明治10年代後半、繊維業界は過激な市場競争の中にありました。
関西地方で生産される安価で質の良い綿製品や、外国から輸入された金巾(綿布の一種)が大量に流入した結果、白木綿がまったく売れなくなってしまったのです。
白木綿の一台産地であった今治の織物産業も、これによって大きなダメージを受けることになり、生き残りをかけてより付加価値のある製品の開発が求められるようになりました。
今治綿業の父「矢野七三郎」
この危機を前にして、今治の織物産業を守るために立ち上がったのが、後に今治綿業の父と称されることになる「矢野七三郎(やの しちさぶろう)」です。
七三郎はもともと家業である海運業や酒造業に携わっていましたが、今治特産の白木綿が衰退していくのを憂い、事業を弟に譲り、自ら織物業に転身しました。
そして、新たな織物の可能性を求めて辿り着いたのが、和歌山で発展していた「紀州ネル」でした。
紀州ネルは片面を毛羽立たせた平織の綿織物で、柔らかく温かみのある生地は、特に肌着や防寒着に適しており、今後の市場拡大が期待される織物でした。
明治18年(1885年)、同志3名とともに和歌山へ渡り、現地のネル工場で働きながら製綿技術を学びました。
しかし、それだけでは満足せず、翌年1月には単身で再び和歌山へ赴き、より専門的な製織技術の研究に没頭しました。
そしてついに、紀州ネルの技術をもとに改良を加え、今治の気候や市場ニーズに適した独自の製品「伊予ネル(伊予綿ネル)」を作り上げました。
綿ネル工場「興修社」の設立
明治19年(1886年)3月、七三郎は新しい技術を取り入れるため、染色職人と毛掻き職人を各2名雇い、機械8台を購入しました。
こうして、これまでの伝統的な繊維産業の枠を超え、今治に新たな生産拠点を築くための準備が整えられたのです。
しかし、新しい産業を興すには、資金や経営の知識、販路の確保が不可欠でした。そこで七三郎は伯父の「柳瀬義富(やなせよしとみ)」を頼ることにしました。
柳瀬義富は、代々今治の経済と商業を支えてきた柳瀬家の一人で、義富もまたその流れを汲み、商業の才に長けた人物でした。
そのため、新しい産業の創出に対する理解も深く、特に七三郎の挑戦には大きな期待を寄せていました。
一方で、七三郎はこの工場を単なるビジネスのためではなく、今治地方の産業そのものを生み出し、地域全体の経済を豊かにしようと考えていました。
そこで七三郎はその強い志を込めて「興修社」という名前に決めました。
義富もその理念に深く共感し支援を約束しました。
こうして今治に戻った七三郎は、理念に共感してくれた仲間たちと共に、綿ネル工場の設立に向けて動き出しました。
苦難の道のりと綿ネルの歴史の幕開け
しかし、創業からわずか半年で会社は経営難に陥り、設立メンバーである役員たちは自分の将来のことを考え、次々と辞めていきました。
このような状況の中でも七三郎は諦めず再建のために奔走し、なんとか新たな工場を建設をするまでになりました。
ここでさらなる試練が七三郎を襲います。なんと、工場の完成を目前にして暴風雨が襲来し、建物が倒壊してしまったです。
それでも七三郎の心は折れることなく工場を再建し、自ら関西から九州まで足を運んで、伊予ネルを売り込んでいきました。
このような努力が実を結び、伊予ネルの製造は軌道に乗せることに成功しました。
この成功は単なる事業発展にとどまらず、今治における綿ネル製造の歴史の幕開けを告げるものでもありました。
伊予ネルが導いた今治再興
伊予ネルは、従来の綿布に染色や毛掻きの技術を取り入れたことで、より温かみのある柔らかい風合いを持ち、その着心地の良さと耐久性が評価され、特に寒冷地での防寒着や寝間着としての需要が急増しました。
特に、大阪や広島の軍需工場では「伊予ネル」が軍服の裏地や軍需品として採用されるようになり、生産量は一気に拡大しました。
明治27年(1894年)には生産量が5万6千反に達し、今治の織物産業は再び活気を取り戻しました。
クリスマス・イヴの悲劇
七三郎の功績は、単に伊予ネルを生み出したことにとどまらず、自らの技術を惜しみなく周囲に伝え、今治の織物産業の基盤を築くことに尽力した点にあります。
その熱意と努力により、多くの職人や事業者が伊予ネルの製造に参入し、今治全体の織物産業は急速に発展していきました。七三郎が生み出した技術とその精神は、今治の産業にとって礎となり、地域に豊かさをもたらしたのです。
そんな希望に満ちた時代の中、1889年(明治22年)も師走を迎え、今治の町は新年への期待に胸を膨らませていました。年末の冷たい風にも負けず、活気にあふれた町並みには、次の時代への希望が溢れていました。
新しい年を迎えるまであと少しとなった、12月24日のクリスマスイヴの夜。町は前夜祭を祝う人々の笑顔に包まれ、穏やかな時間が流れていました。
敬虔なクリスチャンでもあった七三郎は、この夜、クリスマスミサに参加するため教会を訪れ、荘厳な鐘の音に包まれながら静かに祈りを捧げました。
ミサが終わり、自宅へと向かう七三郎。その心には、新しい年に向けた希望や、伊予ネルのさらなる発展に対する思いが膨らんでいたのかもしれません。
しかし、自宅に帰り着いた七三郎を待ち受けていたのは、あまりにも残酷な運命でした。
その夜、七三郎は静寂に包まれた自宅で穏やかな眠りについていました。しかし、その安息の時間は突如として断ち切られます。闇夜の静寂を破るように、一人の強盗が侵入し、容赦なく刃を振り下ろしたのです。
抵抗する間もなく襲われた七三郎は、無情にもその命を奪われました。
この時、わずか35歳。
この衝撃的な知らせは瞬く間に町中を駆け巡り、繊維産業に携わる人々だけでなく、地域全体が深い悲しみに包まれました。
クリスマスの幸せな空気は一変し、町は悲しみに沈みました。
今治の繊維産業を牽引するはずだった若きリーダーの死は、今治の織物産業に大きな影を落としました。伊予ネルの将来は、一時的に不透明となり、その存続を不安視する声も少なくありませんでした。
しかし、七三郎が残した思いは、確かに周囲の人々の中に生きていました。志を同じくする者たちが、その意志を受け継ぎ、再び糸を紡ぎ始めたのです。
今治繊維産業の礎を築いた偉人
今治の繊維産業を大きく発展させた矢野七三郎は、今なお今治市において深く敬われ続けています。
1907年(明治40年)、繊維産業への貢献が認められ、産業功績者として農商務大臣賞を受賞。
明治44年(1911年)には、その偉業を讃えて、今治城内の吹揚公園に銅像が建立されました。
台座に刻まれた「首倡功(しゅしょうこう)」の文字は、「首(はじめ)て功(こう)を倡(とな)う」と読み、産業の礎を築いた先駆者としての功を表すものです。
さらに平成2年(1990年)9月には、今治織物工業協同組合によって、銅像の前に七三郎の生涯と今治繊維産業への貢献を記した頌徳碑(しょうとくひ)が建立されました。
七三郎は、今治市大西町宮脇の丸山墓地に埋葬されており、その志は今もなお、今治市に、そして織物を織り続ける人々の手のなかに、静かに受け継がれています。