矢野七三郎が非業の死を遂げた後、多くの人々がその志を受け継ぎ、今治の繊維産業を発展させていきました。その中でも特に重要な役割を果たしたのが、七三郎に投資をしていた伯父・柳柳瀬義富(やなせよしとみ)でした。
今治繊維産業を近代化へ導いた男
前回の記事の通り、柳瀬家は代々今治の経済と商業を支えてきた名家の一員で、柳瀬義富も商業の才に長けた人物でした。若くして両親を無くした柳瀬義富は16歳で家業を継ぎ、弟の矢野節太と共に廻船業や醸造業を営んでいました。
柳瀬義富は1886年(明治19年)、には弟の矢野節大の長男である矢野七三郎の理念に共感し、七三郎を社長に据えて「興修舎」を設立しましたが、1889年(明治22年)に社長の七三郎が非業の死を遂げてしまいました。
この出来事を受け、1892年(明治25年)に柳瀬義富は七三郎の意思を引き継ぎ、興修舎を「工業舎(柳瀬工業舎)」として名前を変えて事業を始めました。そして、その手腕を大きく発揮し、事業の基盤を強化され、販路の拡大や技術革新に注力することで、今治の繊維産業をより近代的なものへと成長させました。
伊予ネル産業の発展と新たな経営者たち
かつて七三郎のもとで働いていた仲間(職工)たちも、次第に独立し、新たな経営者として伊予ネルの製造・販売を担う事業を次々と立ち上げていきました。その中には、岡田恒太や宮崎三郎(現・みやざきタオル株式会社の創業者)といった人物も含まれていました。彼らの挑戦により、伊予ネル産業は新たな局面を迎えることになりました。
こうした流れの中で、1895年(明治28年)には「伊予綿ネル業組合」が設立され、業界全体の組織化が進みました。これにより、産業基盤がより強固なものとなり、伊予ネル産業はさらなる成長を遂げることになりました。
翌1896年(明治29年)には、村上熊太郎が「村上綿ネル合資会社」を設立し、伊予ネル産業の発展をさらに押し上げました。こうして伊予ネルは、西日本屈指の繊維産業へと成長し、今治の産業を支える重要な柱となっていきました。
株式会社化「工業舎」
明治40年(1907年)には、工業舎が株式会社化され、新たな経営者として丹下辰雄(建築家・丹下健三の伯父)がオーナーに就任しました。丹下の指揮のもと、柳瀬義富は経営の近代化をさらに推し進め、大規模な組織改革を実施。これにより、伊予綿ネル(伊予ネル)はさらなる成長を遂げ、その技術はタオルや染色、縫製などの繊維関連産業にも応用されるようになりました。
この功績から、丹下辰雄は後に「伊予織布界の恩人」として称えられることとなります。
「西洋化」明治時代のファッション革命
矢野七三郎の志を受け継ぎ、多くの経営者が今治の繊維産業を発展させてきましたが、時代の流れとともに業界には新たな問題が生じていました。
それが西洋化です。
明治時代、政府は欧米列強に対抗するために、機械制工業や鉄道網整備、資本主義育成などの西洋化政策を推進しました。これらの政策は「殖産興業」と呼ばれ、富国強兵と並ぶスローガンとして掲げられました
この波は、人々の暮らしにも大きな影響を与え、それまでの日本の伝統的な生活様式を大きく変えていきました。
特に服装の面では、明治維新を境に洋装化の流れが加速し、それまでの和装中心の文化は、都市部を中心に急速に変化していったのです。
1873年(明治6年)の徴兵令施行により、軍服の着用が義務化され、多くの若者が洋装に慣れ親しむ機会を得ました。これは単なる服装の変化にとどまらず、西洋式の軍事制度を確立する重要なステップとなりました。
同時に、警察制度の改革に伴い、警官の制服も洋装化され、官公庁で働く人々の服装にも影響を与えました。
また、鉄道や郵便事業の発展とともに、これらの分野で働く職員の制服も洋装化が進みました。特に都市部では、洋服の利便性が認識され、商人や職人の間にも洋装が広がり始めました。
さらに政府は、欧化政策の一環として一般市民にも洋装を奨励し、日本人の生活様式そのものが西洋化していきました。
明治後期には、学校教育の発展により学生服の洋装化が進みました。男子は詰襟の学ラン、女子はセーラー服や袴姿が定着し、若い世代の間で洋服が日常的なものになっていきました。
特に女子の服装に関しては、西洋式のドレスが普及する一方で、日本の伝統的な袴との折衷スタイルが広まるなど、新たな文化の融合が見られました。
また、都市部では椅子やテーブルを使う西洋式の生活が一般化し、帯を締める和服よりも動きやすい洋服が実用的であると考えられるようになりました。
特に官庁や企業のオフィスで働く人々の間では、スーツにネクタイといった西洋式の服装が標準化され、和服の着用が徐々に減少していきました。
この流れの中で、和装向けの繊維産業はこれまでの手法のまま続けることが難しくなり、徐々に衰退していくこととなりました。
しかし、一時的に繊維産業は大きく支えられることになりました。
それが大正時代に勃発した第一次世界大戦です。
第一次世界大戦の経済特需
第一次世界大戦(1914年~1918年)の勃発により、戦場となったヨーロッパ諸国では生産活動が停滞し、それまで欧州が供給していた多くの物資が世界的に不足しました。戦火に巻き込まれなかった日本は、世界中から注文が殺到し、輸出額は大幅に増加。
これにより、日本はそれまでの貿易赤字から一転し、貿易黒字を達成するなど、経済全体が好況に沸きました。
この戦争特需によって、特に綿織物や毛織物の生産が急増し、日本製の繊維製品は国内だけでなく、中国や東南アジア、さらには欧米市場へも輸出されるようになりました。大阪を中心とする綿織物産業は拡大し、広島や今治ではネル生地などの特殊な繊維製品が軍需品としても採用され、軍服の裏地や防寒着としての需要が高まり、生産量は飛躍的に増加していきました。
さらに、戦争を契機に重化学工業が発展し、染色技術の向上や織機の機械化が急速に進んだことで、日本の繊維産業は従来の手工業的な生産から、より効率的な大規模生産へと移行し、より安定した供給が可能となりました。
これにより、日本の繊維産業は単なる国内市場向けの産業から、国際市場で競争力を持つ産業へと変貌していったのです。
戦後恐慌での不況
第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)以降の日本は、戦争特需の反動により、需要が急減しました。これに伴い、供給過多の状態が生じ、市場競争が激化した結果、不況が訪れました。特に、戦時中に発展した重工業や輸出産業は大きな影響を受け、企業の倒産や失業者の増加が社会問題となりました。この不況は「戦後恐慌」と呼ばれ、日本経済に大きな打撃を与えました。
繊維業界は機械化が進んでいたものの、今治の伊予綿ネルは依然として手織り中心の生産体制のままで、時代の中に取り残されつつありました。
さらに、忘れかけていた西洋式の服装は庶民の間にさらに広がっていきました。特に女性の服装の変化が顕著で、「モダンガール(モガ)」と呼ばれる若い女性たちは、和洋折衷のスタイルを取り入れ、活動的な洋服を着るようになりました。
また、百貨店の発展により、既製服の販売が一般化し、それまで仕立て屋で注文しなければならなかった洋服が、手軽に購入できる時代へと移り変わっていきました。
こうした社会の変化は、和装に欠かせなかった足袋の需要にも大きな影響を与えました。 足袋を履く人が減るにつれ、足袋の裏地として使用されていた綿ネルの需要も急速に低下しました。
衣類の素材としてメリヤス生地(ニット素材)も登場し、伸縮性と柔らかさを兼ね備えたこの新素材が、従来の綿ネルに代わる選択肢として広く普及していきました。
このような影響により、伊予ネル産業は大正6〜7年(1917〜1918年)頃にピークを迎えたものの、その後急速に衰退。かつて軍需品や防寒着として隆盛を誇った伊予綿ネルも、生活様式の変化によって市場を失い、多くの工場が廃業に追い込まれることとなりました。
設備の近代化と技術革
こうした状況の中で、伊予綿ネルが生き残るためには、設備の近代化と技術革新が急務でした。
この危機に対応するため、柳瀬義富率いる興業舎と村上綿ネル合資会社が中心となり、新たに蒸気機関やボイラー設備を導入し、起毛機を設置するなど、生産の合理化と近代化が急ピッチで勧められていきました。
その結果、製品の品質が向上し、片面起毛の「片毛ネル」などの新製品が開発されると、伊予綿ネル産業は再び勢いを取り戻すことができました。
そして、大正末期の1925年(大正14年)から1926年(大正15年)にかけては、ほとんどの工場が機械化され、綿ネル業界における産業革命を実現をしました。これにより、生産効率が大幅に向上し、伊予綿ネルは国内市場のみならず海外市場にも進出することが可能となったのです。
なかでも今治では、独特の風合いを持つ白綾ネルに注力し、かつての市場であった南シナ方面だけでなく、遠く旧ソ連、シンガポール、南洋地域へと市場を拡大していきました。さらに、中国や朝鮮では合弁事業が興るまでに成長し、今治の織物産業を支える重要な柱へと発展を遂げ、現在まで続く「繊維産業の町」としての地位を確立していくことになりました。
一方、これらの時代の中で、伊予ネルは少しづつ衰退を余儀なくされていました。しかし、伊予ネル産業の発展によって培われた今治の織物技術は、新たな製品開発へと活かされることとなったのです。
その製品こそが「タオル」です。
柳瀬義富の功績とその遺産
柳瀬義富は1914年(大正3年)6月13日にこの世を去り、代々繊維業の発展に携わってきた柳瀬家の一族とともに、今治市山方町の「観音寺(今治市・今治中央地区)」に埋葬されました。
その功績は没後も高く評価され、今治の殖産興業の最大の功労者として称えられています。今治図書館の鷺ノ町公園には銅像が建立され、長年にわたり市民に親しまれてきました。現在は、令和6年(2024年)の芝生ガーデン整備計画に伴い、裏手の駅南公園へと移設されましたが、その存在は変わらず今治の繊維産業を見守り続けています。
また、今治城近くの有津屋公園には、柳瀬義富を称える石碑「柳瀬翁碑(頌徳碑)」が設置されています。この石碑は、大正6年(1917年)に天保山町に建立され、後に蔵敷(現旭町5丁目)へ移されました。
そして昭和49年(1974年)、再び天保山町の有津屋公園(愛媛県今治市東門町1丁目6-6)へ戻され、現在もなお柳瀬義富の偉業を後世に伝え続けています。