中期以降、多くの藩が財政難に陥りました。
その理由は、大名たちが毎年のように江戸と領地を行き来する「参勤交代」の負担が重くなったことや、天候不順や新田開発の限界で年貢の収入が伸び悩んだこと、そして経済の中心が次第にお金のやり取りへと移っていく中で、米を軸にした財政運営が立ち行かなくなったことなどが挙げられます。
しかし、今治藩は初代藩主・松平定房による綿花栽培の奨励と、領内の温暖な気候が相まって発展し、幸運にも綿布(めんぷ)という確立された産業を有していました。
これにより、藩の重要な収入源となり、財政を支える大きな力となっていました。さらに、今治の綿布は品質の高さで評判を呼び、全国各地に流通することで藩の経済を下支えしました。
多くの藩が米を基盤とした年貢収入に依存し、不安定な財政に苦しむ中、今治藩は織物産業を通じて安定した財政を維持し、時代の波を乗り越える力を持っていたのです。
今治藩を支えた商人「柳瀬義達」
この中で重要な役割を果たしたのが、今治藩の御用商人であった柳瀬義達(やなせ よしたつ) です。
柳瀬家は、今治藩の御用商人として藩の財政や物資の調達を担い、「大年寄(おおどしより)」の格式を与えられるほどの影響力を持つ家系でした。
「大年寄」 とは、単なる商人の枠を超え、藩主を補佐し、町政や藩財政に直接関与する特別な役職 でした。
通常、町の統治を行う町年寄の上位に位置し、藩政に関わる商人として非常に高い地位を誇っていました。この格式を与えられた柳瀬家は、今治の商業と藩の政治の双方を動かす力を持つ存在となっていました。
「柳瀬家の始まり」今治を支えた商才
柳瀬家をここまでの地位へと導いたのは、義達の祖先・柳瀬七郎兵衛の功績によるものでした。
七郎兵衛は、天正年間(1573~1592年)に野間郡来島村(現在の愛媛県今治市)から今治へと移り住みました。
その後、慶長7年(1602年)、藤堂高虎が今治城の築城に着手し、翌年の慶長8年(1603年)には城下町の整備として今治町割(城下町の区画整理)が進められました。
この流れの中で、七郎兵衛は室屋町(現在の今治市本町付近)に定住し、「柳瀬屋」という屋号を掲げる商家を構えました。
七郎兵衛は、優れた商才を発揮しながら町の経済に貢献し、次第に今治町の「年寄役(自治を担う役職)」を務めるようになりました。
町年寄は、今治城下の町人を統括し、商業の発展や治安維持などを担う立場でした。七郎兵衛はこの職を務めることで、今治の経済の中心人物としての地位を確立していきました。
さらに、寛永12年(1635年)に今治藩主となった松平定房(まつだいら さだふさ)から、「代御用達(だいごようたし)」 の役職を命じられました。
これは、単なる商人ではなく、藩の財政を管理し、藩政に必要な物資を調達する責任を持つ極めて重要な役職でした。
それだけではなく「大年寄」の格式を与えられました。「大年寄」とは、通常の町年寄よりもさらに上の立場にあたり、藩主を直接補佐し、藩政や町政に強い影響力を持つ役職でした。
以降、七郎兵衛は今治町の行政に関わるだけでなく、藩の経済運営にも深く関与し、今治の発展に大きく貢献していきました。
白木綿の価値を見抜いた男
この柳瀬家の四代目として、享保5年(1720年)10月1日に生まれたのが柳瀬義達です。
柳瀬義達は幼い頃から商家の経営や流通の仕組みを学び、家業を引き継ぐと、今治藩の勘定所(財務を管理する役所)での役目も担い、格式の高い裃(かみしも)の着用を許されるほどの影響力を持つようになりました。
そんな中で、享保年間(1716~1736年)のある日、農家の女性たちが副業として織っていた白木綿が、大阪で高値で取引されていることを知りました。
この白木綿の商業的な価値にいち早く気づいた義達は、生産をさらに拡大し、流通を円滑にするために、「綿替木綿(わたがえもめん)」という独自の取引制度を導入しました。
「綿替木綿」が生んだ経済革命
綿替木綿の仕組みはシンプルでありながら、とても合理的なものでした。
まず、商人が木綿の原料である実綿(みわた)を農家の女性たちに渡します。
実綿には種が含まれていたため、受け取った農家の女性は綿繰り(わたくり)と呼ばれる作業で種を取り除き、糸にできる綿へと加工します。
その後、加工した綿を紡いで糸にし、手織り機を使って「白木綿(しろもめん)」へと織り上げて、一定量が整った段階で、再び商人のもとへと納品されます。
商人は、あらかじめ渡していた実綿の代金を差し引いた上で、農家に報酬を支払います。
この仕組みの重要なポイントは、報酬を現金で受け取ることも、新たな実綿と交換することもできたという点です
たとえば、報酬を実綿と交換すれば、農家は前回よりも多くの原料を確保できることになります。それを織り上げることで、さらに収入が増えるという好循環が生まれていったのです。
つまり、農家にとって綿替木綿は、安定した仕事を得ながら、努力すればするほど利益が上がるやりがいのある生業となり、次第に多くの人々がこの織物産業に従事するようになっていきました。
一方、商人にとってもこの制度は大きなメリットをもたらしました。
白木綿を安定的に確保できる体制が整ったことで、確実に利益を得られるだけでなく、販路の拡大にもつなげることができたのです。
綿花不足を乗り越えろ!
しかし、順調に見えた今治の木綿産業にも、実は大きな課題がありました。
それは、今治では綿花の栽培がそれほど盛んではなかったため、農家が必要とする実綿を地元だけでまかなうことができなかったという点です。
この不足を補うため、商人たちは大阪や讃岐(現在の香川県)、備後(現在の岡山県)などの地域から大量の実綿を仕入れ、
地元の農家に供給することで、生産体制を維持していました。
こうした取引の総量は、今治周辺で実際に生産される綿の10倍にも達したとされ、今治の木綿産業がいかに広範な経済圏と結びついていたかを物語っています。
拡大する今治木綿産業と藩の支援策
白木綿の供給が安定するにつれ、今治の木綿産業は急速に発展し、多くの商人がこの事業に参入するようになりました。
今治藩も、この成長の流れを見逃さず、綿替木綿制度を支援するための奨励策を講じて、生産のさらなる拡大を後押ししていきます。
その結果、「綿替木綿商人」と呼ばれる商人たちが次々と現れ、農家の女性たちもより積極的に織物に携わるようになっていきました。
木綿織りは、もはや単なる副業ではなく、今治の地域経済を支える基幹産業へと成長していったのです。
木綿織りの繁栄ぶりを示すひとつの証拠として、安永2年(1773年)8月に今治藩が、綿実の移出および原綿の移入に対して課税を開始したことが挙げられます。
これは、木綿産業の拡大にともなって取引量が大幅に増加したことを受け、藩が新たな財政収入を確保するために講じた施策でした。
このとき、柳瀬義達は課税制度の「取立掛り(とりたてがかり)」=徴収役に任命され、木綿流通に関する財務管理にも深く関わるようになりました。
名商人・柳瀬義達の最期
その後、安永5年(1776年)12月、義達は「大年寄添役(おおどしよりそえやく)」を命じられました。
これは、大年寄としての職務を補佐する役目であり、義達の商才と政治的な影響力がいかに評価されていたかがわかります。
しかし翌年、安永6年(1777年)9月8日、義達は58歳で病に倒れ、今治市日吉の「観音寺(今治市・今治中央地区)」に静かに葬られました。
長年にわたり今治の経済と木綿産業を支え続けた義達は、観音寺の静寂の中で静かに眠りながら、かつて築き上げた木綿産業の歴史とともに、今治の発展を見守り続けています。
伊予木綿が迎えた試練の時代
義達の死後も、今治の木綿産業は衰えることなく発展を続けました。
特に、9代目・柳瀬忠治義広の時代には、産業の規模はさらに拡大し、今治木綿は国内でも重要な地位を占めるようになりました。
やがて、嘉永年間(1848~1854年)には、年間30万反にもおよぶ白木綿が生産されるまでに成長。
この時期、「伊予木綿」は全国的に知られるブランドとなり、その名は広く流通の網に乗っていきました。
品質の高さと安定した生産力は各地で高く評価され、伊予木綿は、庶民の日常着から上質な織物まで、幅広い用途に用いられるようになります。
さらに、大阪や江戸(現在の東京)など都市部にも販路を拡大し、今治の名は全国に広く知られる存在となっていきました。
しかし、時代はやがて大きな転換点を迎えます。
明治時代に入り、日本の繊維業界が急速に近代化へと舵を切る中、伊予木綿はかつてない危機に直面することとなったのです。