今治タオルの歴史は、1894年(明治27年)に阿部平助の手によって始まりましたが、当初は産業として振るわず、明治時代の終わりまで今治のタオル産業は本格的な発展を遂げることはありませんでした。
その理由のひとつに、生産設備と技術の未熟さが挙げられます。
阿部平助が導入した「打出式織機(うちだししょっき)」は、今治におけるタオル製造の礎となりましたが、一列ずつしか織ることができず、生産効率に難がありました。
大量生産には適しておらず、当時の需要に応えるには力不足だったのです。
加えて、市場の未開拓も大きな壁となっていました。
当時の国内では、タオルよりも「手拭い」が一般的に使用されており、タオル自体の認知や需要がまだ限られていました。
さらに、すでにタオル産業が根付いていた大阪・泉州や三重といった地域に比べ、今治は後発組であり、広い市場に販路を築くことが難しかったのです。
また、明治期の今治では、タオルよりも綿ネル(起毛した綿織物)、つまり「伊予ネル」が主力産業でした。
多くの織物業者がこのネル生産に従事しており、すでに確立された産業からタオル生産へと移行する動きは鈍く、結果として地域全体でタオルに取り組む機運は高まりませんでした。
こうした背景から、タオル産業はゆるやかな成長にとどまり、当時の今治において、主力産業と呼べるほどの広がりは持てなかったのです。
この停滞した状況を大きく変えたのが、のちに「今治タオルの中興の祖」と呼ばれることになる、「麓常三郎(ふもと つねさぶろう)」です。
麓常三郎が描いた未来の産業
慶応4年(1868年)4月13日、越智郡盛村(現・上浦町)で、村でも名の知れた資産家・麓英太郎の長男として、麓常三郎は生まれました。
経済的にも文化的にも恵まれた家庭のもと、長男として大切に育てられた常三郎は、幼いころから高い教養を身につけ、やがて地域社会に尽くす心を自然と培っていきました。
小学校を卒業後、広島県三原市にある臨済宗の本山・仏通寺に入門し、修行を積みました。 ここでの経験は、後の人生における彼の堅実な経営姿勢や精神的な強さを育む大きな糧となりました。
修行を終えた常三郎は、村の将来を真剣に見据える若者へと成長していました。
その姿勢は、やがて地域からの信頼を集め、若くして村の収入役に任命されると、村政に深く関わっていきました。
「若者の力なくして村の未来はない」
常三郎は村の青年たちを対象に「積善会」という自主的な教育組織を立ち上げ、自ら夜学を開設して、読み書きや道徳、経済の知識まで丁寧に教えました。
その活動は、まるで吉田松陰が松下村塾で志ある若者たちを育てた姿を思わせるものだったと語り継がれています。
しかし、常三郎は次第に「行政の力だけでは村の未来を切り拓くには限界がある」と考えるようになっていきます。
真に豊かな地域を築くには、産業の力が必要だ!そう確信した常三郎は、意を決して村役場を辞職。自らの手で新たな産業を興し、地域の未来を支えることを決意したのです。
綿織会社の設立と今治への進出
明治27年(1894年)頃、村役場を辞めた常三郎は、大三島北東部の盛村に木綿会社「㋚綿織会社」を創業しました。
当時、今治周辺では織物産業が徐々に広まりを見せていましたが、常三郎はその可能性にいち早く目を向け、地元の力だけでなく外部市場とも結びついた本格的な事業展開を志しました。
明治36年(1903年)には、事業のさらなる拡大を目指し、本店を今治市内に移転。瀬戸内海の物流拠点としての今治の地の利を活かし、より広範な取引と生産体制の確立に踏み出しました。
常三郎の財力と経営手腕は、当時の地域社会でも際立っており、村の民謡には「寺は金持、麓は地持、脇の美与さん息子持」とうたわれるほど、すでに地域の名士として広く知られる存在になっていました。
しかし、常三郎はその富を誇示することなく、惜しみなく事業へと投じました。地域の雇用を生み出し、技術を育て、産業の未来を描くことにこそ、自らの使命を感じていたのです。
その後、事業は順調に成長を続け、最盛期には井口、瀬戸、大見、宮浦、野々江、台といった近隣地域にまで支店を展開。
麓常三郎の名を冠した織物は広く知られるようになり、盛村、そして今治を織物のまちとして支える大きな柱となっていきました。
タオル産業への転身と麓式織機の開発
それまで今治のタオル織機として使われていたのは、今治タオルの父と称される阿部平助(あべへいすけ)が導入した「打出式織機(うちだししょっき)」でした。
しかし、この織機では一度に一列しか織ることができず、生産性の面で限界がありました。大量生産には不向きであり、今治のタオル産業が本格的に発展するうえで、大きな障壁となっていたのです。
この課題を解決すべく立ち上がったのが、麓常三郎でした。
生産性向上への挑戦「麓式二挺筬バッタン」
常三郎は私財を惜しみなく投じ、作業工程や製織法の研究に没頭します。そして、何度も試作と改良を重ねた末、明治43年(1910年)、ついに新たな織機の開発に成功しました。
この新型織機は、広幅の布を織るための織機「バッタン(飛杼装置)」に二本の筬(おさ)を並べて設置し、それぞれが独立して動くように調整することで、両側に耳のあるタオルを同時に二列で製織できるように改造したものでした。
これによって従来の一列織り機と比べて生産能率が2倍に向上し、大量生産が可能となりました。
常三郎は、この「二挺筬(にちょうおさ)バッタン」を武器に、同年の明治43年(1910年)、今治に宮本合名会社を設立し、タオルの製造を本格的にスタートさせました。
「麓式二挺筬バッタン」の普及とタオル産業の拡大
やがて、麓常三郎が開発したこの織機は「麓式二挺筬バッタン(麓式タオル織機)」と呼ばれるようになりました。
従来の打出式織機と比べて生産性が格段に高く、また両端に耳のついた高品質なタオルを織ることができるため、当時不況に苦しんでいた白木綿業者たちは、この新型織機をこぞって導入していきました。
同じ頃、伊予ネルの生産を担っていた多くの織物業者たちも、産業の衰退により次なる一手を模索していました。
そんな中、麓式の織機は彼らにとっても理想的な選択肢でした。
というのも、伊予ネル用の織機を土台に改造すれば転用が可能で、大規模な設備投資は不要。低コストかつスピーディーにタオル生産へ移行できたのです。
さらに、伊予ネルの職人たちにはすでに織物の基本技術や機械操作のスキルが備わっていたため、新たに技術を習得する負担も少なくて済みました。
こうして、伊予ネルからタオルへと事業を切り替える業者が次々と現れ、今治の織物業界は大きな転換期を迎えます。
大正4年(1915年)になる頃には、「麓式二挺筬バッタン」は今治中に広く普及し、タオルの品質と生産性はかつてないほどに向上。
これを契機として、今治は本格的な“タオルの町”としての歩みを始めたのです。
麓常三郎が残した遺産
麓常三郎の活動は、繊維産業の発展にとどまりませんでした。
明治40年(1907年)、地元・盛村の耕地整理組合長に推されると、自らの資金を投じて貯水池の新設や耕地整理工事を支援し、農業振興にも力を尽くしました。
さらに、今治・大三島・尾道間に発動機船を就航させ、海上交通の連絡路を整備。地域の足となる交通インフラの構築にも、いち早く着手しています。
また、大正8年(1919年)から大正12年(1923年)にかけては愛媛県会議員としても活躍し、繊維、農業、交通、地域経済など幅広い分野において政策提言と実行力を発揮しました。
その柔軟な発想と先を読む力、そして惜しみない行動力によって、麓常三郎は今治の成長を多方面から支え続けたのです。
このような麓常三郎の遺した足跡は、今も今治のあちこちに、静かに、そして確かに息づいています。
教育と産業に捧げた生涯と静かな最期
そんな麓常三郎ですが、晩年には厳しい現実が待ち受けていました。事業の失敗が重なり、ついには破産に追い込まれてしまったのです。
それでも常三郎は、落胆や絶望に心を閉ざすことはありませんでした。
国鉄今治駅(現・JR今治駅)の近く、駅弁で知られた「二葉」のそばにある小さな饅頭屋「腹力饅頭」を営み、元気な声と笑顔で、日々店頭に立ち続けていたといいます。
華やかな表舞台からは退いても、その芯の強さと人懐こい温かさは、最後のときまで変わることはありませんでした。
昭和4年(1929年)8月26日、麓常三郎は61歳で静かにその生涯を閉じました。
その遺骨は、故郷・上浦町盛の西光寺に納められ、今も静かに、今治の空の下で生きる私たちを見守っています。